第42話「古巣からの誘い」
夕方の病院前は、まだ明るかった。
監視の目玉は、西の果たし状に釣られている頃だ。テレビの中では今日も、世界1位が嘘の興行を売り歩いてくれている。……その網の外から客が来ることは、誰の段取りにも入っていなかった。
「久しぶりだな、灰崎」
王城巧。俺の5年を「コスト」の3文字で締めた人だ。ふた月ぶりに聞く声は、朝礼のマイク越しではなく地声だった。
「……ご無沙汰してます」
口が勝手に敬語を出した。5年の癖は、ふた月では抜けないらしい。
王城の視線が、俺の背後の建物へ上がりかけた。俺は半歩、立ち位置をずらした。その目と4階の窓のあいだに、俺の頭が入る位置だ。意味があるとは思っていない。ただ、そうしないと気が済まなかった。
「話がある。時間をもらいたい」
「ここ、患者さんの出入り口なので」
「場所はこちらで用意する。……乗ってくれ」
断る手も、あるにはあった。ただ、この人がここに立ち続けるほうがよほど困る。黒塗りの車と皺のないスーツは、病院の玄関先では油染みみたいに目立つ。汚れの対処は決まっている。見つけた場所から、遠ざける。
「病院から離れるなら、どこでも」
乗る前に、所長へ一報だけ入れた。『客先対応が入りました。出勤、少し遅れます』。嘘はついていない。前の客先、というだけで。
車内で、王城は一言も喋らなかった。手入れされた爪が、膝の上の書類の角を揃え続けていた。あの爪は覚えている。ふた月前、俺の5年を3分で査定し終えた指先だ。
一度だけ、口が開きかけた。
「妹さんの容体は――いや」
言いかけて、王城は窓の外へ顔を戻した。訊く資格の計算でもしたのかもしれない。おかげで俺も、答えを用意せずに済んだ。
高級車の革シートには、安物の消臭剤のにおいが染みていた。どこの会社も、見えないところは似たようなものらしい。
着いたのは、本社ビルだった。
通されたのは通用口ではなく、正面ロビーだった。5年通って、初めて歩く動線だ。歩くあいだも、目が勝手に床を読む。ワックスの層が切れている。継ぎ目に黒ずみ。柱の根元には、モップの届いていない三日月形の取り残し。……外注は安い。安いなりの床になっていた。
応接室は、あの部屋だった。
解雇を言い渡された部屋だ。俺が最後に二度がけした床は、照明を鈍く返すだけになっていた。受付にいた観葉植物は消えて、同じ鉢に埃をかぶった造花が刺さっている。枯れる手間まで、削減されたらしい。
この床の上で切られて、この床の上で呼び戻される。世の中の脚本は、たまに手を抜く。
「掛けてくれ」
勧められたのは、上座だった。
ふた月前に俺が立たされていた側へ、王城巧が腰を下ろした。
◇
交渉は、相手の欲しいものから並べる。20年かけて磨いてきた手順だった。
材料は揃えてある。生還者24名の聴取記録は、全頁を三度読んだ。監査の崖も、0.3パーセントの正体も、とうに頭へ入っている。それから、3日前のことだ。松葉杖で代表室まで上がってきた与野が、報告の最後に一言だけ置いていった。
『代表。我々の中和剤を削ったのと同じ基準で、あの人を切ったんですか』
あれは報告ではなかった。請求書だった。だから今日は、支払いに来た。数字で失ったものは、数字でしか買い戻せない。それが王城巧の知る、唯一の払い方だった。
テーブルには、法務が三晩かけた契約書の束がある。同席の総務部長は、さっきから同じ頁を三度めくり直していた。
当の灰崎湊は、出された茶に手をつけていない。視線は王城ではなく、斜め下の一点にあった。たどった先は、床の継ぎ目の黒ずみだった。この部屋に通される人間は、壁の時計から革の質まで値踏みをしていく。床の汚れを見た客は、初めてだった。
王城は、立った。
「単刀直入に言う。――戻ってきてほしい」
そして、頭を下げた。株主にも銀行にも下げたことのない角度まで。練習はしてこなかった。してこなかったものは、本番でやるしかなかった。
「年俸1億。専属契約。妹さんの治療費は、全額うちが持つ。専属の医療チームも付ける。国があなたを囲いに来ても、うちの法務が盾になる。企業の専属契約者には、国も簡単には手を出せない」
沈黙が、返ってきた。
頭を上げて、その沈黙を読む。交渉の間。金額の吟味。そう読んだ。そうとしか、読めない言語で20年やってきた。
「足りなければ言ってくれ。役員待遇でも株でもいい。数字なら、いくらでも積める」
総務部長が、契約書の束を湊の前へ滑らせた。湊は、表紙に手を置きもしなかった。
「……あの、俺、前は雑用係でしたけど。1億って、どの業務の求人ですか」
「与野の報告を読んだ。生還した24人の証言も、全部だ。あなたが夜に何をしているか、私はもう数字で知っている。名前は要らない。契約書にも書かない」
「夜のは、業務なので」
噛み合わない。いや――噛み合わせる気が、向こうにない。王城は座り直して、札を切る順を組み替えた。
「なら、治療費の話を先にしよう。月40万の自費診療。調べはついている。あなたの時給では、あと何年もつ」
「……治療費の話は、ありがたいです。本当に」
湊は、湯呑みの横の一点を見たまま言った。
「でも、妹の病気は、もう金で追いつく段階じゃないんです。薬は上限まで来てます。原因が、金の届かない場所にあるので」
「金で買えない医療はない。海外の治験でも、未認可薬でも、うちの渉外が――」
「王城さん」
遮り方は、静かだった。静かなのに、空調の音が引っ込んだ気がした。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「……何だ」
「あの日――俺を切った日です。俺の5年に、あなたはいくらの値段をつけましたか」
答えなら、知っている。代表室の引き出しの一番上で、ふた月伏せたままの紙に書いてある。退職処理票。氏名、灰崎湊。勤続5年。支給額の欄。
「規定の……退職金が」
声が、そこで在庫を切らした。
「20万円でした」
当人が、静かに引き取った。
「振り込みは確認しました。手続きは正確で、1円の間違いもなかったです。……そういうところは、きちんとした会社だと思ってます」
嫌味の調子は、どこにもなかった。だから、刃だった。
総務部長の手元から、紙の音が消えた。造花の埃まで動きを止めたような静けさが、応接室を満たした。
20万と、1億。同じ男に、同じそろばんが弾いた数字だった。
数字で語れ、灰崎。ふた月前、この部屋で、自分はそう言った。……いま数字で語れていないのは、どちらだ。
「あれは……あの時点の、情報では」
「分かってます。責めてるんじゃないんです」
湊は初めて、少しだけ困った顔をした。
「あなたの数字は、いつも正直なんだと思います。あの日の俺は20万で、今日の俺は1億。相場ってそういうものですよね。……ただ、俺は同じ俺なんです。あの日も今日も、やってることは床拭きなので」
「算定が間違っていた。認める。だから訂正に来た。数字で語らせてくれ。今度こそ、正しい数字で――」
「その数字、来月にはまた変わりますよ」
立ち上がる音が、した。
「俺の相場が下がったら、あなたのそろばんはまた正直に弾くでしょう。それが悪いとは言いません。ただ、俺はもう、値段のつく場所に住んでないんです」
「……なら、何が望みだ。数字で語れないものを、私はどう払えばいい」
「今の職場、時給1,250円です」
湊は、作業着の袖口を直した。
「所長は、俺を名前で呼びます。間違えたら、馬鹿もんがと叱られます。差し入れの握り飯を、俺より速く食う人がいます。俺の掃除した床を、綺麗すぎると言った人がいます。……あと、妹が言うんです。お兄ちゃんはすごいんだよって。世界が気づいてなくても、あいつは最初から言ってました」
反論の札を、頭の中で探した。桁を上げる。医療の質で押す。国の包囲で釣る。――どの札も、いま読み上げられた資産の前では、紙屑の顔をしていた。
それから、あの男は言った。
「俺は数字に戻るんじゃなくて、人のところに帰るんで。……お世話になりました」
礼を、した。
王城は、その角度を知っていた。ふた月前、この部屋で見た。磨き上げた床の上で、5年をたった一礼で畳んでいった男の、あの角度だった。
ドアが、閉まる。
総務部長が何か言いかけて、やめた。気の利いた敬語の在庫も、今日は切れたらしい。
王城は、契約書の白い表紙を見下ろした。
数字は、間違っていなかった。1億は妥当だ。監査の崖が証明している。……金額を間違えたのではなかった。通貨を、間違えたのだ。
あの男の帳簿は、円建てではなかった。名前で呼ぶ声や、握り飯の速さや、床を褒める目で回っている帳簿だ。この会社が5年間払わなかったものは、どの口座からも送金できない種類のものだった。そして、それを毎日払っていた連中のところへ、あの男は歩いて帰っていった。
買い戻せないわけだ。最初から――売り買いの話では、なかったのだから。
内線が鳴った。秘書の声は、いつもより1音高かった。
「臨時取締役会の招集です。今夜8時から、と」
「議題は」
「……代表の進退について、です」
受話器を置いて、王城は床を見た。照明を鈍く返す、曇った床だった。この床が鏡みたいに光っていた朝を、確かに知っている。誰が磨いていたのかを、ふた月前まで知らなかっただけだ。
5年分の計算違いの請求書が、今夜、まとめて届こうとしていた。




