第36話「ただの清掃員です」
湾岸通りのファミレスは、夜明けの5分前に開いていた。正しくは、閉まったことのない店だ。24時間営業の看板が、白み始めた空の下でまだ点いている。
「座って話せる場所を」と言われて、頭に浮かんだのがここだった。定食屋の大将はまだ仕込み中だし、あの暖簾の内側で協会だの核だのという話をしたら、味噌汁の味が変わる。
面会は午後からだ。それまで寝るはずだった体は、困ったことに指の先まで起きている。眠気というやつは、昨日までの俺に置いてきたらしい。
窓際の席に向かい合って座った。「何か頼んでください。私が誘ったので、私が」と言われたが、ドリンクバーで十分だと断った。219円。金を数えている相手の前で、他人の財布は借りない主義だ。
店の奥のテレビが、朝のニュースを流している。24人の生還。正体不明の救助者。続けて、大手クランの代表が頭を下げる映像。ボックス席の誰も、画面とこっちを見比べたりしない。世界というのは、案外そういうふうにできている。
氷室さんはコーヒーを頼んで、一口も飲まなかった。代わりに鞄から薄い端末を出して、テーブルの真ん中に置く。取材のときとは、鞄の中身から違う人だった。
「ここから先は、協会でも数人しか知らない話です。……昨日までと同じで、嘘は0割です」
「お願いします。手短だと助かります。俺、頭が単純なので」
「知っています」
即答だった。
「話は三つに分けます。一、患者の話。二、核の話。三、その二つの関係です」
指折りの癖は、名乗り直しても変わらないらしい。
「魔素症候群の登録患者は、現在およそ4,000人。毎年、増え続けています。――ここまでは」
「聞きました。先生から」
「では、ここからが本題です」
画面に折れ線が1本、現れた。じわじわと右肩上がりの、階段みたいな線だ。
「最深部の『核』の活性度です。協会が非公開で観測し続けている数値で――8年前の大漏出から、ずっと上がり続けています」
8年前。またその数字だ。両親の命日で、妹の被曝の日で、俺が保護者になった日。あの雨は、地上だけの話じゃなかったらしい。
彼女が画面をなぞると、線がもう1本重なった。
見覚えのある形だった。緩い坂と、途中の崖。402号室のモニターで、俺が毎日見てきた線と同じ呼吸をしている。
「全国の患者の、平均魔素値です。……重ねると、こうなります」
2本の線は、ほとんど1本に見えた。
「核が活性化するほど、地上への魔素漏出が増えます。漏出が増えれば、患者の症状は進みます。ひよりさんの数値が崖になったあの週も――この、活性期のひとつと重なっています」
「……それ、病院は知ってるんですか」
「知りません。データは観測部と、上層部の一部で止まっています。公表すれば、家族は原因を知る。原因を知れば、次は責任を問う。……蓋の管理者というのは、蓋の中身を説明しない生き物なんです」
言い方に、小さな棘が混ざった。組織の中の人の言い方じゃなかった。
俺は画面の崖を見ていた。あの夜の病院の廊下と、1本増えた点滴を思い出していた。
それから、別のことも考えた。このふた月、俺は毎晩あの穴の奥を拭いてきた。誰も行かない深さまで。突き当たりの扉の、外側までを。
「……あの。それ、俺が」
コップを持ち直す。手持ち無沙汰の指が、勝手にそうした。
「俺が毎晩、奥のほうを掃除してるから――起こした、とかじゃ」
訊いてから、自分の声が硬いのに気づいた。あの扉の奥では、低いものがずっと脈を打っていた。俺はその外側を磨き続けてきた。起こしたか、餌をやったか――ぐらいのことは、単純な頭でも考える。
「違います」
答えは、質問より速かった。
「活性化の起点は8年前。あなたがこの仕事に就く、ずっと前です。曲線のどこにも、あなたの勤務と重なる変化はありません」
彼女はそこで一度、言葉を切った。データの人が、データじゃない言い方を探している間だった。
「ひよりさんの魔素値の上昇は、あなたのせいじゃない。世界の深いところが、悪くなっているんです」
世界の深いところが、悪くなっている。
大きすぎる日本語だった。俺の帳簿には載らない規模の話だ。ただ、翻訳ならできる。診察室で先生が言っていた。――我々のやっていることは、蛇口の開いた床を拭き続けるようなものですよ。
蛇口は、閉まっていないだけじゃなかった。年々、開いていっているのだ。
だから患者が増える。だから薬が追いかける。だから請求書は毎月40万で、妹は「退院したら」の続きをベッドの上で書き足し続けている。
ウーロン茶を飲んだ。味がしなかった。ドリンクバーのせいではないと思う。
聞くべきことは、山ほどあるはずだった。ただ俺の頭は昔から、山を前にすると手前の一段しか見ない。掃除はそうやって覚えた。床は、1枚ずつしか拭けない。
「ひとつだけ、いいですか」
「どうぞ」
「その『核』って、掃除したら消えますか」
氷室さんの手が、止まった。
カップの取っ手に指を掛けた形のまま、動かない。まばたきが2回。桁の計算を間違えた人の顔だった。
「……いま、なんと」
「いや、汚れの出どころなんですよね、それ」
俺は画面の折れ線を指した。
「染みは根から取るのが基本です。出どころが開きっぱなしなら、床を何万回拭いても終わらない。元栓っていうか。……閉められるなら、閉めたほうが早いんじゃないかと」
「…………」
沈黙が長い。変なことを言ったろうか。二度読み返しても、掃除の話しかしていない。
「協会の様式では、それは『攻略』と書きます」
ようやく出てきた声は、少し掠れていた。
「軍の文書なら『制圧』。探索者は『討伐』と呼びます。この5年、私はその三つの単語しか見たことがありません。……『掃除』と呼んだ人は、あなたが初めてです」
「職業柄です」
「ええ。……ええ、そうでしょうね」
氷室さんは目元を親指で一度だけ押さえた。それから鞄のメモ帳に短く何かを書いて、その頁を裏返した。見せる気はないらしい。俺の知らないところで、俺の何かがまた1行増えた。
「――お答えします。データの上では」
画面が切り替わって、数字の詰まった表が現れた。
「核の中和に必要な、推定戦力値です。試算は協会内で3回行われました。これでも、いちばん楽観的な数字です」
示された数字は、桁を数えないと読めなかった。
「比較を出します。世界中の公認探索者の戦力値を、全員分足します。各国の対ダンジョン部隊も足します。公認世界1位――天海レイジの個人値も、上乗せします」
「レイジって、あのテレビの。……強いんですよね、確か」
「人類で、いちばん」
「へえ」
棒グラフが2本、並んだ。並べるのが気の毒になるほどの、高さの差だった。
「全部を合わせて、必要値の1割に届きません。核の浄化は、現在の人類には不可能です。だから協会は『管理』を選びました。触れないものには、蓋をする。……蓋の中で、蛇口は開き続けているのに」
窓の外は、もうすっかり朝だった。モーニングの客が入り始めて、どこかの席からベーコンの匂いがする。世界の底が抜けている話の隣で、今日も朝食は焼かれていた。
1割。頭の中の電卓が、癖で動く。9割、足りない。時給に直そうとして――直せなかった。俺の電卓が換算を投げたのは、たぶん生まれて初めてだった。
それでも、と思う。402号室のリストは、今日も1行ずつ増えていく。おにぎり屋。職場見学。あの続きは全部、蛇口の先にある話だ。閉まらないと決まった、蛇口の先に。
氷室さんは端末を伏せた。それから顔を上げて、数字と俺のあいだで視線を一往復させた。何か言いかけて、やめる。その言いかけの中身を、俺はまだ知らない。
代わりに彼女は、内ポケットから協会の身分証を出した。搬入ゲートの前で見せられた、本物のほうだ。
写真の面を下にして、テーブルの上に伏せる。
「協会には、報告しません」
伝票の横で、5年ものの身分証が裏を向いていた。
「ここから先は――記録に残らない話を、しましょう」




