第4話「時給1,250円の男」
面会時間の402号室に、俺はいちごのパックを掲げて入場した。
「じゃーん」
「うそ。生のいちごだ」
ひよりの目が、点滴の管より先にパックへ吸い寄せられた。売店のゼリーとはわけが違う。スーパーで15分悩んで選んだ、ちょっといい銘柄だ。
「どうしたの、これ。お兄ちゃん、散財?」
「散財じゃない。投資だ。……時給、上がったんだよ。50円」
「50円!?」
ひよりは俺の予想の3倍くらい仰け反った。
「入って2日で昇給!? すごい! 天才! 出世頭!」
「大げさだって」
「大げさじゃないよ。50円だよ? 1日8時間で400円。1か月で……えっと……1万円ちょっと!」
計算の途中で指が足りなくなっていたが、だいたい合っていたので訂正しないでおいた。指を折って数える妹の横で、ヘタを取ったいちごをティッシュの上に並べていく。
ひよりは最初のひと粒を口に入れて、しばらく黙った。
「……あまい」
「そうか」
「あまいねえ、お兄ちゃん」
「そうだな」
語彙が消えるほどなら、悩んだ15分は正解だったらしい。
半分は、病院の匂いのせいでもあると思う。消毒液の中で食う果物は、味の輪郭が濃くなる。俺もひと粒もらった。……なるほど、あまい。悩んだ15分に、あと5分足してもよかった。
ふた粒目を大事そうにつまみながら、ひよりは上目遣いにこっちを見た。
「ね、新しいお仕事って、お掃除の会社なんだよね。どんなところを掃除してるの」
「……でかい施設。夜中の、誰もいないやつ」
嘘はついていない。あそこはでかい施設で、夜中は誰もいなかった。
「ふうん。前の会社より、いいところ?」
スプーンの先がこっちを向いていた。ゼノギアを辞めた経緯は、まだ話していない。この妹は、こういうときだけ探偵の目になる。
「……所長が、変な人でな。面接3秒で採用された」
「なにそれ」
話をそらしたのは、たぶんバレていた。それでもひよりは笑って乗ってくれて、俺は熊谷所長の熊っぷりをひとしきり供述した。パックが半分空くころ、ひよりはぽつりと言った。
「退院したら、いちご狩りに行きたいなあ。これ食べたら、よけいに」
「ああ。それの前借りだからな、今日のは」
「じゃあ、利子をつけて返さないとね」
利子の相場を考える顔で、俺はスマホの電卓を開いた。いちご狩りの相場は、大人ひとり2,000円前後。時給1,250円なら、2時間かからず元が取れる。悪くない投資だ。
「いま時給で換算したでしょ」
「してない」
「した。目が完全に電卓だった」
「割り勘にする? いちご狩り」
「患者は財布を出さなくていい」
「じゃあ、退院してから割り勘ね」
検温に来た看護師さんが、笑いを噛み殺して点滴を替えていった。帰り際に「いちごは今日はそのくらいに」と釘まで刺された。ひよりはパックの蓋を閉めて、それから両手でしばらく守っていた。
面会終了のチャイムが鳴る。帰り際、ひよりは残りのパックを胸に抱えて言った。
「お兄ちゃんはすごいんだよ。時給50円ぶん、世界が気づいた」
「世界じゃなくて所長な」
廊下に出て、天井を見た。時給1,250円。月40万には、まるで足りない。それでも今夜も現場はある。時給分は働きます、だ。
時計の針を、少し巻き戻す。同じ日の朝。
協会の記録分析室で、氷室紗雪は端末を3回再起動していた。
ない。
昨夜の生ログが、ない。
第47層・当該時間帯の通過記録。正規発行の保守区分パスと、所属欄の『くまがいクリーンサービス』。3回読み直したはずの文字列が、検索結果ごと消えている。
履歴を遡ると、未明にシステムの定期更新が走っていた。対象は認証系データベースで、当該レコードの状態は「破損により欠落」とあった。
ずいぶん都合のいい破損もあったものだ。
「氷室くん、例の件はもういい」
観測部長が、紙コップ片手に通りかかった。
「通過記録の1名は、機材の誤作動として処理する。上の決定だ」
「進入1名、帰還1名。3系統の観測と整合していました。誤作動なら、あの整合のほうが奇跡です」
「認定はもう出た。《ファントム》の正体探しは対策室の管轄だ。分析官の仕事じゃない」
「……データは嘘をつきません」
「データは消えるがね」
部長は悪気のない顔で言って、自分の席へ戻っていった。紗雪は手の中のペンを一度だけ回し、その背中を見送った。
消えたのか。消されたのか。ただの偶然か。どれであっても、やることは変わらない。
データが消えても、私の記憶は破損していない。
手元のメモに一行を書き足す。くまがいクリーンサービス。今朝の走り書き――『まるで掃除でもしたみたいに』の隣へ並べると、出来の悪い冗談のようだった。
冗談で済ませるには、整合しすぎている。
念のため、バックアップ保管庫への閲覧申請も書いた。理由の欄で手が止まる。『誤作動として処理済みの案件のため』では、まず通らない。『定期監査の事前確認』と書き直した。嘘ではない。監査は毎年ある。決裁を待つ間に消えるのが記録なら、消える前に写すのが分析官だ。申請書の控えは、鞄の内側に入れた。紙は、システム更新では消えない。
紗雪は端末に向き直り、新しい検索条件を組み始めた。対象は第七ダンジョンの全管理ゲート。時間帯は深夜に絞り、保守区分の記録を90日ぶん遡る。
膨大な件数になるが、かまわない。深夜の保守記録なんて、読む人間のいない書類の代表だ。そして読む人間のいない場所にだけ、消し忘れは残る。
正面の扉が閉まったなら、裏口から入るまでだ。数字の裏口を知っているのが、分析官という仕事だから。
実行キーを押す。進捗バーの光が、眼鏡のレンズに細く映り込んだ。画面の端に、自分の顔が薄く映っている。データだけを相手にしてきた5年。数字の向こう側に本物がいると信じて、外れ続けた5年だ。……今回のこれは、外れの顔をしていない。
時給1,250円の男と、それを追う分析官。ふたつの視線はまだ交わらない。ただ互いを知らないまま、同じ一点――深夜のダンジョンだけを見つめている。
――ちょうど同じ頃。
大手クラン「ゼノギア」の遠征部隊から、一本の報告が上がっていた。
整備済みのはずの装備が、立て続けに不調を起こした。原因は不明。整備班は記録を3度読み返し、最後に全員で同じ結論に落ち着いたという。――記録上は、何も間違っていない。
報告書の末尾には、こうあった。
『こんな事故は、今まで一度もなかった』




