第3話「観測史上初」
午前6時17分。ダンジョン協会東京支部・記録分析室。
氷室紗雪は、届いたばかりの定時観測データの前で固まっていた。
第七ダンジョン・第47層。敵性反応、ゼロ。残留魔素、ゼロ。呪詛汚染、ゼロ。
全項目、ゼロ。
紗雪はまず自分の目を疑い、次に機器を疑った。観測ユニットは3系統ある。故障率の計算はすぐに終わる。3系統が同じ夜に同じ壊れ方をする確率は、天文学的に低い。
そして3系統とも、同じゼロを返していた。
「……再計測」
端末に指を走らせる。応答まで90秒。その間に第47層の基礎情報を呼び出した。人類未踏破。推定討伐難度・最上位。観測開始から9年、魔素濃度が基準値を下回った記録は一度もない。
再計測、完了。全項目、ゼロ。
紗雪は引き出しから予備の眼鏡を出した。数字を疑う日のための、度の強いほうだ。かけ直しても、ゼロはゼロのままだった。
マグカップに口をつけて、コーヒーが冷めきっていることに気づく。淹れたのはいつだったか。窓の外は、もう白み始めていた。
層内マップを拡大する。端から端まで舐めるようにスクロールした。魔物の巣、消失。呪詛紋様、消失。9年ぶん堆積した魔素の澱まで、跡形もない。
消えた、という表現は正確ではない。討伐なら魔素の飛散が残る。祓除なら祭具の残響が残る。爆破処理なら瓦礫が残る。この層には何も残っていない。汚染だけが選択的に、根こそぎ取り除かれている。
まるで――掃除でもしたみたいに。
自分の連想に、紗雪は眉を寄せた。分析官が詩的な比喩に逃げるのは敗北だ。だが他に言いようがなかった。手元のメモに、その一行だけを走り書きする。
データは嘘をつかない。嘘みたいな顔をして、そこに座っているだけだ。
内線を取る。観測部長の寝ぼけた声が出るまで、コールは6回かかった。
「氷室です。第47層の定時データをご確認ください。……いえ、故障ではありません。3系統照合済みです。……はい、起きてください。全部です。全部、消えています」
受話器の向こうで、何かが倒れる音がした。
1時間後、分析室は満員になった。出勤してきた職員が紗雪の席の後ろに人垣を作り、誰かが「演習データだろう」と言い、誰かが無言で首を振った。電話が鳴り止まなくなったのは、それからすぐのことだ。
午前9時。最上階の会議室に、普段は顔を合わせない役職章が並んだ。
紗雪は資料を配りながら出席者を数えた。観測部長、管理局長、渉外担当。本部からの映像参加が2名。定時データ1件でこの顔ぶれが揃うのを、入職以来初めて見た。
「結論から報告します。第47層は攻略されました。――完全に、です」
「ありえん」
管理局長が資料を置いた。置いた、というより投げた。
「第47層の制圧には一個大隊規模の戦力が要る。協会の公式試算だ。大隊が動けば補給が動く。補給が動けば金が動く。だがどの国にもどのクランにも、その動きはない」
「はい。ですから、試算のほうを疑うべきだと考えます」
「……なんだと」
「管理ゲートの通過記録です。当該時間帯、第47層への進入者は――1名です」
会議室の空気が、音を立てずに固まった。
「1名? 誤記録だろう」
「進入1名、帰還1名。滞在約6時間。3系統の観測結果と整合します。データは嘘をつきません」
映像の中の本部員が身を乗り出した。
「単独で、一晩で、未踏破層を更地にしたと? どこの誰が」
「不明です。通過記録の区分が特殊で、探索者名簿との照合に失敗しています。現在、調査中です」
嘘は言っていない。照合に失敗したのは事実だ。ただ、紗雪がその先を言う前に、会議は勝手に走り出した。
「偽造パスだな」
「保守区分の権限は外部委託先にも貸与されている。漏洩元を洗え」
「報道対応は」
「規制一択だ。単独で大隊級の個人など、公表すれば市場も各国も黙っていない」
渉外担当が挙手する。
「各国への通達は」
「隠して後で漏れるほうが高くつきます」
「認定と同時に出す。詳細は伏せてだ」
声が飛び交う。紗雪は議事録を取りながら、胸の内でだけ舌を出した。混乱するのは市場ではなく、あなたたちの試算表でしょうに。
最後に観測部長が立ち上がり、全員を見回した。
「協会は本件を、観測史上初の【単独完全攻略】と認定する。攻略者は正体不明。以後、対象をコード名で呼称する」
「コード名は」
「――《ファントム》。記録の中にしか存在しない、幻の攻略者だ」
その日のうちに、認定文書は各国の対策機関へ飛んだ。報道規制が敷かれ、敷かれたことで逆に憶測が漏れ、漏れた憶測は尾ひれをつけて泳ぎ回った。曰く、某国の秘密兵器。曰く、S級探索者の隠密任務。曰く、ダンジョン自身の気まぐれ。
真実を言い当てた者は、ひとりもいなかった。
その日の夕方。駅裏の雑居ビル3階では、世界でいちばん呑気な容疑者が顔を出していた。
「おはようございます。……あ、これ。昨日の現場の忘れ物です」
俺は熊谷所長に、泥を拭った認識票を差し出した。所長は受け取って、しばらく黙ってそれを眺めていた。
「……協会に届けておく。ご苦労だったな」
「それと、あの洗剤の銘柄を教えてください。びっくりするくらい落ちますね」
「そうか」
所長は認識票を胸ポケットにしまい、俺の顔と提出済みの作業報告書を見比べた。
「灰崎。昨日の現場だがな」
「はい。やり残し、ありましたか」
「逆だ。……綺麗にしすぎだ」
苦笑、というやつだった。熊みたいな顔がそういうふうに動くのを、俺は初めて見た。
「掃除しすぎで注意されるんですか、この業界」
「注意じゃない。査定だ。時給、50円上げとく」
拳を握った。声には出さなかったが、机の下で握った。
時給1,250円。深夜手当込みで計算し直すと、月の見込みがいくら増えるか。頭の中の電卓が勝手に走り出す。
――いちご、買えるな。
ゼリーじゃない。パックに入った生のやつだ。なんなら、ちょっといい銘柄を。ひよりの「退院したら」リストにいちご狩りがあったはずだから、その前借りということにしておく。
事務所の隅の古いテレビが、夕方のニュースを流していた。第七ダンジョン周辺、当面の立ち入り規制。理由は「設備点検」だそうだ。
「点検ですって。うちの仕事、増えますかね」
「……さあな。次の現場は明日だ。それまで寝とけ」
「時給分は働きます」
「50円ぶん多くな」
所長は笑わずに言った。冗談なのか本気なのか、今日も読めなかった。
同じ夜。協会の記録分析室には、まだ灯りが残っていた。
紗雪は会議用の要約資料ではなく、加工前の生ログを開いていた。分析はいつも、ここからやり直すと決めている。要約は人間が作る。そして人間は、嘘をつく。
進入1名。帰還1名。認証記録を階層ごとに掘っていく。偽造パスなら必ず痕跡が出る。権限の貸与記録を遡れば、漏洩元も割れるはずだった。
だが。
パスは、偽造ではなかった。
正規発行。区分、保守。使用者登録、あり。
カーソルが止まる。所属欄の文字列を、紗雪は3回読み直した。
「……くまがい、クリーンサービス?」
清掃会社だった。
紗雪は手元のメモに視線を落とす。今朝、無意識に走り書きした一行が、そこにあった。
『まるで掃除でもしたみたいに』
……まさか。
窓の外で、世界はもう《ファントム》を探し始めている。その正体が時給1,250円で床を磨いていることを、まだ誰も知らない。




