第5話「歯車が軋む音」
定例会議の10分前。代表室の机に、1通の報告書が載っていた。
遠征部隊からの緊急報告。整備済みの装備が立て続けに不調、とある。末尾の1行で、王城巧の目が止まった。
『こんな事故は、今まで一度もなかった』
感想文だな、と思った。報告書に感情を書く人間は出世しない。書くべきことは3つ。原因、対策、金額。それ以外は雑音だ。
王城は報告書を決裁箱へ落として、会議室へ向かった。廊下の床が、心なしかくすんで見える。ワックスの艶が切れかけていた。清掃業者を替えたのだったか。……どうでもいい。床の艶は数字にならない。
大会議室は、壁一面のモニターが数字で光っていた。
週次定例。上座に座って、王城はまず四半期の損益グラフを確かめる。右肩上がり。自分の代になってから、それ以外の形をこのグラフに許した覚えはない。この傾きこそが、クランの体温だ。
「始めろ。数字で頼む」
最初に立ったのは装備管理の主任だった。タブレットを持つ手が、心なしか重そうに見えた。
「今週の遠征で、装備の重大な不調が3件です。第31層で盾の術式膜が剥離。第29層では剣が2本、刃こぼれではなく――腐蝕しました。いずれも整備記録上は完備です」
「整備済みの剣が腐るのか」
「メーカーは保管環境の問題だと言っています。ですが保管庫の環境値は基準内でして。原因は、その……調査中です」
「調査に金がかかるなら、先に見積もれ」
主任が下がる。次は素材部門の責任者だった。
「納品前のS級素材で損失が2件。竜血石が風化、幻獣の腱が変質――端的に言えば、腐りました。取引先2社への違約金が発生しています」
「S級は安定素材のはずだが」
「はずでした。……今までは」
今までは。今日2度目に聞く言葉だった。王城は端末に数字を打ち込んでいく。修繕費、廃棄損、違約金。1件ずつなら誤差だ。だが誤差というものは、同じ月に揃って顔を出したりしない。
「最後に総務から。……拠点内で魔素中毒が1名出ました。整備班の新人です。軽症ですが、拠点内での発症は創設以来初めてです。治療費と休業補償を計上します」
「拠点の魔素濃度は基準値だろう」
「計測上は。ただ、この2週間でじわじわ上がっています。……基準内です。基準内、ですが」
報告者は全員、似たような顔をしていた。数字は揃っている。原因の欄だけが、どの報告書も白い。
白紙の報告が、いちばん高くつく。原因があれば対策が買える。対策があれば金額が出る。白紙には、値札の付けようがない。王城の指が、端末の上で一度だけ行き先を失った。
「引き継ぎの問題かと考えます」
総務部長が手を挙げた。
「先月からの人員整理で、拠点の保守系雑務が丸ごと浮いています。装備の予防整備に素材庫の管理。結界の張り替えから給湯室まで、全部です。外注に切り替えようとしましたが――仕様書が、存在しません」
「存在しない?」
「前任者が1人で回していたので、手順がどこにも残っていないんです。外注3社に作業一覧を見せたところ、全社に断られました。『この量は1人の仕事ではない。積算がおかしい』と」
「人数を積んで再見積もりを取れ」
「取りました。当初試算の4倍です」
4倍。磨かれた爪の先が、天板を1度だけ叩いた。
「それでも通せ。大隊が1つ止まる損失よりは安い。派遣で埋まる穴は、派遣で埋めろ」
「……はい」
数字で語れば終わる話だ。終わる、はずだった。
議題は市場動向に移った。渉外担当が声を低くする。
「業界は例の噂で持ちきりです。正体不明の単独攻略者――《ファントム》。協会は報道規制を敷いていますが、対策機関経由でとっくに漏れています。各クランの株主が浮足立っていて、うちにも問い合わせが」
「噂は数字にならない。うちは足元を締めろ」
言いながら、王城は窓際に目をやった。観葉植物が枯れかけている。誰も水をやらないからだ、と考えた。では先月までは誰がやっていたのか。そこまで考えて、やめた。数字にならない問いだった。
散会の直前だった。議事録係の若手が、ペンを止めてぽつりと言った。
「そういえば……灰崎さん、どこ行ったんですかね」
会議室の空気が、半拍だけ止まった。
「誰だ」
総務部長が聞き返す。若手は首をすくめた。
「雑用係の、灰崎さんです。遠征の朝、頼んでないのに剣が研ぎ直してあって……あの人がいた頃、剣が腐ったことなんて一度も――」
「会議で語るなら数字で語れ」
王城の声は平坦だった。
「個人の感想は議事録に要らない。以上、散会だ」
若手は肩を縮めて、手元に視線を戻した。幹部たちが席を立つ。モニターの数字が落ちて、会議室は薄暗くなった。
王城は動かなかった。手の中のペンが、いつの間にか止まっていた。
灰崎。その名前なら帳簿で見た。コストの欄に、5年分。
あれを削って、何かが狂ったか? まさかな。雑用だ。数字にならない男だ。だから切った。判断は正しい。数字が正しいと言っている。
王城は自分の爪を見た。磨き上げた、傷ひとつない爪だ。この爪の間が黒かった時代のことは、思い出さないと決めている。切られる側から切る側へ。10年かけて、ここまで来た。数字を読み違えたことは一度もない。
――一度も、ないはずだ。
その日の夕方、渉外担当が代表室に駆け込んできた。
「協会から通知です! 第52層ボス部屋の攻略権、うちに回ってきました。先約のクランが辞退したそうです。理由は――『原因不明の装備不調』とのことで」
どこも同じか、と思いかけて、王城はその連想を打ち消した。うちは、あんな感想文の会社とは違う。
「受ける。最精鋭で編成しろ。失点は、まとめて取り返す」
久々にいい数字の匂いがした。ボス級のS級素材、攻略実績、株主への報告。腐った剣も枯れた観葉植物も、勝てばすべて誤差に戻る。歯車が軋んでいるなら、油を差すより速く回せばいい。
――同じ頃。駅裏の雑居ビル3階で、1枚の作業指示書が発行されていた。
現場の欄には、こうある。
『第七ダンジョン・第52層/ボス部屋周辺・全面清掃』
時給1,250円の清掃員が、今夜もモップを担いで出勤する。
挽回の舞台は、掃除の現場と重なっている。そのことを、王城はまだ知らない。




