第41話「包囲網」
聴取記録は、24人ぶんあった。要点は1行に収まった。
――モップを持った作業着の男に、全員が助けられた。
深夜の対策室で、首藤は調書の束をめくり直した。発足からひと月半、実体のなかったこの部屋に、初めて実体のある紙が積まれている。寄せ集めの12名が、今夜は誰も帰らない。証言は細部まで揃っていた。石鹸のにおい。白く解けていく瓦礫。第一声は「夜間清掃です」だったという。極限下の集団幻覚を疑う声は、24人目の調書で消えた。
そして古参の隊員がひとり、名前を口にしていた。灰崎。昔、うちのクランにいた、備品倉庫の。
ゼノギアの人事記録との照合は、1時間で済んだ。ふた月前に経費削減で解雇された後方支援要員が1名。灰崎湊、23歳。現職、くまがいクリーンサービスの清掃員。深夜勤務。妹がひとり、都内の病院に長期入院中。
部下が観測資料を横に並べた。《ファントム》の稼働は深夜0時から明け方5時、平日のみ。清掃会社の夜間シフトと、定規で引いたように重なった。
「……時給は」
「照会済みです。1,250円かと」
ホワイトボードの隅には、各国の値札が消え残っている。10億ドルの下に、誰かが円建ての時給を書き足した。笑う者はいなかった。この幽霊を追い続けた人間には、笑うより先に整理すべき書類がある。
方針は官房決定で降りてきた。公開捜査に切り替え、名目は「保護」とする。
保護。役所の辞書では、囲いの内側へ入れることをそう呼ぶ。行き先が檻でも、餌が付けば保護と読める。25年の翻訳業でも、ここまで訳の楽な単語は珍しい。
ただし外務省が待ったをかけた。顔写真の公表は当面見送り。理由は「国際調整」。訳せばこうだ――顔を世界に晒した瞬間、札束の速い国が先に攫う。公表は、囲いが閉じてからにしろ。
結果、表向きは何も起きない。動くのは水面の下だけだ。
第1班、病院。第2班、清掃会社。第3班、駅前の定食屋を含む生活動線。監視は非接触、記録のみ。接触の権限は室長預かり。
首藤は名簿の1枚目に目を戻した。氏名の下に家族欄がある。妹、16歳、入院中。赤ペンで名前を囲おうとして、ペン先が1秒だけ止まった。
――囲うのは、名前だけだ。今のところは。
包囲の線は、音もなく閉じられた。
◇
水曜の午後、面会前の廊下で、俺は新顔の清掃員を見た。
4階の給湯室前。うちと同じ型のモップを、その男は水の滴る角度で運んでいた。絞れていない。バケツの位置も動線の逆だ。極めつけに、床を拭く目が床を見ていない。エレベーターと面会受付だけを見ている。
……素人だ。それも、掃除以外の。
思えば、ここ数日は妙だった。定食屋に、割り箸の袋を几帳面に結ぶスーツの客が増えた。事務所前の電柱には、毎晩同じセダンが停まる。搬入ゲートの吸い殻は、銘柄ごと入れ替わった。汚れというのは正直だ。人が増えれば、嘘をつかずに増える。
誰かが俺の周りを、掃除のしにくい配置で囲い始めている。
理由は分からない。ただ、譲れない順番なら分かる。
402号室は、駄目だ。
その夜、仕事用とは別の端末が震えた。
『統計の話がしたくなりました』
急ぎの合図だった。
閉店後の事務所には、先客が2人いた。新品の扉を検分しているレイジさんと、湯呑みを4つ並べる所長だ。扉の代金は、蹴破った本人の帳簿から出たらしい。
氷室さんは、印刷した紙を3枚テーブルに置いた。何でも端末で済ませる人が、今夜は紙だ。つまり、残せない話だった。
「結論から言います。国が動きました。内閣の特異攻略者対策室が、あなたを特定しています」
「特定って……俺を、ですか」
「灰崎湊、23歳。遭難事件の生還者24名の証言と、ゼノギアの人事記録の照合で。方針は公開捜査。名目は『保護』です」
「保護。……落とし物みたいですね」
「実態は国家管理です。管理番号と、行動制限と、面会制限が付きます」
面会制限。その5文字だけが、耳の奥に残った。
「ただし顔写真の公表は保留されました。国際調整――他国に先を越されないための時間稼ぎです。だから表は静かなまま、動くのは監視だけ。病院、この事務所、定食屋。生活圏の3点です」
「道理で。……掃除が下手なわけだ」
「気づいていたんですか」
「モップの絞りが素人でした。あと、吸い殻の銘柄が」
レイジさんが噴き出した。所長は湯呑みを置いて、天井を仰いだ。
「監視の専門家が、清掃員に現場で負けてやがる」
「報せが今日になったのは、網の全図が揃うのを待ったからです。中途半端な地図は、事故のもとですから。――それで湊さん、先に希望を聞かせてください。守る順番を決めます」
「病室です」
考えるより先に、声が出ていた。
「俺のことは、いいんです。尾行でも監視でも、させておけば。……ただ、ひよりの病室に知らない大人が入るのだけは、駄目です。あいつ、初対面の人の前だと、ちゃんと元気なふりをするので」
3人が、それぞれの黙り方をした。レイジさんは腕を組み、所長は茶柱を見た。
氷室さんが最初に、目を紙へ戻した。
「――では、そこを最優先で組みます」
癖のとおり、白い指が折られていく。
「一。網の穴を使います。監視班の引き継ぎは6時間ごと、報告は室長への一方通行。つまり引き継ぎの前後15分、網の目は粗くなる。面会と出退勤は、そこへ通します」
「二。病院には協会名義で『患者保護区画』の申請を通します。面会フロアから、部外者を規定ごと締め出す」
「三。データは今夜から紙で渡します。回線は、向こうも聞いていますから」
「そういう会議に、氷室さんが座ってるんですか」
「協会側の連絡役として。網の張り方を決める席で網の避け方を考えるのは――なかなか、いい眺めです」
嘘0割の顔で、氷室さんは物騒なことを言った。
「なら、派手なほうは俺の担当だ」
レイジさんが指の骨を鳴らした。
「明日、会見を開く。『ファントムから果たし状が届いた。決着は月末、西の第三ダンジョンで』――ってな。カメラってのは、でかい音のするほうへ転がる。監視の目玉も、半分は釣れる」
「……果たし合いなら、この前しましたよね」
「あれは非公開だ。今度のは興行よ。俺が囮になる。世界1位の看板の、正しい使い方だ。はっ、面白くなってきた」
「嘘の果たし状って、あとで怒られませんか」
「怒らせとけ。減るのは俺の株だけだ。……安い出費だぜ」
最後に所長が、金庫から古い台帳を出した。表紙の角が丸くなった、紙のやつだ。
「うちは今日からシフトを紙に戻す。お前の名は台帳から外して、外注の記号にする。国が本気で紙をめくりに来たら――そんときは、そんときだ」
「……皆さん、俺のことで仕事が増えてますよ。時給も出ないのに」
「馬鹿もんが。掃除ってのはな、汚れが来る前に段取りするのが一番安く済むんだ」
テーブルの上に、3枚の紙と古い台帳と、嘘の果たし状の筋書きが並んだ。
妙な夜だった。俺はいつも、誰かの床を拭く側だった。拭かれる側に回るのは、どうにも慣れない。慣れないが――換気の通った部屋みたいに、息だけは吸いやすかった。
3日後の夕方。面会帰りの病院前は、静かだった。
4階の偽清掃員は、今朝から姿を消していた。「患者保護区画」の札が、面会フロアの入口で仕事をしている。定食屋のスーツも消えた。テレビの中では、世界1位が果たし状を振り回している。網の目玉は、西へ転がったらしい。
だからそれは、網の外から来た。
正面に、黒塗りの車が停まった。後部座席のドアが、内側から開く。
降りてきた男は、監視員の歩き方をしていなかった。誰にも隠れず、まっすぐこちらへ歩いてくる。磨かれた靴。皺のないスーツ。5年間、朝礼の壇上でしか見なかった顔が、いま目の高さにあった。
――王城巧、その人だった。




