第45話「力の正体」
――最近、何か「忘れて」ないか。
所長の問いは、湯気の消えた事務所の真ん中に置かれたままだった。誰も湯呑みに手を伸ばさない。針の音だけが、壁でこつこつ働いている。
忘れ物、と言われて最初に浮かんだのは、ビニール傘だった。今年に入って3本なくしている。現場の詰所に置き忘れたのが2本、電車の網棚が1本。俺の帳簿で「忘れ物」といえば、その程度の項目だ。
「……傘なら、3本ほど。そういう話じゃ、ないですよね」
「ないな」
所長は広げた地図の端を持ち上げて、下から古い茶封筒を引き出した。角が擦り切れて、綴じ紐の色が抜けている。それが卓袱台の真ん中に置かれた。
「シノの力の調査書類だ。持ち出した、と言ったろう。世界に1部きりの原本さ」
紐がほどかれる。変色した藁半紙の束と、その下から小さい大学ノートが1冊出てきた。表紙は無地。隅に、几帳面とは言いがたい字で「シノ」とだけある。
「役人どもは半年かけて、あいつの力を測ろうとした。結論だけ読むぞ」
藁半紙が1枚めくられた。
「『対象の物理的破壊ではなく、概念単位の消去と推定。魔獣、呪詛、残留魔素の区別なく適用可能』……固い言い回しだがな。要するに、あの力の前では魔物も呪いも等しくただの汚れなのさ。物を壊すんじゃない。『そこに在る』という事実ごと、世界の帳面から行ごと消す」
「所見の欄には、調査官の走り書きが残っとる。――『神の雑巾』とな」
ずいぶん罰当たりな渾名だと思った。だいたい、雑巾に失礼だ。雑巾は物を消したりしない。汚れを引き受けて、自分が汚れるだけだ。
……いや。
自分が汚れる。その一点だけは、合っているのか。
「さっき言ったな。浄化は、消す対象と自分の『引き換え』だと。シノの場合――代金は、記憶だった」
「支払いは財布と同じでな。小さい汚れなら、小銭で済む。行きつけの店の名前。物の置き場所。日々の細かいやつだ。だが、でかい汚れの勘定は小銭じゃ足りん。札が出ていく。……その人間の、大切な記憶からだ」
「――支払いに、順番はあるんですか」
声は、思ったより普通に出た。所長はこっちを一度見てから、ノートの上に手を置いた。
「シノの控えを読む限り、でかい汚れほど深い場所から抜けていく。役人の書類より、こっちのほうが正確さ。あいつが自分でつけてた、支払いの控えだ」
ページが開かれた。所長は抑揚を殺した声で読み上げた。
「『実家の犬の名前を忘れた。飼っていたことは覚えているので、まだ大丈夫』」
「『小学校までの道を忘れた。地図を見れば済むので、まだ大丈夫』」
「『好きだった歌の節を忘れた。題名は覚えているので、まだ大丈夫』」
「『母の顔を忘れた。写真が残っているので、まだ大丈夫』」
1枚めくる音がして、所長の声がわずかに低くなった。
「『昨日の現場のことを書こうとして、手が止まった。何を消したのか思い出せない。たぶん、でかい汚れだった』」
氷室さんの手が、膝の上で止まっていた。唇から色が引いている。
「最後のページは、核へ降りる前の晩だ」
「『このノートをつけている理由を、ときどき忘れる。源さん、俺がへらへらしてたら、これを読ませてください』」
所長はノートを閉じた。閉じたあとも、表紙から手が離れるまでに長い間があった。
「日々の掃除の代金は、記憶だった。だが核は、そういう桁の汚れじゃない。……あれはシノから、財布ごと持っていった」
「本人に自覚はない。行ごと消える、と言ったろう。『忘れた』という事実ごと薄れていく。だから当人には、疲れと区別がつかん」
「湊。お前はここでふた月、毎晩ダンジョンを磨いた。その前の5年も、あのクランの床を拭いてきた。……で、さっきの答えだ。減ったのは疲れくらい、と言ったな」
俺は、自分の手袋の先を見た。
いや、待ってほしい。頭の中の経理が、まだ抵抗している。忘れっぽくなった自覚はある。認める。生姜焼きの店の名前。茶筒の位置。傘が3本。どれも安物だ。財布から札が抜かれていれば、さすがに気づく。俺の帳簿は、そこまで杜撰じゃないはずだ。
「顔に出とるぞ。失くしたのは安物ばかりだ、と思っとるな」
「……はい」
「なら、試してみろ」
逸らしようのない目だった。
「母親の声だ。思い出してみろ」
簡単な宿題だと思った。
母さんは、よく喋る人だった。父さんの半分寝たような相槌の横で、ひとりで2人ぶん喋る人だった。俺とひよりの名前を続けて呼んで、呼んでから用事を思い出す。そういう順番で生きていた人だ。声は、いつも――。
いつも、どんな音だった。
台所の映像は出る。エプロンの柄も出る。口が動くのも見える。
音が、ない。
消音にした古いホームビデオだった。頭の中で何度巻き戻しても、同じ場面の同じところだけが抜けている。
なら、父さんは。
8年前のあの朝、玄関で「行ってきます」と言った俺に、父さんは何か返した。返された、という事実の欄は埋まっている。
中身の欄が、白い。
最後に交わした言葉だ。命日のたびに思い返してきた――思い返してきた、はずで。
いつから、白かった。
ひよりなら覚えているだろうか。訊けば済む。訊いたら最後、なぜ訊いたのかを話すことになる。……その線は、なしだ。
湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。指先が細かく揺れていて、こぼすと思った。かわりに、指先同士をこすり合わせる。最近よく出る癖だ。この癖が何を数えようとしていたのか、今夜、ようやく分かった。
疲れだと思っていた。深夜労働の「抜け」だと。寝れば戻る側の勘定だと。
違った。あれは請求書だった。5年とふた月ぶんの。毎晩どこかで発行されて、毎晩、俺が中身も見ずに判を押してきた。
ゼノギアの5年で何を払ったのか。それはもう、確かめる方法すらない。失くした側の欄ごと、白いのだから。
「……前に、訊かれましたよね。疲れが抜けんだろう、って」
「ああ」
「あれは、これの確認だったんですか」
「そうだ」
短い答えが、いちばん重かった。あの夜この人には、もう請求書が見えていたのだ。
「……灰崎さん」
氷室さんの声は、掠れていた。
「観測された異常攻略だけで、両手に余ります。未観測の清掃を足せば、支払いの回数は――」
数字の人が、そこで止まった。手帳が閉じられる。
「……やめます。照合したくない数字は、初めてです」
レイジさんは、何も言わなかった。「はっ」のひとつも出ない。膝の上の拳だけが白くなっている。果たし合いの夜ですら軽かった男が、今夜は一枚岩みたいに動かない。人類最強が音を消すと、部屋というのはこんなに静かになるらしい。
「黙って雇って、8か月、黙って払わせた」
所長が、頭を下げた。深くはない。だが、あの首が下がるのを俺は初めて見た。
「言う資格も怪しいが。……すまん」
それから所長は、封筒の脇からもう1冊、真新しいノートを寄越した。
「お前のぶんだ。今夜からつけろ。忘れても、『あった』ことだけは残せる」
受け取ったノートは、軽かった。この軽さは、たぶんこれから重くなる。
俺はまだ、何も答えなかった。答える前に、確かめることがあった。
棚卸しだ。
ひよりの顔は、あるか。……ある。笑うとき、目が先に細くなるところまで、ある。
声は。……ある。「はいは1回」の生意気な節回しごと、ある。
8年前の体育館は。腕の中の、濡れた細い肩の重さは。……ある。
「退院したら」リストは。1番のいちご狩りから、6番の夜の散歩まで。……全部ある。
財布の底に、いちばん高い札が残っていた。
息をひとつ、吐いた。
「……ひよりの顔は、まだ覚えてます」
3人が、こっちを見た。
「声も。『退院したら』も、ぜんぶ。――なら、まだ働けますね」
我ながら、雇われ根性の染みた台詞だと思う。だが、本音はいつも実務の顔をしてやってくる。動ける理由が残っているうちは、動ける。それだけの確認だった。
「馬鹿もんが」
所長の声は低かった。低いだけで、あとが続かなかった。
「働けます、じゃ、ありません」
氷室さんが顔を上げた。
「対価の内訳も上限も、何も分かっていないんです。次の1回で何が消えるか、誰にも――」
「氷室さん。俺、8年前に判子を押してるんです」
なるべく、いつもの声で言った。
「体育館で。妹に『俺が何とかする』って言った日に。あれは全部込みの契約なので。……値札を見てなかったのは、経理として失格ですけど」
見ていたら、やめたか。
やめるくらいなら、最初から判子は押していない。それだけの話だ。
「それと、シノさんの言い方を借りるなら――」
真新しいノートを、作業着の胸ポケットに差した。
「妹のことは、まだ覚えてます。だから、まだ大丈夫です」
誰も、何も言わなかった。壁の針の音が、ふた回りぶん働いた。
畳を鳴らして、レイジさんが立ち上がった。
「――だったら、なおさらだ」
止まっていた男の声が、事務所の空気を割った。
「お前の代償、俺たちで1円でも安くする。チームを組むぞ」




