第48話「退院したら」
手紙の折り目が、布みたいにやわらかくなっていた。
届いてから2日。開いた回数は、数えないことにしている。封筒の角はよれて、三つ折りの線は白く毛羽立った。紙は読まれるとこうなるらしい。16年生きてきて、初めて知った。
――嘘は書いてない。全部は書いてないけど、嘘はひとつも書いてない。
問題は、この1行だ。
正直者にもほどがある。隠しごとをする人は普通、隠していること自体を隠す。うちの兄は、そこだけ律儀に申告してくる。全部は書いてない。つまり、手紙に収まらない大きさの何かがある、ということで。
届いた夜は、泣いた。毛布の中で、音の出ない泣き方の練習になった。「この現場が終わったら、お前の病気は良くなる」。医者より確かな筋って、何。そんな筋、世界にあなたしかいないでしょ。
2日目は、怒った。ごめん、の2文字が軽すぎる。プリンの報告とか、はいは1回とか、業務連絡の顔ばっかり上手になって。いちばん大事な欄だけ、白紙で出してくる。
1周して、気づいたこともある。この手紙は何回読んでも、締めが「兄より」なのだ。がんばるとも、待ってろとも書いていない。……書くと嘘になるかもしれない言葉を、この人は最初から置いていかないのだ。
3日目の今日。夕方の検査のあと、廊下から早足が聞こえた。
かかとを引きずらない、あの早足。
「おす」
「……手紙だと、しばらく来られないんじゃなかったの」
「明日からな。今日は、まだ今日だ」
「屁理屈の天才」
差し出されたのは、煎餅の袋だった。値札つき。100円、税別。
「差し入れの格が、渋い」
「職場の先輩から。100円とは思えねえ味、らしい」
「らしい、って」
「俺の感想は、湿気てる」
噴き出してしまった。2日かけた泣き方と怒り方の練習が、顔を見たら1秒で崩れる。泣くのも怒るのも、あとまわし。まずは面会のフルコースからだ。
お兄ちゃんは荷物を置くと、いつもどおり窓際の鉢に水をやった。それから葉を1枚つまんで、首をかしげた。
「……これ、名前なんだっけ」
「ガジュマル。1年以上もお世話して、初めて聞いたね」
「水やり係に、名簿は回ってこないんだよ」
軽口の形は、いつもどおり。ただ、離れる前の指先がすこし迷った。最近この人は、小さいど忘れが増えた。疲れてるんだよ、で私はいつも片づけてきた。今夜は、片づけたくなかった。
看護師さんが顔を出して、壁の時計を指さした。
「今日は消灯まで、特別ね」
特別。大人が優しくなる速度で、大人の事情は読めてしまう。ありがたく、使わせてもらうけど。
「ねえ。今度のお仕事って、何するの」
白紙の欄に、正面から訊いた。どこの床を磨くのかは、訊かない。それを訊いたら、私が黙ってきたものまで全部こぼれる。
お兄ちゃんは紙コップのお茶をひと口飲んだ。1秒の間。この人の1秒は、たいてい何かを畳んでいる時間だ。
「――大掃除に、行ってきます」
変な音が出た。笑うのと泣くのの、ちょうど中間の音。
「『大掃除に行ってきます』って、何それ。もっと格好つけなよ」
「掃除屋の仕事は掃除だ」
「でかい現場なんでしょ。『世界の命運を背負って』くらい、言っていいんだよ」
「言って手当がつくなら言う」
「つかないよ」
「じゃあ据え置きで」
ほら、こうだ。この人の本気は、いつも実務の顔をしてやってくる。だったら私の本気も、いつもの顔で出すしかない。
サイドテーブルから、メモ帳を出した。
「リスト会議、します。『退院したら』の続き」
「……7番からか」
「7番から」
書けなかった7番の席は、いったん貸すことにする。あの続きは退院してから、自分の口で言うんだから。
「7番。パンケーキを、並んで食べに行く。二人とも同じやつ。分けっこ禁止」
「1枚でよくないか」
「よくない。あれは枚数の暴力に意味があるの」
「経費で落ちない贅沢だな。……まあいい、手当から出す」
「8番。海に行く。4番の『海で写真』の続編ね。写真だけじゃなくて、ちゃんと足まで入る」
「濡れるぞ」
「濡れに行くんだよ。あとね、退院したら、朝までだらだら映画も観たいなあ。それは10番候補」
お兄ちゃんはスマホを出して、黙って打ち込んでいく。私の「退院したら」を、この人はひとつも聞き流さない。入院してからずっと。たぶん、もっとずっと前から。
息を吸った。9番は、声が揺れないように言いたかった。
「9番。……お父さんとお母さんのお墓に、二人で報告に行く。私が治ったこと。お兄ちゃんが、ちゃんとやったこと」
部屋の音が、止まった。
「――ああ」
返事はひとつだけだった。ひとつで、足りた。
「貸せ。俺も1個書く」
メモ帳とペンが持っていかれる。お兄ちゃんはページのいちばん下に、手で隠しながら何かを書いた。字は見えない。書き終わると、素知らぬ顔でメモ帳が返ってきた。
「見ていい?」
「退院したら」
「……ずるい。この制度の、いちばんずるい使い方」
「制度は使うためにある」
言い返せなかったので、ペンだけ取り返した。そのとき、指が触れた。
人差し指の付け根の、かたい皮。ペンだこじゃない。モップの柄が、あたる場所だ。前の職場の頃は、荷物の紐で別の場所がかたかった。ふた月で、手まで転職している。
その指が、私の手の中で小さくこすれた。最近よく見る、何かを数えて確かめる動き。
両手で、つかまえた。
「最近、ど忘れ多いよね」
「……年だな」
「23で年って言わない」
窓の外は、もう暗い。この人は明日から白紙の欄の中に行って、たぶん何かを置いてくる。お金かもしれない。時間かもしれない。……もっと別の、何かかもしれない。
答え合わせは、させてもらえない。なら、どの答えでも当たる約束をするだけだ。
「お兄ちゃん。私のこと、忘れてもいいよ」
顔が上がった。
「……私が、全部覚えてるから。何回でも、初めましてから始めてあげる」
いちご狩りも、プリンの取り締まりも、はいは1回も。全部こっちで預かっておくから、荷物は軽くして行きなよ。――そう続けるつもりだった。
続けられなかった。
お兄ちゃんが、下を向いた。
メモ帳の上に、点がひとつ落ちた。にじんだ。ふたつ目が落ちた。
声はなかった。肩だけが動いていた。音の出ない泣き方。毛布の中で私が練習したやつを、この人は練習もなしでやっていた。
8年前の体育館で、私は濡れた腕に抱きしめられた。あのとき、あの震える手に何もしてあげられなかった。小さくて、何も持っていなかったから。
今は違う。
腕を伸ばして、その頭を抱えた。点滴の管が届く、ぎりぎりまで。
「よしよし」
「……やめろ」
「妹に泣かされてる場合? 明日から大掃除でしょ」
「泣いてない」
「2回言ってないから、ほんとっぽいね」
くぐもった笑いが、腕の中でひとつ震えた。
顔を上げたお兄ちゃんは、目のふちが赤いだけの、いつもの顔に戻っていた。煎餅の袋を開けて、1枚ずつ齧った。湿気てた。それでも味は、たしかに100円じゃなかった。
帰り際、ドアの前で一度だけ振り返る。
「なんかあったら、夜中でも電話しろよ」
「ないよ、なんにも。……あったら鳴らす。ちゃんと出てよね」
「おう」
手を振る。ドアが閉まる。フルコースの最後まで、いつもどおり。
私はメモ帳のいちばん下を見ないまま、枕の下にしまった。約束は、退院したら。私の口癖に、あの人が判子を押したんだから。
◇
夜明け前。第七ダンジョン、業者用ゲート。
揃いも揃って、うちの班は集合時間より早く来ていた。所長は30年前の装備の上に作業着を羽織り、氷室さんの手帳はもう開いている。レイジさんは欠伸をひとつ噛み殺した。
「朝礼だ。点呼はいい、顔で済んどる。――湊、検品」
胸ポケットのノートを出した。昨夜の帰りに、1行だけ増えている。
「ひよりの前で泣いた。頭まで撫でられた。兄の沽券は当分戻らないが、泣いた理由はぜんぶ覚えているので、まだ大丈夫」
声に出すのは、締めの一節だけでいい。
「――全部あります。妹の顔も、声も、『退院したら』も。まだ大丈夫です」
「よし」
「はっ。景気のいい朝礼だ。今日も満点で行こうぜ」
「経路と時間帯、退路2本。数字は、すべて予定どおりです」
「なら、行くぞ」
認証が緑に変わる。頭上の電光表示が、今日の行き先を淡々と流していた。
【第66層以深・特別清掃】
俺は病院のある方角へ、頭の中で一度だけ手を合わせた。
――行ってきます。大掃除、してきます。




