第2話「散らかった部屋」
深夜23時の駅裏は、昼間より人の目が少ない。作業着で歩いていても誰も俺を見ないから、通勤は気楽なものだった。
くまがいクリーンサービスの事務所では、熊谷所長が段ボールを漁っていた。支給品だと寄越されたのは、業務用モップと洗剤の詰め合わせ。それにヘルメットと薄い作業手袋。俺は俺で、ゼノギアから持ち帰った自前のスプレーを鞄に入れてきていた。道具は手に馴染んだやつがいちばんいい。
「あの、防具は」
「要らん。うちの現場で死んだやつはいない」
頼もしいのか雑なのか、判断に迷う回答だった。ただ、探索者の装備リストを5年眺めてきた身として、この持ち物一式は正直で好ましい。全部が全部、汚れを落とすためだけの道具だ。
「ダンジョンの各層には協会の管理ゲートがある。緊急脱出用の設備だが、清掃業者は保守区分で使用許可が下りてる。行きは俺が飛ばす。帰りはカードをかざして『地上』を選べ」
熊谷はカードキーを1枚と、ざらついた作業指示書を寄越した。
「第七ダンジョン・第47層。全面清掃。朝6時までに戻れ」
「広さは、どれくらいですか」
「東京ドームひとつぶんだと思っとけ」
「……1人で、ですか」
「時給分でいい。終わらんでも死ぬな」
冗談なのか本気なのか、熊の顔からは読み取れなかった。ただ送り出す間際に一度だけ、熊谷は俺の手袋の先をじっと見た。何かを確かめる目だった。
管理棟の裏口から入ったゲートの部屋は、消毒液と機械油のにおいがした。円形の装置の中央に立つ。手のひらが湿っていた。第47層。ずいぶん深いが、清掃の発注が来るくらいだから、攻略済みの枯れた現場なんだろう。モップの柄を握り直す。掃除に行くだけだ。5年やってきたことを、場所を変えてやるだけ。
「行ってきます」
「おう」
視界が白く抜けた。
次の瞬間、においが変わった。
鉄錆と、カビと、砂糖を焦がしたような甘ったるさ。ヘッドライトを点ける。光の輪の中に、第47層があった。
――ひどい部屋だった。
床一面に黒い粘液がひび割れて固着している。壁という壁に、赤黒い紋様がのたくっていた。天井からは灰色の澱が鍾乳石みたいに垂れ下がり、隅には白骨がひとそろい、装備ごと転がっている。
普通なら回れ右する光景なんだろう。だが俺の頭は、勝手に仕分けを始めていた。粘液は床の汚れ。紋様は落書き。澱は水垢の親玉。骨は――遺失物、だな。
「散らかってるなあ」
声に出したら、奥の暗がりがいっせいに揺れた。
犬ほどの大きさの影が、数えるのも面倒な数で湧いてくる。目が赤い。牙が長い。魔素の塊が獣の形をとったやつだ。拠点の資料写真で見たことがある。討伐難度は確か、かなり上のほう。
……まあ、それは探索者の話だ。
俺は洗剤を吹いて、モップを一往復させた。
先頭の一匹が、拭き取れた。
音もなかった。事務所の床から黒染みが消えるときと同じ呆気なさだった。考えてみれば当然の話で、魔素でできているなら、それは俺の仕事の範囲だ。動く汚れは、拭けば落ちる。
群れが押し寄せる。モップを振る。消える。振る。消える。床を這うやつは拭き取り、飛びかかるやつは空中で拭いた。しばらくして手を止めると、フロアは静かになっていた。
「【クリーンアップ】、ダンジョンだとよく落ちるな……」
洗剤との相性だろうか。あとで所長に銘柄を聞いておこう。
次は壁の落書きだ。近づくと紋様が蠢いて、頭の中に低いうめき声のようなものが流れ込んできた。呪詛というやつらしい。道理で嫌な色をしている。
スプレーして、こする。落ちない。二度がけして、こする。じわりと薄くなる。頑固な汚れは嫌いじゃない。落ちたときの手応えが段違いだからだ。三度目で、壁は漂白したように白くなった。うめき声も、消えた。
白骨は最後に回した。装備を外して脇に揃え、骨は崩れないよう敷布の上へ移す。胸元から認識票が出てきたので、泥を拭って作業着のポケットに入れた。
「忘れ物は、届けますから」
誰に言うでもなく、そう断ってから運んだ。落とし物を持ち主に返すのも、掃除の内だ。
午前3時。ゲートの脇に座って、持参の握り飯を食った。塩むすびが2個。売店で買うより安くつく。
静かだった。掃除したての部屋の静けさは、どこでも同じだ。あの402号室も、消灯後はこんな音がするんだろうか。
妹はもう寝ている時間だ。消灯が9時で、見回りが11時。通い詰めて覚えた、あっちの時間割である。俺の時間割は、今日から逆さまになった。まあ、どっちの夜もやることは変わらない。静かな部屋を、もう少し綺麗にするだけだ。支給のモップは、柄がまだ掌に馴染んでいない。馴染むまでの時間も、時給のうちだ。
スマホは圏外だった。代わりに頭の中で電卓を叩く。時給1,200円に深夜手当。朝までやって1万と少し。……いちごが買える。ゼリーじゃない、生のやつだ。
握り飯の残りを口に詰めて、立ち上がった。後半戦だ。
仕上げは床の磨き上げだった。粘液の固着は見た目より根が深く、スキルを通すたび指先から何かをごっそり持っていかれる感覚があった。まあ、深夜労働とはそういうものだ。層の隅から隅まで。ヘッドライトの電池を2回替えた。
午前5時半。俺はフロアの中央に立って、あくびをひとつ噛み殺した。
どこまでも白い床が、光の届く先まで続いている。壁も天井も、うっすら光って見えるくらいだ。あの甘ったるいにおいは、もうどこにもない。無菌室だって、ここまで徹底してはいないだろう。
「達成感あるなあ、この仕事」
ゼノギアの5年で、こんなに手応えの見える夜は一度もなかった。誰の記録にも残らないのは相変わらずだが、汚れが落ちたことは床を見れば分かる。俺には、それで十分だった。
鼻歌まじりに道具をまとめ、ゲートにカードをかざす。行き先、地上。転送の光に包まれる寸前、磨き上げたフロアをもう一度だけ振り返った。
いい部屋になった。
――誰もいなくなった第47層で、ゲートの記録装置が小さく明滅していた。
観測データは協会へ自動送信される。敵性反応、ゼロ。残留魔素、ゼロ。呪詛汚染、ゼロ。全項目、観測開始以来はじめての完全消失。
翌朝、この数字が世界を叩き起こすことになる。
時給1,200円の清掃員は、まだ何も知らない。




