第40話「人類最強との果たし合い」
扉ってのは、開けるもんじゃねえ。開くもんだ。俺の場合は大抵、蹴ったあとで開く。
「見つけたぜ、飯の兄ちゃん――いや、《ファントム》!」
事務所の中で、湯呑みがふたつ止まっていた。作業着の兄ちゃんと、白髪の親父さん。込み入った話の途中だったらしい。悪いが、順番待ちの稽古はしてねえ。蝶番の代金は、俺の帳簿につけとく。
「……引っ越し屋さん?」
「その呼び名も、今日で店じまいだ」
兄ちゃんは俺を見て、倒れた扉を見た。それからもう一度、俺を見た。いつもの、深く考えるのをやめる顔になるかと思った。ならなかった。今夜は目が逃げてない。――逃げ方を、忘れた目だ。
種明かしをしてやる。俺の商売は追いかけっこだ。獲物を直接追って駄目なら、獲物を隠した奴を追う。張り込みは3日で済んだ。缶コーヒー9本ぶんだ。
「あの分析官はな、書類の鬼だ。その鬼が、ここひと月ばかり報告書を1枚も上げてねえ。代わりに何をしてるかと思や、病院と清掃会社と定食屋を回る軌道に乗ってる。……石が動いたら、水の出どころはその先だ」
「氷室さんは、関係ないです」
「おう。庇うその返事が答えだ」
兄ちゃんが黙った。素直な男は、こういうとき損をする。
あとは俺の側の帳簿だ。深夜にだけ更新される攻略記録。粉をかぶった作業着に、夜勤の『広い現場』。差し入れの塩むすびの、あの塩加減。全部、最初から目の前に並んでた。俺が並べ方を知らなかっただけだ。
「深夜のは、業務なので。……その、時給の」
「その時給の中身をな、世界中が8か月がかりで探してんだよ」
俺は一歩、間合いに入った。
「定食屋で約束したよな。探し人に会えたら、一番に教えるって。……教えに来た。――お前だ」
「人違いです。俺は、ただの清掃員で」
「なら証明しろ。俺と勝負しろ。お前が本物か、この手で確かめてえ」
「あの……俺、勝負とかは。時給も、出ないですし」
沈黙を破ったのは、親父さんだった。湯呑みを置いて、座ったまま言う。
「天海レイジ。世界1位が、うちの従業員に何の用だ」
「……えっ。引っ越し屋さんが、テレビの人?」
食いつくのが、そこかよ。
「果たし合いの申し込みだ。作法は古いが、中身は本気だぜ」
親父さんは長いこと俺を見た。値踏みの目じゃねえ。もっと古い目だ。俺より深い場所を、見てきた目だった。
「……いいだろう。場所はこっちで決める。封鎖済みの旧区画――通称、廃層。観測機も野次馬もおらん。夜明けまでに終わらせろ」
「所長?」
「湊、お前は夜勤扱いにしてやる。……見とけ。自分の『洗剤』が外で何をしてるか、そろそろ知る頃合いだ」
「はあ。夜勤なら、まあ」
頷き方が給与明細のそれだった。人類最強との果たし合いが、ただの残業として受注された。10年やってきて、こんなに軽く扱われた挑戦状は初めてだ。
移動は社用のワゴンだった。人類最強が清掃会社の助手席に納まってる図なんぞ、報道陣に千金で売れるだろうよ。
「灰崎湊。23だ」
親父さんは前を向いたまま、それだけ寄越した。世界中が血眼で探した名前は、あっけねえ三文字だった。
「腕試しは構わん。だが、ひとつ覚えとけ。あれは戦う男じゃない。……働く男だ」
戦うと働く。何が違うのか、そのときの俺には分からなかった。分かるのは、胸の鳴り方が10年ぶりだってことだけだ。期待ってのは、外れると燃料代より高くつく。だから回収には、自分で行くと決めてる。
――で、廃層である。
照明の死んだ天井。錆びた手すり。封鎖されて何年も経つ、時間ごと埃をかぶった階層だ。空気が古い。埃と錆の匂いがする。舞台としちゃ上等だった。誰の記録にも残らねえ。俺とこいつの、二人ぶんの呼吸しかない。
「……ここ、終わったら掃除していいですか。散らかってるので」
「お前はまず、俺の相手をしろ」
湊は、モップを担いで立っていた。
「……武器、それか」
「仕事道具しか、持ってないので」
「上等だ」
俺は構えた。10年ぶんの構えだ。足の裏で床を確かめる。息を半分捨てる。周りの魔素をたぐって――
たぐれなかった。
なんだ、これは。
魔素ってのは埃みてえなもんでな。どこにでも漂ってる。俺たちはそいつを握り固めて、拳に乗せる。それがここには、ひと粒もねえ。こいつの周りだけ、世界が拭き上げられてる。
「どうか、しました?」
「……いや。挨拶代わりだ。避けろよ」
自前の魔素を絞り出して、一撃を放った。並の防壁なら10枚抜く圧だ。
消えた。
途中で薄くなって、なくなった。着弾がない。音もない。布巾でひと拭き――そういう消え方だった。
湊は避けてもいなかった。モップを担いだまま、こっちを覗き込んでいる。
「今、何か飛んでました? 汚れなら、落としましたけど」
汚れ。世界1位の初手が、汚れ。
はっ。面白くなってきた。
そこからは、俺の10年を全部使った。角度を変えた。速度を変えた。フェイントを挟んだ。錆びた手すりを蹴って、死角から回り込んだ。
組み立たない。
攻撃ってのは呼吸だ。吸って、溜めて、吐く。だがこいつの周りじゃ、吸うものがねえ。溜めた端から綺麗になっていく。踏み込んだ床は磨かれた鏡で、俺の足音だけが場違いに響く。汗が落ちる。床に届く前に、消える。
なら生身だ。肘も入れた。膝も入れた。魔素を乗せない連撃なら、消しようがねえはずだ。読みは当たった。当たって、届かなかった。最後の半歩で、足が勝手に止まる。理屈じゃねえ。獣の部分が嫌がってる。この綺麗さの中に、土足で踏み込むことをだ。
途中、あろうことか、こいつは床を掃き始めた。俺が息を整えてる10秒の間にだ。
「癖なので」
だとよ。俺の果たし合いは、こいつの清掃業務の隙間に挟まってるらしい。
戦いにすら、なっていなかった。
最後の一撃は、宣言してから放った。溜めに3秒。俺の10年で、いちばん重い右だ。
世界1位の全力は、こいつの手前1mで、ただの埃に戻った。
静かだった。
膝から力が抜けた。俺はそのまま、大の字に倒れた。拭き上げられた床が頬に冷たい。悔しいくらい、清潔だった。
「はっ、ははは! なんだそれ! 敵わねえ!」
笑いが止まらなかった。笑うたびに、10年ぶんの肩の荷が軽くなる。寝たまま考えた。あと100回やって、俺は1回でも当てられるか。……無理だな。100回とも、床が綺麗になって終わりだ。負けってのは、こんなに息がしやすいのか。誰も教えてくれなかったぜ。
「あの、大丈夫ですか。救急車、呼びます?」
「呼ぶな。……約束の続きだ。探し人の結末、気にしてたろ」
「……はい。結末だけ、と言ったので」
「完敗だ。俺のな。――で、そいつはいま、目の前でモップ担いで突っ立ってる」
湊はモップを担ぎ直して、座りの悪い沈黙をした。褒められ方を知らねえ顔だ。まあいい。本題はそっちじゃねえ。
「定食屋で言ったろ。会って、言いたいことがあるって」
「……覚えてます」
「無理してんじゃねえよ。一人で全部やってる奴は、いつか折れる」
言えた。10年、俺が誰かに言われたかった一言だ。やっと、言う側で言えた。
湊はしばらく黙っていた。それから、あの夜と同じ薄い声で返してきた。
「……はい。だから最近、仲間ができました」
「そうかよ」
短い返事しか出なかった。長い返事は、声が湿る。
「所長と、氷室さんと。……あと、たぶん」
言い淀んで、こっちを見る。俺は寝たまま、拳だけを天井に突き上げた。
「おう。今夜から一枠、俺が埋める」
「時給、出ませんよ」
「はっ。賞金なら腐るほどある。使い道が、いま決まった」
湊が笑った。夜勤明けみてえな、気の抜けた笑い方だった。定食屋のカウンターと同じ顔だ。なるほどな。世界がひっくり返って探してる男は、こういう顔で床を拭いてやがったのか。
並びてえと、ずっと思ってた。俺の隣は10年、空席だった。……見当違いだったな。この男は、隣に立つ器じゃねえ。もっと低いところにいる。誰よりも低く屈んで、世界中の足元を拭いてる。なら俺の仕事も決まりだ。並ぶんじゃねえ。この綺麗な床の上で、誰より派手に暴れる係だ。
ああ、そうか。俺はこいつに、勝ちたかったんじゃねえんだ。折れる前に、間に合いたかったんだ。10年ぶんの用件が、たった一言で済んじまった。
起き上がりかけたとき、ポケットで無粋な音が鳴った。
葛西からだ。着信11件の男が、今夜は1件目で本題を言った。
『レイジさん、いまどちらです。――国が、ファントムの公開捜査を決めました』
「……公開、だと」
『顔写真付きで、です』
拭き上げられた床の上で、俺は立ち上がった。
せっかく綺麗になった世界に、さっそく汚れた話が降ってきやがった。




