↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/48

第43話「王城、曇りきる」


 臨時取締役会は、午後8時に始まり、8時47分に終わった。


 「全員一致を確認します」という議長の声が会議室に落ちたとき、王城巧は正面の壁を見ていた。自分が10年前に掲げさせた理念プレートだ。「挑戦・信頼・成長」。フォントを選んだのも、額縁の色を決めたのも、自分だった。今夜を最後に、あれは片付けられる。


 解任。吸収合併。代表権の移転。弁護士が読み上げる単語はどれも正確な日本語で、意味はすべて分かった。分かった上で、どこか遠い建物の会議として聞いていた。


 退出のとき、取締役の誰かが肩に手を置きかけて、やめた。言葉の在庫は全員で切れていた。廊下に出ると、秘書が深く頭を下げた。顔を上げた秘書の目が赤かった。王城は「ご苦労様」とだけ言った。それ以外の言い方を、今夜は知らなかった。


 ◇


 オフィスへ戻ったのは、他に行くところがなかったからだ。


 深夜のフロアは、主電源だけ落とした状態で薄暗かった。デスクの上には書類の山がある。決裁待ち、調査中断、返答保留。すべて明日からは後任の管轄になる。自分のデスクに座るのも、今夜が最後になる。


 椅子の感触を、今日初めて確かめた気がした。10年使った革張りの椅子だ。背もたれの右端に、ひびが入っている。いつからひびが入っていたか、知らなかった。


 ノートPCを開いた。特に理由はなかった。習慣だ。王城巧という人間の35年は習慣の積み重ねで出来ていて、習慣だけが今夜もまだ動いていた。


 マウスを持った手が、自分でも驚いたことに、迷わず動いた。


 ファイル名:「事故率推移_2023Q1-2024Q4.xlsx」。


 2024年10月を境に、折れ線が折れている。0.3パーセント台だったものが、今期は1.1パーセントだ。パーセント単位では小さく見える。現場の言語に翻訳すると、骨折3件・眼傷害1件・熱傷2件を意味していた。調べたのは、与野の報告書を受け取った翌日のことだ。数字の顔が変わるのに、一晩かかった。


 スクロールすると、設備メンテナンスの支出グラフが続いた。


 2024年10月に、支出が落ちている。


 中和剤のバルクコスト削減。外注清掃の段階縮減。防護装備の交換サイクル延長。いずれも王城が稟議を通した改善案だ。それぞれが何パーセントの割合で、グラフの折れ目と繋がっているか。数字は結果しか語らない。原因の分配率まで、表計算ソフトは教えてくれなかった。


 隣のフォルダを開いた。


 「クラン内アンケート_職場満足度_2023-2024」。総務が定期で取るやつだ。数字だけ確認して、ずっと閉じていた。


 2023年度。「チームの雰囲気」の設問。「良い」「やや良い」の合計が71パーセント。


 2024年度。同設問。54パーセント。


 17ポイント。


 なぜ落ちたかを、当時は確認しなかった。業績が落ちれば雰囲気も落ちる、と処理した。それで次の会議に進んでいた。3日前の与野の言葉が、今夜になって耳に戻ってきた。


 『代表。我々の中和剤を削ったのと同じ基準で、あの人を切ったんですか』


 松葉杖をついて代表室まで上がってきた男が、報告の最後に一言だけ置いていった。請求書だった。


 フォルダの中に、自由記述の回答ファイルがあった。開いたことが、一度もなかった。


 スクロールしながら、ひとつの記述で手が止まった。


「夜勤明けに、清掃の人が差し入れ置いてってくれてた。今年はなくなった。あんまり関係ないかもしれないけど、なんか毎日がちょっと違う気がする」


 記名なし。日付、2024年11月。


 差し入れ。清掃の人。


 何かが音を立てて繋がりかけた。繋がる前に目を逸らしたくなった。こういう感覚には慣れていない。でも今夜は、目を逸らす先がなかった。


 ◇


 引き出しを開けたのは、気づけば手が動いていた後だった。


 一番上の引き出しの、いちばん奥。退職処理票のファイルがある。その下に、1枚だけ挟まっていた紙がある。ずっと、捨てられずにいた。


 業務連絡メモ。B6の罫線紙を切り取ったもの。几帳面な字が並んでいる。


「第25層・第26層、清掃完了しました。第26層は魔素汚染が酷かったので、2時間超過しています。残業代は請求しません。次の人が気持ちよく使えるように、念入りにやりました。」


 日付なし。名前なし。


 当時、このメモを総務が持ってきたとき、王城は「残業代不請求は規定違反になる可能性がある。次回から申請するよう伝えておけ」と言った。おそらくその後すぐ、次の会議のことを考えていた。


 几帳面な字を、しばらく見た。


 誰も見ていない場所で、2時間、自分の仕事をした人間がいた。報告書に名前を入れることすら思わなかった人間が、ここだけに字を残した。「次の人が気持ちよく使えるように」と書いた人間を、王城巧はコストの一行として処理し、20万円と交換した。


 数字は間違っていなかった。規定どおりで、1円の違いもなかった。


 計算の前提が、最初から間違っていた。


 値段で測れると思っていた。正確な単位で測れば正確な答えが出ると思っていた。測れる単位で測った結果が20万円で、今日の1億も、同じ間違いで弾いた数字だった。


 今日あの男が言ったことが、今になって、ようやく聞こえた。


 ――俺は同じ俺なんです。あの日も今日も、やってることは床拭きなので。


 単位が、最初からずっと、合っていなかった。


 オフィスの空調が、切れた。


 深夜の静けさが降りてくる。書類の山は変わらずそこにある。片付けなければいけないものは何十年分もある。でも今夜は、一枚の紙が重くて、他のものに手が届かなかった。


 床を見た。


 くまがいクリーンサービスとの契約は、吸収合併後の新代表が判断することになる。おそらくコスト効率の観点から見直される。そういう計算は、新代表のほうが上手い。


 今夜だけは。


 あの几帳面な字の持ち主が最後に磨いた床を、ひとりで踏んでいた。


 窓の外は夜明けの手前だった。ビルの谷間に、ごく薄い光が滲んでいた。


 10年、気づかなかった背もたれのひびが、今夜だけは指の先にある。


 見えすぎる夜だった。取り返せないものだけが、鮮明だった。


 ◇


 同じ夜、ダンジョン7番街から2本入ったところの古いビルに、明かりがついていた。


 「くまがいクリーンサービス」の事務所で、熊谷源三が棚から古い地図を引き出して、3人を待った。湊が入ってくると、所長は地図を広げたまま口を開いた。


「約束通り、全部話す」


 いつもより低い声だった。


「三十年前の話と――お前の力の正体だ」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【コミカライズ版 配信中!】

コミカライズ版表紙

本作のコミカライズ版を制作しました!
Kindle Unlimited対象です。

▶ Amazonでコミカライズ版を読む
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。