第50話「消えていく」
データは嘘をつきません。
協会に入った年から、それが私の名刺代わりだった。数字は願望で膨らまない。感情で欠けない。だから信じるに値する。――そのはずだった。
いま、私の手帳は左右で仕事が違う。右のページが観測値。左のページが、彼から消えたものの一覧。増えるたびに目を逸らしたくなる帳面を、私は生まれて初めて持っている。
◇
第74層。本日2体目の「こびりつき」が、通路の床から剥がれて消えた。
接敵から3分40秒。天海さんの6発が外殻を剥がし、露出1.4秒の芯を、灰崎さんが一拭き。負傷ゼロ。工程は完璧。右ページには、それだけ書けば足りる。
問題は、左だった。
「灰崎さん。歩きながらで結構です。定例の3問に、ご協力ください」
「観測対象が清掃員って、うちの班くらいですよね」
「基礎データです。第1問。いつもの定食屋の、店主のお名前は」
基線測定は出発前に済ませてある。あのとき彼は1秒足らずで答えた。領収書の宛名まで諳んじたうえ、余計な補足つきで。「達筆すぎて、読めるまで3か月かかりました」。
今は。
8秒、待った。
「……顔は出てるんですよ。ええと。……すみません、ど忘れです。よくあるやつですよ」
「結構です。第2問。妹さんの面会時間は」
「夕方です。5時までに入ると、検温とかぶらないので」
0.6秒。基線と同じ速度。手帳を持つ指から、力がすこし抜けた。
「第3問。妹さんが物真似つきで再現してくれたという、例の配信者の説は」
「ノロイ、なんとかさんでしたっけ。説は……なんか、派手なやつです」
幻影清掃部隊説。妹さんの節回しごと語れたはずの内容が、「派手なやつ」の6文字に磨り減っていた。
外れは3問中2問。……いえ。外れたのは彼の記憶ではなく、私の願望のほうだ。
「以上です。ご協力に感謝します」
「変な検診ですね。……あ、これ観測協力の手当って」
「所長に申請しておきます」
彼は笑って、モップを担ぎ直した。最後尾へ戻る背中は、いつもどおりの夜勤の背中だ。異常はどこにもない。異常が、どこにもないのだ。
左ページに2行足した。定規を当てたのに、線が曲がった。
消えるのは、戦闘直後の固有名詞から。それも生活の外周部から、内側へ向かって順に。傾向線として綺麗すぎるほど綺麗で、自分の引いた線がこれほど憎いのは初めてだった。
◇
第79層のゲートを確認して、班は一度、地上へ引き返した。第80層から先――地図の白い区間へ入る前の、工程の組み直しだ。
往路の「こびりつき」は計4体。一拭きも、4回。
帰りの昇降機で、彼は鼻歌の出だしを3回やり直して、やめた。洗剤のCMの歌。サビしか知らないと言っていたあのサビが、出てこないらしかった。所長は昇降機の隅で目を閉じていた。眠ってはいない。籠手の革だけが、きし、と鳴り続けていた。
事務所に戻ったのは朝だった。解散の前に、全員で日報を書く。うちの班の決死行は、書類で締まる。
灰崎さんのペンが、止まっていた。
勤務時間の欄は埋まっている。止まっているのは隣の、単価の欄だ。
「……氷室さん。俺の時給って、いまいくらでしたっけ」
軽い声だった。ど忘れですよ、の顔で。
1,250円。あなたがずっと、世界のすべてを測ってきた基準単位。魔素だまりもS級素材も人類最強も、あなたの帳簿ではぜんぶあれで換算されていたのに。
「1,250円です。深夜手当と潜行手当が、別に付きます」
「ですよね。書類のときだけ、ぱっと出なくて」
「よくあることです」
嘘だ。私はこれまで、嘘をつかずに黙る側だった。その私が、数字の顔をした嘘を初めて口に出した。
天海さんは、日報を書いていなかった。壁の地図の前に立っている。第80層から核までの白い区間。その余白に、鉛筆で数字を書きつけていた。
想定される湧出数。核の門番の見積もり。――あと何発、撃てるか。彼はそれを、一拭きの回数で割り直していた。
「……残弾の計算ですか」
「はっ。人聞きが悪いな」
鉛筆は止まらなかった。
「あいつを撃たせていい回数だ。道中の分は、ぜんぶ俺が前借りする。……残弾の管理は、火力係の仕事だろ」
所長は何も言わなかった。言わないまま工程表を引き寄せて、第80層台の2か所に線を引いた。灰崎さんの出番が2つ消え、空いた枠に埋まったのは、所長自身の名前だった。
守り方が、人の数だけあった。
なら、私のは。観測して、照合して、記録して――記録。
……ある。私にも、まだ武器がある。
◇
その夜、文具店でいちばん頑丈な手帳を買った。防水の表紙に糸綴じ。落としても割れない。電池も切れない。協会のサーバーより、よほど信用できる記録媒体だ。
1ページ目から、書いた。
時給は1,250円。深夜手当と潜行手当つき。危険手当は本人の希望により「据え置き」。
定食屋は駅裏の路地。注文は塩むすびで、海苔と具はなし。店主のお名前と、領収書の字が達筆であること。
妹さんの面会は夕方の5時前。売店のプリンは特売の日だけ2個。取り締まりの決まり文句は「はいは1回」。
病室の鉢はガジュマル。水やりはあなたの係。名前は出発の前夜、妹さんに教わったばかり。
座標と濃度と秒数しか書いてこなかった指で、こんなに柔らかい数字を書いたのは初めてだ。何度か手が止まった。止まるたびに、書いた。
……昔のことだ。正しく観測して、正しく記録して、それでも守れなかった人がいる。あのとき数字は、紙のまま握り潰された。だからこれは二度目の答案だ。今度の記録は、握り潰させない。書いた人間ごと、現場に立つ。
観測員の仕事は、世界のありのままを残すこと。彼の毎日は、世界の一部。よって業務の範囲内。……理屈は、あとから幾らでもつく。
◇
翌朝の朝礼。検品で、灰崎さんはノートを読み上げた。
「――妹の顔も、声も、あります。まだ大丈夫です」
「よし」
解散のあと、私は彼を呼び止めた。手帳を、差し出す。
「これは」
「予備の帳簿です」
彼は表紙をめくって、黙った。めくる指が、2枚目で止まった。
「忘れたら、ここを見てください。……あなたの毎日を、私が書いておきます」
あなたのノートは、あなたが気づいたものしか残せない。行ごと消えるなら、控えは外に置くしかない。バックアップは二重に。データ管理の基本です。――用意していた説明は、半分も口に出なかった。
「……これ、経費で落ちない親切ですね」
「請求書は送りません」
「なら、借りにしておきます。利子つきで」
いつかの朝の缶コーヒーと、あべこべの台詞だった。あなたはあの朝を知らない。知らないままでいい。この件は、左ページに書かない。書かない項目が、観測員にひとつくらいあってもいいはずだ。
彼は手帳を閉じて、作業着の胸ポケットに差した。ノートの隣。ちょうど、心臓の上だった。
「重くなったら言ってください。2冊目は、もっと薄いのにします」
「いえ。……ちょうどいい重さです」
声はいつもの低温だった。ただ、ポケットの上を押さえた手が離れるまでに、3秒かかった。私は数えていた。数える以外に、できることがなかったからだ。
◇
夕方。病院の受付で、面会票に名前を書いた。
手帳には、まだ空白が多すぎる。彼のふた月は観測できた。だがその前の22年余りが、まるごと足りない。母親の声。父親の最後の言葉。8年前の体育館。……これから消えうるものの原本を、いちばん多く保管している一次資料は、世界にひとりしかいない。
病室の戸を、ノックした。
「はーい」
返事は明るかった。戸を開けると、窓際でガジュマルの葉が照り返していた。手帳の12行目と、実物の照合が済んだ。
ベッドの少女がこちらを見て、まばたきをした。笑うとき、目が先に細くなる。……兄妹で、よく似ていた。
「氷室紗雪と申します。お兄さんの、仕事の――同僚です」
「兄の? わ、初めまして。……同僚さん、増えてたんだ」
どこから話すか。頭の中で、手帳の順番を並べ直す。
――このときの私は、試算をひとつ怠っていた。
データは嘘をつかない。だが、口は軽い。
この病室で私が口にする「1冊の手帳」の話が何を起こすか。その計算だけが、綺麗に抜け落ちていた。




