第46話「妹のために」
チームを組むぞ、と世界1位は言った。
言われた側の俺はまず、湯呑みの底で冷めた茶を飲み干した。チーム。うちの会社の言葉に直せば、班だ。班を組むなら工程表がいる。工程表を引くなら、最初に埋める欄は決まっている。
目的、の欄だ。
このふた月、あの欄には「時給」と書いてあった。その前の5年は「妹の治療費」。よく考えたら俺は、あの欄を自分の字で埋めたことが一度もない。ぜんぶ、成り行きの代筆だった。
だから今夜は、自分で書く。
「……核を、掃除します」
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
「ひよりの病気の大元は、あれなんですよね。なら話は単純です。汚れの元栓を締めれば、それ以上は汚れない。――核を掃除する。ひよりの病気の、大元を消す。俺の目的は、それでお願いします」
お願いします、は変か。だが他の言い方を知らない。雇われを8年やっても、「目的」の正しい申請書式だけは習わなかった。
レイジさんが口の端を上げる。氷室さんが手帳を開く。この人たちの返事は早い。
早くなかったのは、所長だけだった。
「――座れ。工程の前に、見積もりだ」
卓袱台に、また藁半紙が広げられる。シノさんの調査書類と、30年前の手書き地図。
「シノは核を7割消して、全額を払った。いいか、ここから先は嫌な算数だ」
「核は傷口だと言ったな。その傷口は、30年開きっぱなしだった。汚れは溜まる。育つ。……嬢ちゃん、観測値を」
「湧出量は、30年前の記録のおよそ3倍です」
氷室さんの声は、数字を読むときだけ揺れない。
「そういうことさ。今の核は、シノの頃の3倍の汚れだ。それをだ、湊。お前がこれまでのやり方で――ひとりで、ついでの残業で消すとする。支払いの見積もりは」
所長は一度、言葉を切った。手の甲の火傷を、親指でなぞった。
「――記憶の、すべてだ」
壁の針が、こつ、と鳴った。
「傘や店の名前の小銭じゃ、桁が足らん。母親の声どころの話でもない。妹の名前。顔。8年前の体育館。『退院したら』の約束。……妹がいた、という事実ごと帳面から消える。お前は核を消して、生きて帰る。帰って、妹の病室の前を素通りするんだ。誰の見舞いかも、分からんままにな」
指先が、勝手に動いていた。こすり合わせる、例の癖だ。正体はもう分かっている。財布の底を確かめる、勘定の癖。
妹を救う。その代金が、妹。
こんな伝票が通る経理が、どこにある。
誰も、しばらく喋らなかった。レイジさんの膝の上で、また拳が白くなっていた。さっきと同じ色だ。ただ、今夜のそれには行き場があった。
「――だから、チームなんだよ」
レイジさんが、地図の上に手を置いた。
「代償ってのは、消した汚れの分だけ払うんだろ。なら道中の汚れは、魔物も呪いも全部俺たちが片す。お前は財布を開かずに最深部まで降りる。開くのは、核の前で1回きりだ」
「支出を、核の1点に絞る……」
「そうさ」
所長が引き取った。
「シノの控えと観測値で試算する限り、対象を核だけに絞れば支払いは全額を割る。……残るものは、残る」
「どれだけ残るかは、分からないんですよね」
「分からん。嘘はつかん主義なんでな」
残るものは、残る。ずいぶん頼りない保証書だ。それでも、ゼロと「残る」の間には帳簿1冊ぶんの差がある。判子を押すには、十分だった。
「……その作戦で、俺は道中、何をすれば」
「寝てろ、とは言わん。体力の温存と、道具の整備だ」
「わかりました。モップ、新調します」
真顔で言ったつもりだったが、レイジさんが噴き出した。
「最短経路と、魔素の薄い時間帯は私が出します」
氷室さんが手帳に定規を当てた。
「協会の観測データを、全部使います。もちろん協会には黙って。……データの私的流用は、初めてです」
「照合したくない数字の次は、私的流用ですか」
「ええ。あなたと会ってから、経歴が汚れていく一方です」
言い方のわりに、目は笑っていた。データの人の反則は、たぶん俺の残業より高くつく。今度、茶ぐらいは奢ろうと思った。
「で、湊。妹さんには、どこまで話す」
所長の問いに、湯呑みへ伸ばしかけた手が止まった。しばらく、水面の茶柱を探すふりをした。
「……会って話すと、全部訊かれます。あいつには、嘘はつかない約束なので。――だから、手紙にします」
「会わんのか」
「会ったら、書けなくなるので」
◇
解散は深夜2時だった。
帰り道、足が勝手に病院の方へ曲がりかけて、止めた。面会時間はとっくに終わっている。分かっていて、明日の面会時間を計算している自分がいた。
交差点から、病棟が見える。窓は、どれも暗い。あいつの部屋の窓がどれかは、見なくても言える。あの窓の灯りを消させないための8年だった。今度のは、あの窓ごと守る話だ。
行って、何を話す。
「でかい仕事が入った」。ここまでは言える。「どんな仕事?」。あいつは必ず訊く。その先は、嘘か、全部か。二択だ。
俺は、ひよりに嘘がつけない。約束だから、だけじゃない。単純に下手なんだ。あいつは俺の嘘だけ、照合が早い。熱を隠してた小学生の頃から、俺の勝率は0だ。
かといって全部話せば、あいつは止める。泣いて止めるなら、まだいい。あいつのことだ。たぶん笑って止める。「私、治らなくてもいいよ」とか、そういう最悪の値引きを持ち出してくる。
その交渉のテーブルには、着かない。うちは兄妹そろって、引かない性分なんだ。
◇
アパートの卓袱台に、便箋を置いた。コンビニで、いちばんまともだったやつだ。
1行目に、30分かかった。
「ひよりへ」の次が続かない。「元気ですか」。消す。週3で顔を見てる兄の文面じゃない。「実は」。消す。実は、で始まる手紙にろくなものはない。
結局、書き出しは業務連絡になった。
――ひよりへ。仕事で、でかい現場が入った。今までで、いちばんでかい。しばらく夜勤が増えて、面会に行けない日が続く。ごめん。
――心配するな、とは書かない。書いても無駄だから。かわりに、これだけ書いておく。この現場が終わったら、お前の病気は良くなる。医者より確かな筋の情報だ。
――嘘は書いてない。全部は書いてないけど、嘘はひとつも書いてない。
――退院したら、いちご狩りに行こう。リストの1番から6番まで、順番に全部だ。夜の散歩はパジャマ禁止。あと、売店のプリンは1日1個まで。報告は上がってるからな。はいは1回。
――兄より。
読み返す。我ながら、見事な業務連絡だ。8年兄をやって、この文面か。
便箋の隅にいちごの絵を描きかけて、やめた。画力も兄の沽券も、守れる範囲で守っていく方針だ。
それでも、これでいい。声に出したら詰まるぶんは、全部インクにやらせればいい。
封をする前に、ノートを開いた。所長にもらった、真新しいやつだ。1ページ目に、今夜のぶんをつける。
「ひよりに手紙を書いた。読み返して、直すところがなかったので、まだ大丈夫」
シノさんの書式を借りた。先輩の様式ってのは、こういう夜のためにある。
◇
翌日の夕方、手紙は病院の受付に預けた。窓は見上げなかった。見上げたら、そのまま面会証に手が伸びる。
事務所に戻ると、氷室さんが卓袱台の前で仁王立ちしていた。開いた手帳のページが、経路図で真っ黒だった。
「試算が出ました。ですが、問題がひとつ」
「聞きます」
「最短経路の下半分――第80層から先が、観測データの空白地帯です。協会の無人機も、あそこからは還ってきていません。地図のない区間を、地図なしで降りることになります」
「データは嘘をつきません、でしたよね。ないものは、ない」
「ええ。だから、紙じゃない地図が要ります。この作戦には最低もう一人――深層を、足で知っている人間が」
給湯室の水音が、止まった。
所長がのそりと出てくる。手拭いで手を拭き、俺たちの顔を順に見た。それから何も言わずに、作業着のボタンを外し始めた。
「……所長?」
作業着の下から出てきたのは、焦げ茶の古い戦闘装備だった。革の胴当てに、金属の留め具。手の甲の火傷の上で、30年前の籠手が音を立てて締まった。
「言ったろう。本物の英雄ってのは、名簿の外にいるもんさ。――名簿の外から、もう1人だ」




