第38話「百日の猶予」
診察室の椅子は、今日も低い。
座ると先生を見上げる角度になるのも、机のファイルがまた厚くなったのも、いつも通りだ。いつも通りじゃないのは日付だった。月に一度の経過説明が、今月は10日も前倒しで呼ばれた。前倒しの説明に、いい知らせが載っていたためしはない。
「単刀直入に申し上げます」
先生はモニターをこちらへ向けた。見慣れた折れ線が1本。崖の途中で踏みとどまっていたはずの坂が、また上を向き始めていた。
「抑制剤の効きが、落ちています。数値に合わせて投与量を上げてきましたが――今月で、上限です」
「上限の、先は」
「ありません。これ以上増やせば、魔素より先に薬が臓器を傷めます」
画面が切り替わる。日本地図の上で、見覚えのある点の群れが濃くなっていた。
「ひよりさんだけではないんです。この数か月、全国の患者の数値が揃って悪化しています。学会でも原因は掴めていません。……率直に申し上げます。現行治療では、進行に追いつけなくなりつつあります」
原因なら、聞いていた。
夜明けのファミレスで見た、重なる2本の折れ線。世界の深いところが悪くなっている、というあの大きすぎる日本語。まだ先週の話だ。答え合わせのほうが、こんなに早く来るとは思わなかった。
――核の完全覚醒まで、推定百日。
3日前の深夜、氷室さんは搬入ゲートの陰でそう言った。最初の警告は、あの朝のファミレスの席で出ていたらしい。そこから検算を重ねた末の予測値です、誤差は前後に2週間です、と。手順の人が手順を全部捨てて運んできた数字だ。重みの見当くらいは、俺にもつく。
完全に覚醒すれば、漏出の桁が変わる。桁が変われば、上限まで使った薬も意味をなくす。
妹の時計と世界の時計は、同じゼンマイで動いていた。
「……先生。仮定の話を、ひとつだけいいですか」
「どうぞ」
「出どころが止まったら――漏出がゼロになったら、この坂はどうなりますか」
先生の手が、机の上で一度だけ組み直された。
「仮定として、お答えします。供給が絶たれれば、蓄積した魔素は代謝で抜けていきます。若い患者ほど早い。ひよりさんの年齢なら、数値は下がる一方になるでしょう。根治と呼べる道筋は、理屈の上ではそれだけです」
それから先生は、眼鏡の位置を直した。
「ただし、それは医学の話ではありませんね。蛇口の譬えは前にもしましたが……あれを閉める手段を、人類はまだ持っていません」
「みたいですね。……ありがとうございました。治療は、そのまま続けてください」
会計の列に並ぶあいだ、頭の中の電卓は金を数えなかった。数えていたのは日数だ。
百日は、3日前の百日だ。今日はもう97日になっている。悪いほうへ転べば、83日。
追いつけない薬と、閉まらない蛇口と、開きっぱなしの元栓。材料を並べてしまえば、段取りはひとつしか残らない。落ちない汚れは、出どころから断つ。掃除の初歩だ。
順番に迷いはなかった。迷ったのは、このあとの面会でどの顔をするか、だけだった。
◇
面会時間の廊下は、足音でだいたい誰か分かる。
かかとを引きずらない早足が近づいてくる。うちのお兄ちゃんだ。夜勤の前だっていうのに、今日も来た。皆勤賞である。
「おす。今日はりんごな」
「やった。……剥くのは看護師さんに頼んでね。私、刃物まだ禁止だから」
「知ってる。だから剥いてもらってきた」
タッパーの中で、うさぎが8羽並んでいた。耳の長さが1羽ずつ違う。器用なのか不器用なのか、判定に困る仕上がりだった。
お兄ちゃんは荷物を置くと、まず鉢植えに水をやった。いつもの定例業務である。葉が増えるたび自分の手柄みたいな顔をするところまで、今日もいつも通り。
いつも通りじゃないのは、目だった。
目の下の影は、夜勤の人の標準装備だからいい。問題は目そのものだ。私と喋りながら、目の奥で別の何かの段取りを組んでいる。工程表を読む目。あれは、面会の目じゃない。
入院生活で鍛えた顔色の速読を、全部使う。前の職場を辞めた日の顔とも違う。時給が上がった日の顔とも違う。いちばん近いのは――8年前、体育館に駆け込んできたときの目だ。
背中が、勝手に冷えた。
「お兄ちゃん」
「ん」
「最近さ、顔が『仕事』じゃなくて『戦い』になってるよ」
うさぎに伸びかけた手が、止まった。
1秒。2秒。この人の2秒は、普通の人の言い淀み10回ぶんに相当する。
「……年度末はな、大掃除の季節なんだ」
「いま7月だけど」
「うちの業界の年度は、変則的でな」
「へえ。変則的なんだ」
嘘が下手なのは知っている。この人の嘘は、いつも語尾が半歩遅れる。
追及は、しない。したら私も、出さなきゃいけなくなるからだ。枕の下のスマホと、滝に沈んだままの一行と、毎晩数えているニュースの検知報告と。世界中が探している幽霊の、勤務シフトのことを。
言わないと決めたのは私だ。私が口に出していいのは、妹の取り分だけ。
「ね、ひとつだけいい?」
「なんだ、改まって」
「無理しないで――とは、言わない」
「……言わないのか」
「言っても、するでしょ。16年間ずっとそうだったから」
お兄ちゃんは何か言いかけて、やめた。反論の在庫が切れたらしい。よろしい。
「だからそっちは要求しません。要求は、ひとつだけ」
人差し指を立てる。点滴の管が一緒に揺れた。
「嘘は、つかないで」
病室の空気が、1トーンだけ静かになった。
お兄ちゃんはすぐには答えなかった。ごまかしの軽口が3つくらい、顔の裏側を通過していくのが見えた。全部却下されたらしい。最後に残ったのは、まっすぐこっちを見る目だった。
「……全部は、約束できない」
正直者め。
「知ってる。じゃあ、条項を直します。――大事なところでは、つかないこと」
「大事なところの定義は」
「私が退院した日に答え合わせをして、苦しくならない範囲まで」
我ながら、いい条文だと思う。ベッドの上の16歳は、契約書にだけ強くなる。
時間稼ぎに、うさぎが1羽使われた。齧って、ゆっくり飲み込んで、それからお兄ちゃんは言った。
「――分かった。約束する」
「はい、契約成立」
差し出した手は、握手じゃなくて指だけ軽く握られた。管に触らない握り方。入院してから覚えた技術じゃない。8年前から、この人はこう握る。
「あ、あとついでに。退院したら、の続きもやるからね。リスト、まだ7番が空欄なの」
「7番、そんなに悩む枠か」
「悩むの。いちばん大事な枠だから」
「……はいはい」
「はいは1回」
面会の終わりは、いつも通りに来た。手を振る。ドアが閉まる。フルコース完食。
枕に沈んで、天井を見る。
訊かなかった質問が、ひとつだけ喉の奥に残っていた。――戦いの相手は、誰なの。訊けば、あの人はさっき結んだばかりの条項と正面衝突する。だから訊かない。契約は、守らせる側の行儀も問われるのだ。
今日も、祈りの形だけ置いて目を閉じる。
どうか。あの人に、嘘をつかせるようなことが起きませんように。
――その日の夕暮れ。駅裏の雑居ビル、3階。
夜勤前の事務所で、熊谷所長は来週の清掃計画表に判を押していた。戸口に立った湊は、畳んだ勤務表を胸ポケットにしまう。頭の中の帳簿は、もう締めてあった。
残りは、97日。書き足す欄は、ひとつだけ。
「所長。第66層より下の清掃って、できますか」
判子の音が、止まった。




