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第35話「あなたが、ファントムですね」


 号外の朝は、裏口が静かだ。


 地上ゲートには報道の車両が並び、ヘリの音が湾岸の空を削っている。24人の生還。正体不明の救助者。世界がその号外で沸いている時間に、私は業者用の搬入ゲートの前に立っていた。


 未明の速報から、画面はずっと同じ映像を繰り返している。担架の列。白く磨かれた通路。マイクを向けられて、首を振り続ける隊員たち。あの白さの意味をこの街で正しく読める人間は、多くない。私は、読めてしまう側だった。


 配置は自分で選んだ。5年間、記録を読む側にいた人間の結論がこれだ。世界を騒がせる答えは、表口からは出てこない。裏口から、モップと一緒に退勤してくる。


 コートのポケットで、端末が三度目の振動をした。分析室の全員招集だろう。見なかったことにするのも、三度目になる。応じれば私は今日、机の上であの人の値札を作る側に座る。特級観測対象。管理番号。必要になれば――資産の、2文字。


 残り時間の計算も、済んでいる。名字はもう出た。顔が出るまで、よくて数日。値札が付くまで、半月もない。急ぐ理由なら、指を折るほどあった。


 メモ帳は持ってきた。裏返した頁は、増える一方だ。『世界でいちばん静かな場所で、世界はいちばん綺麗になっていた』。あの1行の続きを、協会の様式で書かせるわけにはいかない。書くなら本人の前で、私の声で。


 眼鏡は、今日は掛けてきた。髪も結んだ。取材ではなく、名乗りに来たからだ。


 手順は昨夜のうちに決めてある。一、名乗り直す。二、事実を並べる。三、選んでもらう。


 質問票は持たない。口実も持たない。あの取材の朝に決めた配合は、嘘3割だった。今日は0割でいく。私の経歴で、初めて扱う濃度だ。


 午前5時50分。ゲートの奥で、カードリーダーが鳴った。


 白い作業着が出てくる。肩に粉が残り、頬にはモップの柄の跡がついている。徹夜で床を拭き、ついでに24人を拾ってきた人が、寝癖のまま朝日に目を細めていた。


 彼は私に気づいて、二歩ぶん減速した。


「……氷室さん? どうしたんですか、朝から。統計ですか」


「いえ。今日は、報告に来ました」


 私は身分証を出した。フリー調査員の名刺ではない。ずっとロッカーで留守番をしていた、本物のほうだ。


「ダンジョン協会・記録分析部、氷室紗雪です。……申し遅れました。だいぶ」


 彼は身分証と私の顔を、二往復した。


「……取材なら、うちはお断りって決まりが」

「取材は、もう終わっています」

「…………フリーじゃ、なかったんですね」


「ええ。あの取材は、嘘が3割でした。今日の分に、嘘は入れていません。――だから、長くなります」


 語った。指は折らなかった。全部、そらで言える。


 始まりは、たった1件の申告なき消失記録だった。それが2件になった。17件になった。39件で、私は数えるのをやめた。深夜1時から5時の枠。汚染の濃い順にしか進まない経路。清掃計画表と攻略記録の、定規で引いたような一致。第28層の魔素だまりが臨界の前夜に消えたこと。眠っていた探索者たちに掛けられていた、会社の備品の毛布のこと。


 彼の眉は動かない。数字はこの人にとって、他人の家の間取りだ。


 だから、夜の話をした。


「第58層。私は、岩陰にいました」


 今度は、瞬きが止まった。


「あなたは鼻歌で床を拭いていました。横穴から討伐推奨等級Sが出てきて、あなたはモップを一往復させた。それで終わりでした。休憩は3時から、15分。塩むすびが2個。帰り際、突き当たりの扉に頭を下げて――『また来ます』と言った」


「……鼻歌は」

「鼻歌は?」

「眠気覚まし、です」


 反論の場所が、そこなのか。


 手の話はしなかった。花の統計の話も。あれは報告書ではなく、私の頁に裏返して置いてある行だ。


「その夜の観測記録は、もうありません。3基とも、私が消しました。私自身の認証コードで。……協会は、まだ知りません」


 彼の目が、初めて泳いだ。泳ぎ着いた先は、自分の正体ではなく私の処遇だった。


「それ、氷室さんが捕まるやつじゃ」


「順番が、違います。いま危ないのは、私ではありません」


 息を、ひとつ整えた。


「昨夜、第66層から24人が生還しました。全員が、モップの男を見ています。灰崎という名字も、すでに出ました。報道は裏取りに走っています。協会は今朝から緊急会議。各国は、その前から動いています。……記録を消して守れる段階は、ゆうべで終わりました」


 言うべきことは、あとひと粒だけ残っていた。5年ぶんの記録と、二晩の岩と、消去を押した指。全部の合計を、一文に畳む。


 手順の三番は、まだ白紙のままだった。それでも二番までを言い切れば、道は一本しか残らない。


「あなたが、ファントムですね」


 ――ファントム、ときた。


 寝てもいないのに、頭が寝起きの動き方をしていた。ニュースで毎晩やっている、あの幽霊の話だ。捕獲作戦までやって、結局は熊の一頭も出なかったやつ。


 いや、その前だ。この人、協会の人だったのか。定食屋で「腐れ縁だ」と「仕事の知人です」が重なった朝の伝票が、いまごろ届いた。考えてみれば、統計に詳しすぎた。花屋の開店時間まで即答する調査員が、フリーのわけがなかった。


 ……取材の3割は、嘘。


 その勘定には、少しだけ間が要った。間を置いてから、棚に仕舞う。嘘の在庫なら、俺も人のことは言えない。妹に現場の住所を濁し続けている男の棚だ。


 俺は頭を掻いた。寝癖が、手の下でひどい地形になっているのが分かった。


「人違いですよ。俺は、ただの清掃員です」


 嘘じゃない。雇用契約書でも名簿でも確かめられる、うちでいちばん硬い事実だ。


「等級なんとかは、たぶん大きめの汚れです。汚れは、拭けば消えるので。ゆうべのだって救助じゃなくて、詰まりの除去です。通路が詰まってたら開ける。うちの職分なので。……だいたい、攻略って戦う人の言葉でしょう。俺は戦ったことが一度もないんです。道具も、モップと洗剤だけですし」


 どれも本当のことだった。本当のことを並べているのに、砂の上に字を書いている感触がした。だから最後に、いちばん硬い数字を置いた。


「それに、その幽霊は世界一強いんでしょう。俺の時給、1,250円ですよ。深夜割増込みで。世界一が、その値段で働くわけないじゃないですか」


 氷室さんの喉が、小さく鳴った。


 笑っている。のに、目の縁だけが濡れていく。泣くのか笑うのか、どっちかにしてほしい。俺の説明は、人をそういう顔にする内容だったろうか。


「ええ、知ってます」


 声の温度が、取材のときと違った。


「あなたが本気でそう思っていることも。ずっとそうだったことも。……だから、余計にタチが悪いんです」


「タチ、って」


「……計算が合わないのよ。あなたの周りだけ、世界が綺麗すぎる」


 敬語が、途中で剥がれた。


 データの人の口から、データにならない日本語が落ちた。綺麗すぎる。悪口でないことくらいは、俺にも分かる。分かったが、返す言葉が見つからない。時給に翻訳できない台詞は、昔から苦手だ。


 俺の周りが綺麗なのは、俺が拭いてるからだ――と言いかけて、やめた。それはたぶん、いま言っていい冗談じゃなかった。


 氷室さんは言い切ってから、口元を片手で押さえた。いまの発言は経費で落ちません、みたいな顔だった。それから身分証をしまった。内ポケットの奥へ、二度押し込むようにして。


「いまのが、協会の分析官の報告です。ここからは、違います。氷室紗雪個人として――一人の人間として、話があります」


 正直、腰が引けた。話の階段が、一段ずつ知らない場所へ上っていく。こういうときは、時給の話に戻るに限る。戻ろうとした、矢先だった。


「……あの。俺、仮眠して面会に行く予定が」


「あなたの妹さんの病気と、ダンジョンの『核』のことで」


 仮眠の予定が、音もなく崩れた。


 妹。病気。核。


 三つの単語は、俺の頭の中で別々の棚に入っていた。402号室の棚と、請求書の棚。それから、診察室の棚だ。――魔素の根源は、最深部の『核』です。あれが存在する限り、漏出は続きます。蛇口の開いた床を、拭き続けるようなものですよ。


 あれは、出どころの話だった。8年前の雨の、過去形の話のはずだった。


 この人の言い方は、過去形じゃなかった。これから、の話をする顔だった。


「……ひよりの、病気と」


 声が掠れた。掠れたまま、続けた。


「ダンジョンが、関係ある?」


 朝日が搬入ゲートの屋根を越えて、彼女の顔に届いた。氷室さんは、目を逸らさなかった。それが、答えだった。


 どこかで始発の音がした。街が起きていく。夜勤明けの俺には、本来なら布団の合図だ。


 眠気は、どこにも見当たらなかった。


 この8か月で――いや。たぶんこの8年で初めて、俺は完全に目が覚めていた。



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― 新着の感想 ―
鼻歌で、床を、拭く、、、鼻歌で
早く妹の治療費を稼げるようになってほしい。ずっと主人公が金銭の不安を抱えているので早く働きに見合った収入を得てほしい。
初手、鬼札 でもこれ切らないと手遅れ不可避だしな すっトロい所長が悪い
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