第49話「掃除できない汚れ、再び」
深さってのは、耳で分かるんだそうだ。降りる道すがら、うちの清掃員が講釈してくれた。
俺は肌の口だ。第66層。業者用昇降機の扉が開いた瞬間、うなじの毛が残らず起きた。10年潜って、初めての起き方だった。
「……趣味の悪い現場だ」
通路の壁が濡れて見える。触ると乾いていた。天井は目測より半歩遠く、床は半歩近い。遠近の帳尻を、どこかで誰かが抜いてやがる。極めつけは音だ。俺の足音の反響が、半拍遅れて返る。世界のほうが、こっちの真似をしてる側だった。
照明代わりの発光苔まで、顔色が悪い。緑のはずの光が、灰で割った色をしてる。ここは人類の最前線だった場所のはずだ。……家主が変わると、部屋ってのはここまで変わるらしい。
「観測値です。基礎濃度、地図の2.4倍。……第60層台は、もう記録と別の場所だと思ってください」
「魔素の王の、影響圏さ」
親父さんは通路の先を見たまま言った。
「30年前、この重さは第80層より下だけだった。……ずいぶん家を広げたもんだ」
「思ったより散らかってますね。帰りに拭いていいですか」
最後尾の湊は、壁の黒ずみを値踏みする目で眺めていた。うなじの毛が起きてるのは、この班で俺だけらしい。人類最強の勘も、安く見られたもんだぜ。
行軍は、時刻表の旅だった。
「第67層、通過予定まで40秒。巻いてください」
分析官どのの管制で角を曲がり、親父さんが経路図の道を実地で確かめていく。途中の魔物は全部俺の客だ。影みてえな狼が6匹、まとめて2秒。骨の大百足が1本、芯を蹴って3秒。10年ぶんの在庫処分は続行中。回転率は悪くない。
第67層の大広間は、天井が高くて底が暗い。声を張れば山彦が3つ返る造りだ。今日は1つも返らなかった。
湊は言いつけどおり、指の1本も出さない。すれ違う汚れに、未練の目をやるだけだ。
「拭きたそうだな」
「経費の判断で、我慢してます」
「我慢まで経費で落とす気かよ」
「落ちたら、いい会社ですね」
異変は、第68層の下り坂で来た。
先頭の親父さんが、足を止めた。壁を見ている。俺も見た。岩肌に散らばっていた紋様が――揃っていた。びっしりと同じ向きに、葉脈みたいに。魚の群れが一斉に向きを変える、あれに似てる。号令で揃う類のやつだ。
「予兆1。紋様の整列、確認」
分析官どのの声が1段低くなった。端末の上を指が走る。
「濃度、逆転。予兆2です。……前方より、後方が濃い」
おいおい。数字まで挟み撃ちの報告かよ。
それから、音が消えた。
足音も。呼吸も。端末の駆動音も。耳が死んだんじゃねえ。世界が、音の受け取りをやめた。
「予兆3――全員、停止!」
止まった。号令の残りが、綿みてえな静けさに吸われて消える。
下り坂の底に、それはいた。
いや。咲いていた、のほうが近い。
床いっぱいの黒い照り。黒曜石の光沢。飛び散った形のくせに、縁だけが妙に整ってる。うちの清掃員が第58層で落とせなかった「血痕」の――特大だ。
照りの中心が盛り上がった。人の形に伸びかけて、やめる。獣の形に折れかけて、やめる。形の決まらねえ黒が、決まらねえまま立った。高さ3m。輪郭が煮えてる。目はない。なのに、こっちを見てた。
床から靴の裏へ、柄杓で掬ったみてえな低い振動が来た。……こいつ、嗤ってやがるのか。
「――『こびりつき』だ」
親父さんの声は平らだった。
「魔王の血痕から湧く番犬さ。刃も洗剤も、まともには通らん。……本来は核の玄関に湧く連中だ。それが、こんな浅場まで出張っとる」
「こびりつきさん、ですか」
「敵に敬称をつけるな」
黒が、跳ねた。
速い。だが見える。前へ出て、初撃を正面から張り倒した。手応えは、石鹸を詰めた革袋だ。外殻が砕けて飛ぶ。飛んだ端から、床の照りが吸い戻す。砕いたそばから埋まっていく。傷の塞がる速さでだ。
「はっ、面白くなってきた」
二撃、三撃。角度を変えても結果は同じだった。剥がれる。埋まる。剥がれる。埋まる。賽の河原の出来高払いだ。割に合わねえ。
親父さんは坂の途中から動いていなかった。腕を組んで、黒の呼吸を数えている。
「……見えたぞ。ふた呼吸で埋めきる。埋める前に、浅い息継ぎがひとつ挟まる」
「置いて先へ進むか」
「番犬は追ってくるさ。背中に置ける汚れじゃない」
「なら、俺が代わります。丸ごと拭けば、たぶん――」
「駄目だ」
親父さんが、湊の襟首を掴んで下げた。
「丸ごと消せば、でかい札が飛ぶ。お前の財布は核の前まで開かせん。それが背骨だ。……だが、栓を抜かにゃ先へも進めん。だから最小で行く。ありゃ外っ面が厚いだけの汚れさ。芯は一点。息継ぎの半拍だけ、そいつが浮く」
「観測で追えます。天海さん、剥がす点を指定します。同じ場所を、連続で」
「注文の多い管制だ。――どこだ」
「正面、心臓の高さ。6連続」
やってやるよ。踏み込む。右。返しの左。肘。膝。まだ右だ。同じ点を同じ深さで抉り続ける。黒の埋め直しが、目に見えて遅れ始めた。読めたぜ。こいつ、埋めるために息を吸ってやがる。
「露出予測。芯の直径8cm。露出時間、1.2秒」
「湊。一拭きだ。一拭きで済ませろ。それ以上は払うな」
「はい。小銭で済ませます」
湊がモップを構えた。構えってもんじゃねえ。夜勤の始業の持ち方だ。
「3、2、1――」
俺の6発目が、外殻を根こそぎ持っていった。
黒の中心で、白い芯が息をした。
「――今さ!」
一拭き。
音はなかった。閃光もない。毛先が芯を撫でて、それで全部だった。
3mの黒が、上から順に「無し」になっていく。倒れる死体がない。消える煙もない。在ったという事実ごと床から剥がれて――消えた。
音が戻った。俺の呼吸。端末の駆動音。4人ぶんの衣擦れ。世界が耳を取り戻して、通路はただの通路に戻っていた。坂の底だけ、鏡みてえに光ってる。
「完了です。ここだけ拭き残しがなくて、逆に落ち着かないですね」
被害ゼロ。湊の支払いは小銭。接敵から、4分。
「あの、いまのは清掃業務に入りますか。手当の欄が」
「入れとく。特別清掃さ」
親父さんが革の籠手を鳴らして笑った。
「掃除ってのはな、段取りが九割だ」
「残りの一割は」
「日頃の行いさ」
はっ。言ってくれる。10年、俺の戦いは独唱だった。今日のは違う。俺が剥がす。分析官どのが計る。親父さんが読む。あいつが拭く。誰の見せ場でもねえのに、全員の仕事が真ん中で噛み合った。……所属ってのは、この噛み合う音のことを言うらしい。賞金じゃ買えねえ音だった。缶コーヒーの借りが、また1箱ぶん増えた勘定だ。誰にとは言わねえがな。
第70層の中継地点で、先送りの荷を回収した。水と、塩だけの握り飯。4人で立ったまま齧る。塩加減は定食屋の仕事だが、今日の味の半分は勝ち戦のほうだろう。分析官どのは齧りながら、まだ手帳を開いてる。時刻。座標。拭いた回数。几帳面な性分だと、そのときは思っただけだった。
と、湊が握り飯を持ったまま、立ち止まった。
「……あれ。今の敵の名前、なんでしたっけ」
俺の齧りかけが、口の手前で止まった。
「……こびりつき、だ。親父さんが坂の上で言ったろ」
「ああ、そうでした。すみません、ど忘れです」
湊は何でもない顔で、続きを齧った。本人の帳簿じゃ、傘と同じ棚の話なんだろう。
分析官どのの手が、手帳の上で止まっていた。親父さんは何も言わなかった。言わないまま、湊の胸ポケットのノートを一度だけ見た。
小銭で済ませた。済ませたはずだ。それでも、払いは払いだった。
俺は袖の中で、指を1本折った。
――勘定は、もう始まってる。




