第37話「共犯者」
伏せた身分証は、写真の面をテーブルに押しつけたまま動かない。
当たり前だ。カードは自分では動かない。動かした人間が、責任ごと持ち帰るだけだ。
5年間、毎朝この一枚で分析室の扉を開けてきた。その5年の重さの割に、裏返すのは一瞬だった。
コートの中で、端末が今朝から四度目の振動をした。分析室の全員招集だろう。出れば、今日の私は英雄だ。《ファントム》の正体を特定。単独接触に成功。観測5年目にして最大の功績――あの報告書を一枚書けば、私は協会の階段を三段飛ばしで上がる。部長は初めて、私の名字を正しく呼ぶかもしれない。
その報告書には、二枚目がある。様式ごと知っている。特級観測対象。管理番号の付与。行動制限に、面会制限。402号室のドアには「保安上の理由」で知らない錠が増えて、兄と妹は面会簿の上でしか会えなくなる。
一枚目だけ書いて二枚目を書かない器用さは、あの組織にはない。
だから、一枚目ごと燃やす。それだけの話だ。
私は端末の電源を落とした。振動は、もう来ない。テーブルの上ではモーニングの伝票と伏せた身分証が並んでいる。5年勤めた人間の朝の風景として、われながら妙な絵だった。
「……ええと。報告しないって、それ」
向かいの席で、湊さんがコップを持ったまま言った。
「氷室さんの立場、まずくないですか。記録を消したのだって、捕まるやつって言ってたし」
「網の張り方を決める会議に、私が座っています。自分の避け方くらい、組めます」
嘘は0割。ただし、危なくないとは言っていない。配合には気をつけた。
「それより、提案が三つあります」
癖のまま、指を折った。折った途端、呼吸がひとつ楽になる。三つに割れる話なら、私はどこまでも行ける。
「一。観測データを渡します。核の活性度、各層の魔素濃度、汚染の移動予測。協会が金庫に入れている数字を、毎晩の清掃前にあなたの端末へ」
「二。清掃経路の最適化。あなたは汚れの濃い順に拭いてきた。そこに予測を重ねれば、同じ8時間で消せる汚染は倍になります。残業も減ります」
「三。協会の先読みです。会議の議題、捜査の範囲、網を張る場所。網は、破るより避けるほうが安い」
湊さんはしばらく黙った。視線がテーブルの一点で止まって、それから電卓の顔になった。
「……それ、おいくらするんですか」
「は……?」
「相場が分からなくて。データって、高いんですよね。うち、時給1,250円なので、たぶん分割になります」
この人は、世界の危機を割賦で買おうとしている。
笑いかけて、やめた。この人の帳簿では、受け取った分は必ず払うのだ。誰に対しても。たぶん、世界に対してさえ。
「お代は要りません。これは取引ではなく――観測です。私が、あなたの観測者になります。記録には残さない、私一人の」
氷が鳴った。ウーロン茶は、いつの間にか半分になっていた。店内にはモーニングの客が増え始めている。この席で人類の記録が一枚裏返ったことを、世界の誰も知らない。
「……なんで、そこまで」
来ると分かっていた質問だった。分かっていて、答えの練習はしてこなかった。この話だけは、練習した声で言いたくなかった。
「5年前の話をします。嘘は、これも0割です」
冷めたコーヒーの表面に、店の照明が丸く浮いている。
「協会に入った年、教育係の先輩がいました。分析官のくせに、現場の靴で歩き回る人で。私に記録の読み方を教えたのも、『データは嘘をつきません』も、元はあの人です。――報告書に書けない行は頁を裏返して取っておけ、というメモ帳の使い方も」
「その人は、数字の向こうに人がいると言い続けていました。第31層の濃度曲線がおかしい。この線の先で、必ず人が死ぬ。報告書を書いた。書き直させられた。また書いた。……協会の回答は、閉鎖でも警告でもなく『観測の継続』でした」
湊さんが、コップを静かに置いた。
「先輩は、三度目の却下の夜に自分で現場へ入りました。中の探索者を追い返して、最後の一人を出口へ押し込んで――自分だけ、戻りませんでした」
口にすると、三文だった。5年かけても、四文目はまだ書けていない。
「協会の発表は『清掃業者の作業不備による事故』。先輩の報告書は一枚残らず、なかったことになりました。数字は正しかった。全部、当たっていた。……遺された記録を精査する部署に志願して、それが今の私です」
空調が低く唸っている。湊さんは急かさなかった。この沈黙の使い方を、この人は夜の階層で覚えたのだろう。
「あの人も、誰にも気づかれずに人を守る人でした」
声は、思ったより平らに出た。5年ぶん、言う練習だけはしてきたのかもしれない。
「……今度は、間に合いたいんです」
顔を上げると、湊さんは頭を下げていた。テーブルに付きそうなほど、深く。
「その節は、うちの業界がすみませんでした」
「……はい?」
「清掃のせいに、されたんですよね。その事故」
ずれている。盛大にずれている。なのに、この5年で誰も拭かなかった場所を、この人は初手で拭いた。協会にも報道にも、あの発表を「濡れ衣」の側から悼んだ人間はいない。ただの一人も。私を含めても、だ。私はずっと、消された報告書の側だけを数えていた。
目の奥が熱を持つ前に、メモ帳を開いた。1行書いて、頁を裏返す。在庫が、また増えた。
「頭を上げてください。あなたのせいでは――」
言いかけて、気づいた。この台詞は今朝、逆向きに通った道だ。あなたのせいじゃない。……私たちは朝から、背負わなくていい荷物の棚卸しばかりしている。
「決めたことを言います。私はもう、見えない人を見捨てる側にはならない」
敬語が剥がれたのは、自分でも分かった。今回は、回収しないことにした。
湊さんは2秒ほど考えて、頷いた。
「じゃあ……お世話になります。代わりと言っては何ですけど、掃除が要るときは言ってください。腕は確かなので」
「ええ。腕前は、岩陰から拝見しました」
「あと、せめてドリンクバー代は俺が」
「219円で共犯者が買えると思わないでください」
「共犯って」
「ここから先の私たちは、協会の様式ではそう書かれます」
我ながら、報告書には書けない朝だった。
段取りだけ、先に決めた。回線は仕事用と別に用意する。データは毎晩0時、清掃の入りの前に送る。急ぎの合図は――「統計の話がしたくなりました」で通じることにした。搬入ゲートの朝に免じて、湊さんも笑わずに頷いた。
握手の代わりに、端末を起こした。電源を入れ直して、通知だけを黙らせる。渡すと決めた以上、今夜の分から整えておきたい。活性度の生データを開いて、共有用の予測モデルへ流し込む。処理は3秒で終わった。
画面の隅に、見たことのない色の警告が灯った。
予測曲線の右端が跳ね上がっている。過去のどの試算より鋭く、ほとんど垂直に。昨夜の第66層の事故が、変数を書き換えたのだ。
窓の外で、街はいつもの朝をやっている。曲線の先端には小さく日付が振ってあった。指が、画面の上で止まる。
核の完全覚醒まで――推定、百日。




