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第39話「大掃除の依頼」


 午後10時の事務所は、洗剤と古い畳のにおいがする。5年通った大手クランのロビーより、よほどまともなにおいだと思う。


 熊谷所長は事務机で日報をめくっていた。老眼鏡を鼻までずらしている。湯呑みの茶は半分。機嫌は悪くなさそうだ。雑用を5年やっていると、切り出す間合いだけは読めるようになる。


 俺は出勤簿の前で息をひとつ吸った。今夜は判を押す前に、済ませることがある。帰りの電車の中で、口上の練習までしてきた。練習した台詞ほど、本番で出てこないものだが。


「所長。昨日の話の続きです」


「第66層より下の掃除、だったな」


 日報から顔も上げずに返ってくる。


「うちの契約は第50層までだ。それより下は協会の直轄区域で、清掃発注そのものが存在せん」


「存在しないなら、作ってもらうことは」


「できん」


 即答だった。だろうな、とは思っていた。思っていたが、引き下がる選択肢は持ってきていない。今夜の俺は、時給の交渉に来たんじゃない。


「所長。俺、最深層の掃除がしたいんです。いちばん奥の、大掃除を」


 日報をめくる手が、止まった。


 老眼鏡が外される。熊みたいな目がこっちを向いた。誤魔化しの利く目じゃない。それに、妹と約束している。嘘はつかない、と。


 だから、全部話した。


 ひよりの病気のこと。402号室の窓際で、妹が季節の移りを数えていること。魔素症候群の進行が、治療の速度を追い越しつつあるという医者の見立て。体の中へ魔素を注ぎ続ける「供給源」――最深層の核が消えない限り、根治の目はないこと。そして紗雪さんのデータが弾き出した数字。核の完全覚醒まで、推定百日。


 途中から、熊谷は日報を閉じて聞いていた。口は一度も挟まれなかった。湯呑みの茶が冷めていくのが、横目にも分かった。


 自分の声がやけに平坦なのは分かっていた。感情を乗せたら、どこかが崩れる。だから数字と事実だけを並べた。見積書を読み上げるみたいに。そうでもしないと「百日」という単語が、喉で引っかかって出てこない。


「――というわけで。まあ、掃除しときますね。最深層」


「軽く言うな、馬鹿もんが」


 湯呑みが、音を立てて置かれた。


「あそこはお前が磨いてきた枯れ層とは違う。協会の精鋭が挑んで、何人戻らなかったと思ってる」


「知ってます。求人の出ない職場なんですよね」


「茶化すな」


 短く言って、熊谷は黙った。


 長い沈黙だった。壁の時計の秒針だけが、事務所の空気を刻んでいく。俺は立ったまま待った。掃除と交渉は似ている。こすって落ちない汚れは、浸け置きで待つしかない。


 やがて熊谷が、妙なことを訊いてきた。


「お前、最近、疲れが抜けんだろう」


「……深夜勤務ですから」


「そうか」


 それきり、また黙る。何の確認だったのか分からないまま、俺は続きを待った。


 熊谷は椅子を軋ませて立ち、事務机の奥へ手を伸ばした。


 伏せられた写真立て。前に一度だけ触りかけて、本気の声で叱られたやつだ。


 それが、起こされた。


「見ろ」


 色の褪せた写真だった。ダンジョンのゲート前で、若い男が6人肩を組んでいる。真ん中で笑う大男には面影があった。30年ぶんの皺を取った、熊谷所長だ。


「これ、所長ですよね。……ってことは、隣の人たちは」


「初代攻略隊。ダンジョンが最初に開いた年に、国が搔き集めた5人だ」


 湯呑みの茶が、静かに揺れた。


「名簿の上では、全員死んだことになってる」


「……生きてるじゃないですか。ここに」


「生き残りが、帳簿から消されただけだ。……本物の英雄ってのはな、名簿の外にいるもんさ」


 いつもの台詞を、熊谷は自分に向けて言った。そういう使い方をする言葉だったのか。


「30年前、俺たちは核まで辿り着いた。そして――掃除しきれなかった」


「攻略、じゃなくてですか」


「攻略なんて言葉は、後から役人が貼った紙だ。いいか、湊。あれはでかい汚れだ。世界に染みついた、いちばん古くて頑固なやつだ」


「核ってのは、何なんですか」


「汚れの元栓だ。あれを締めない限り、床をいくら磨いても水は染みてくる。お前が毎晩やってる仕事と同じでな。掃除ってのは、一度じゃ終わらん」


 湯呑みを持つ熊谷の手の甲に、古い火傷の痕が見えた。今まで、気に留めたこともなかった。


「俺たちは削って、削って、届かなかった」


「……最後、何人で帰れたんですか」


「その人数は、言わん」


 熊谷の視線が落ちる。俺の手元――手袋の先だ。初出勤の夜と、同じ目だった。


「道具が、足りなかった」


「道具」


「ひとりだけいたんだよ。お前と同じ『洗剤』を使う男が」


 喉の奥が乾いた。聞きたいことが一度に湧いて、順番待ちで詰まる。その男はどうなったのか。どうして所長は、俺の手袋ばかり見るのか。


「その男の話は、今夜はせん」


 順番待ちの列は、入口で締め切られた。


「――で、所長。発注の件は」


「いいだろう」


 あっさり言われて、二の句を失った。浸け置きが、思ったより早く落ちた。温めてきた説得の口上が、ポケットの中で行き場をなくす。


「ただし、条件がある」


 熊谷は太い指を1本立てた。


「ひとつ。一人では行かせん。露払いと観測、最低でもあと2枚は札が要る。心当たりはある」


「はあ。……その人たちの人件費って、うちから出るんですか」


「馬鹿もんが。こういうときだけ経理の顔をするな」


 2本目の指が立つ。


「ふたつ目だ。湊」


 名前で呼ばれた。指示書を渡すとき以外では、珍しい。


「お前は自分の『洗剤』の正体を、そろそろ知るべきだ」


「正体って。……ホームセンターの徳用の話じゃ、ないですよね」


「スキルの話をしとるんだ」


 茶が冷めた、と熊谷は湯呑みを押しやった。話が長くなる合図だ。俺は盆を取って給湯室へ立った。


 棚の前で、茶筒の位置を2秒探した。先週も同じことをやった気がする。深夜労働が続くと、細かい記憶から錆びていくらしい。……まあ、寝れば戻るだろう。今は、それより百日だ。元栓の話だ。


 急須に湯を注ぎながら、気づけば口の端が緩んでいた。発注は取れた。あとは、掃除するだけだ。


 ◇


 湊が給湯室に消えるのを見送って、熊谷源三は写真の6人を順に眺めた。


 いちばん左。モップなんぞ似合わない優男が、こっちへ吞気にピースをしている。核の間で最後に見たその顔を、今も月に一度は夢に見る。「源さん、ここは俺がやっときますよ」。あの言い方まで、うちの新入りはそっくりだ。


 30年前と同じ夜が、また来ようとしている。あのときも、真っ直ぐな目をした馬鹿がいた。汚れを見れば体が先に動く馬鹿が。代償の話を振ると、笑って道具の手入れを始める馬鹿が。


 窓の外で、街灯がひとつ瞬いた。30年、この事務所から見てきた明かりだ。世界は昨日より少しマシになったか。なっていない、とは言わせない。あの馬鹿どもと磨いた床の上に、今日も誰かが立っている。


 ――今度は、間に合わせる。


 掃除ってのは、世界を昨日より少しマシにする仕事だ。なら、30年前の忘れ物を回収するのは誰の仕事だ。決まってる。生き残った班長の、居残り作業だ。


 言うべきことは決めてある。あの力の本当の名前と、あいつが毎晩知らずに支払っているものの中身。聞いてなお行くかどうかは、あいつが決めればいい。だが、知らせずに送り出すことだけは二度とやらん。あの優男にした過ちを、繰り返すつもりはない。


 盆を持った湊が戻ってくる。湯気の立つ茶がふたつ。


「所長。それで、俺の『洗剤』の正体って――」


 言い終わる前だった。


 事務所の扉が、外から蹴破られた。


 蝶番ごと吹き飛んだ扉が土間に転がる。夜気と一緒に、場違いなほど機嫌のいい声が飛び込んできた。


「見つけたぜ、飯の兄ちゃん――いや、《ファントム》!」


 盆の上で、湯呑みがひとつ倒れた。


 人類最強が、笑いながらそこに立っていた。



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― 新着の感想 ―
まぁこいつはメンバーよな
所長に〆られそうな人類最強…。
来たか、一人目の同行者
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