第34話「ついでの救助」
出勤すると、シフト表の横の貼り紙が増えていた。
『特別清掃・重度汚染(拡大中)/第七ダンジョン・第65層/夜間・特別手当あり』
拡大中。原因不明より正直な日本語だ。汚れは放っておくと領土を広げる。カビも油膜も、たぶん役所の書類もそうだ。それに特別手当の4文字は、402号室の請求書を1枚ずつ軽くしてくれる。断る理由が、どこにもなかった。
熊谷所長は、指示書を寄越す手を途中で止めた。
「今夜のは筋が悪い。隣の66層で、大手がやらかしたらしい。協会は詳細を伏せてる。分かってるのは、汚染が階段を上がってきてることだけだ」
「66層って、確か記録の限界の――」
「うちには関係ねえ。発注は65層までだ。下り口には近づくな。……いいか、今夜は本気で言うぞ。やばいと思ったら引き返せ」
「時給分は働きます」
「そういう話じゃねえって、何度言やあ分かるんだ」
所長は複写式の作業票を俺の胸に押し付けて、めずらしく一言を付け足した。
「――耳は、開けとけ」
変な餞別だった。掃除は目と鼻の仕事だと思っていたが、所長が変なことを言う夜は、だいたい変なことが起きる。
午前1時、第65層。
ゲートの光が引くと、においが刺さった。焦げた魔素に、鉄錆。それから例の、砂糖を焦がした甘ったるさ。濃い。8年物の空き家でも、ここまでは熟成しない。
床に膝をついて、汚れの筋を目でたどる。汚れには流れがある。今夜の流れは、はっきりしていた。下から、上へ。南側の下り階段から、黒い染みが扇形に床を這い上がっている。
――上流は、下か。
発注は65層まで。なら、やることは水際の防衛だ。玄関のたたきと同じで、外が泥でも家の中は拭ける。
手順は変えない。一、換気。二、水際。三、床と壁。四、仕上げ。四隅の淀みを拭き、扇の染みを根から順に潰していく。染みは新顔のくせに、性根が据わっていた。二度がけで、ようやく薄くなる。58層で会った「落ちない汚れ」の親戚だろうか。……いや、こっちは三度がけで落ちた。親戚は親戚でも、遠縁だな。
スキルを通すたび、指先から根こそぎ持っていかれる例の感覚が来た。今夜のは重い。まあ、深夜労働とはそういうものだ。
午前2時半、水際が白くなった。
モップを絞り直したとき、耳が拾った。
音だ。
金属を叩く音。3回。間が空いて、また3回。
俺は動きを止めた。ヘッドライトを消し、目をつぶって耳だけになる。所長の餞別の意味が、遅れて腹に落ちた。
3回。間。3回。
規則正しい。偶然は、こんなに律儀じゃない。出どころは南の下り階段の、崩れて塞がった瓦礫の向こうだ。
「あー……誰か、閉じ込められてますね」
声に出すと、頭が勝手に段取りを組み始めた。
通路が詰まっている。空気の道も詰まっている。人が、詰まっている。俺の基準で言えば、配管詰まりのいちばん質が悪いやつだ。放っておくと、中のものが傷む。
発注は65層まで。それは知っている。ただ、詰まりの除去は俺の職分で、崩れた岩というのは要するに――でかいゴミだ。
「換気口も詰まってるし、ついでに開けるか」
複写票の裏に「発注外・無償」と書き足して、下り階段へ向かった。
崩落は本格的だった。天井ごと落ちている。岩の隙間という隙間に、黒い染みが目地みたいに詰まっていた。道理で空気が通らないわけだ。岩は、崩れた時点でただのゴミだ。持ち主はいない。遠慮も要らない。
粗大ゴミの日は、また来てしまった。
心の中で手を合わせて、まとめて浄化した。
風が、動いた。開いた穴の奥から、淀んだ空気がどっと抜けていく。換気は掃除の一丁目一番地だ。あとは、詰まっていた「中身」の回収だった。
穴の奥で、鉄を叩く音がもう一度鳴った。3回。さっきより速い。急かされるのは嫌いじゃない。仕事が待たれているのは、いい現場の証拠だ。モップを担ぎ直して、穴をくぐった。
――同じ頃。第66層、中央広間。
与野は、部下の叩く鉄骨の音を数えていた。
3打、休止、3打。10分間隔。訓練どおりの救難信号だ。この深さで誰に届くのか、その見込みは口にしないと決めていた。規律は電池を食わない。だから、続けさせた。
照明は3灯まで落としてある。中和剤の残数は、配分表を見ずに暗算できた。負傷4名。うち1名は古参で、65層の中毒からずっと呼吸が浅い。本部との通信は、崩落から死んだままだ。66層に降りられる戦力の招集に何日かかるか、その相場は自分がいちばん知っている。中和剤の割り算が許す日数は、相場の半分にも届かなかった。
誰も、その割り算を口にしなかった。
若い班員が、消えかけの端末で家族の写真を見ていた。与野は見なかったことにした。見咎める規律は、もう残っていない。
防御線の外では、暗がりが層になって蠢いている。押しては来ない。奴らは待つことを覚えていた。こちらの照明が落ちるのを、待っている。
石鹸の、においがした。
最初は幻臭を疑った。魔素中毒の初期症状に、嗅覚の異常がある。だが隣の班員が顔を上げた。その隣も上げた。幻臭は、伝染しない。
崩れた帰路の方角が、白かった。
瓦礫の壁が、向こう側から光に解けていく。岩が消えていく。埃ひとつ立たない。音は、モップの水音に似た何かだけ。
与野は、その白さを知っていた。
52層の朝。44層の朝。膝の後ろが、また勝手に強張った。
防御線の外の暗がりが、いっせいに白い穴へ殺到した。与野は警告を叫びかけて――叫び終える前に、終わっていた。
拭き消えた。
暗がりがだ。ひと晩こちらを値踏みしていた、あの暗がりがだ。黒板の字を雑巾で消すのと、同じ呆気なさだった。
白い穴の中に、ヘッドライトがひとつ灯っていた。
作業着の男だった。片手にモップ、腰に洗剤。男は広間を見回して、困ったように会釈をした。
「夜間清掃です。……換気、通しました」
誰も動けなかった。構えた武器の下ろし方を、全員が忘れていた。
男はそれを了解と受け取ったらしい。まっすぐ負傷者のところへ歩いてきて、床に膝をついた。鞄から薄い毛布を出して広げる。手つきが、荷物を扱うそれではなかった。
「空気は替えました。じき、楽になります」
言葉どおりだった。広間から、あの焦げた甘さが引いていく。浅かった古参の呼吸が、ひとつ、深くなった。
その古参が、薄く目を開けた。逆光の中の顔を、長いこと見ていた。
「あんた……灰崎、さん……? 昔、うちのクランに……備品倉庫の……」
男は笑って、毛布の端を古参の肩まで引き上げた。
「お疲れさまです。あとは大丈夫ですよ」
恨み言はなかった。名乗り直しもなかった。ただの、業務連絡だった。与野は「灰崎」の名を口の中で転がした。聞き覚えは、ない。名簿の外の名前だった。
与野は喉から声を押し出した。
「……あんたは、何者だ」
「清掃です。上までの通路と階段は、拭いてあります。65層のゲートまで一本道です。足元は、滑りません」
「救助の招集には、数日かかるはずだ。なぜ、ここに――」
「ああ、俺は救助じゃないです。その、詰まりの除去なので」
男は少し言い淀んで、モップを握り直した。
「発注外の作業ですから、請求はしません。……ついでですから」
歩ける者が、歩けない者を担いだ。白い通路は光の届く先まで白く、この床を舐めていた汚染が目地の一本まで消えている。与野は隊列の最後尾で振り返った。
男は広間の隅で、もう床を拭いていた。
「あんたは、上がらないのか」
「65層の床が、まだ半分残ってるので」
それが、地の底で聞いた最後の言葉だった。24人ぶんの命の礼を言う暇も、くれなかった。
――夜明け。地上ゲート前。
担架の列に、カメラの放列がぶつかった。協会職員が人垣を割る。飛んでくる質問は、どれも同じだった。奇跡の生還。救助隊の正体。いったい、誰が。
与野は担架の上で目を閉じた。箝口令の効力を暗算する。無理だ。24人が見た。24人の家族が聞く。もう、止まらない。
瞼の裏で、モップの男がまだ床を拭いている。あの背中に、礼を言い損ねた。それだけが、担架の上の宿題だった。
――同じ朝。業者用の、搬入ゲート前。
残業を終えた清掃員が、カードをかざして出てくる。
その先に、1人の女が立っていた。




