第33話「墜ちる巨人」
会見の翌日、株価は3年ぶりの上げ幅をつけた。
見出しから(笑)が消えた。「無謀」と「壮挙」が紙面で殴り合い、世間の目は久々にゼノギアの手元を見ている。嘲笑より安い広告はないが、期待より高い燃料もない。王城巧は朝の株価板を確かめて、コーヒーの味が半月ぶりに戻ったことを認めた。
作戦名は、広報が3案持ってきた。1枚目で決めた。《アトラス》。天を支える巨人の名だという。由来はどうでもいい。株主資料の見出しに映える。基準はそれで足りた。
目標、第66層。人類の到達記録の限界線。30年前に刻まれたきり、誰も塗り替えていない数字だ。捕獲作戦の失敗には「幽霊が悪い」と言い張る余地があった。到達記録は違う。層の番号は、誰の目にも同じに見える。数字で失った信用は、数字でしか買い戻せない。
準備に許したのは、48時間だった。
「標準工程では、深層到達の準備だけで3週間を要します」
技術主任の指摘は正しい。正しさには金がかかる。
「3週間後、うちの口座に何が残っている」
誰も答えなかった。答えが数字で出る問いは、会議を短くしてくれる。
削った。中継基地は3か所を1か所に。医療班は地上待機に。帰投用の予備電源は半分に。中和剤の携行数は「規定」という名の、過去の平均に。日程は5日を3日に。稟議書は削るたびに軽くなった。軽くなったものがどれだけ速く落ちるか、その1行だけが、どの試算にも載っていなかった。
解析官が、一度だけ進言に来た。
「第58層以深の観測値が、この1か月で形を変えています。基礎濃度は旧記録の4倍。協会は先月、第58層の最奥を理由非公開で封鎖しました。我々の攻略図面は3年前の探査記録が土台です。その土台が、現在は――」
「現在は、何だ」
「……ない可能性がある、と申し上げます」
「『可能性』は数字じゃない。……91を外した男なら、なおさらだ」
皮肉は経費がかからない。解析官は眼鏡を外して拭き、引き下がった。レンズは今日も、汚れていないはずだった。
出立の朝、地上ゲートに隊列が組まれた。
24名。S級だけを、24名。予備班は、ない。先頭の与野が敬礼をした。二晩の空振りを声から消し切った、いい敬礼だった。
「第66層、必ず踏みます」
「踏むだけでは足りん。記録にして持ち帰れ。生中継が付く。株主と、世界がだ」
「了解。派手に、確実に」
管制棟の3階が、ふたたび本部になった。前回と違うのは、壁際のカメラだ。株主と大口取引先向けの限定中継。信用は、目で買わせるのが早い。台本に撤退や中止の単語はない。要らないからだ。要らないと、決めたからだ。
降下は、拍子抜けするほど順調に始まった。
第50層台は既知の領域だ。青い光点が24、列を崩さず降りていく。第60層。定住圏の底が抜けた。第62層。ここから先、頼れる図面は3年前の記録だけになる。
第64層で、図面が現実と喧嘩を始めた。
『本部へ、第1班。旧図面と地形が一致しません。通路が……増えています。壁面に黒い付着物。光沢あり。濡れて見えますが、乾いています』
「観測班、数字は」
「魔素濃度、旧記録の6倍。……基準を、超えました。桁が、違います」
基準内です、基準内ですが。聞き飽きたあの語尾を、今夜は誰も言わなかった。語尾で誤魔化せる数字が、画面のどこにも残っていなかった。
第65層で、最初の脱落者が出た。
『班員1名、魔素中毒。意識あり、歩行不能。中和剤を使用――残数、規定の半分です』
削ったのは、この部屋だ。この机の、この椅子だ。王城は爪の先で天板を1度叩き、その連想を黙らせた。数字は正しかった。過去の平均という数字は。過去が今夜も続いてくれるなら、だが。
それでも、隊は届いた。
第66層。
与野のカメラが、誰も見たことのない広間を映した。30年ぶりに人類が触れる床だった。本部の若手が拍手をしかけて、両手を宙で止めた。
床が、動いていた。
黒曜石めいた照りが床の半分を覆い、脈を打っていた。その上に、深層種が立っていた。記録写真の個体とは違う。骨の浮いた四肢に、黒い光沢が鎧のように張り付いている。1体ではなかった。通路の奥で、暗がりそのものが層になって蠢いていた。
『交戦! 交戦! 敵性体、変質しています! 旧データと、別物――』
通信にノイズが乗った。光点が2つ、黄色に変わる。3つ目が、赤に落ちた。
与野の声が、ノイズの隙間から戻ってくる。
『――負傷3。防御線、構築中。本部へ。……撤退判断を、要請します』
軍隊長は折れていなかった。折れていない声のまま、折れたことを言っていた。
本部中の顔が、上座を向いた。
撤退。
王城はその2文字を、口の中で数字に変えた。中継の向こうには株主がいる。大口が3社、銀行が2行。捕獲作戦の空振りに続く、二度目の「戦果なし」。年初来安値の下に、まだ床はあるのか。頭の中で臨時株主総会が開かれ、解任動議が可決される。そして――切られる側の、あの冬の寒さ。
3秒。
たった、3秒だった。
その3秒の途中で、モニターが白く飛んだ。
轟音は遅れて届いた。帰路側の通路が、天井ごと落ちていた。崩れたのか。落とされたのか。判別より先に、光点の半分が圏外の灰色に変わった。
『本部、こちら第1班……退路が……全班、中央へ後退――本部、ほん――』
砂嵐が、与野の声を千切って持っていった。
本部は静まり返った。誰も王城を見なかった。全員が、見ないという仕事をしていた。中継画面の隅で、視聴者数の数字だけが律儀に増え続けていた。
どれだけそうしていたのか。
「――協会に、救助要請を」
声は出た。出てくれた。3秒遅れの声にいくらの値札がつくのか、その計算だけは始められなかった。
協会の回答は、1時間後に来た。読み上げる渉外担当の声が、途中で一度切れた。
「『第66層への救助隊の派遣には、同層に到達可能な戦力の招集が必要。招集の見込みは、最短で3日』……代表。3日です。中和剤の残数から計算すると、隊の維持限界は――」
「言うな」
計算なら、終わっている。この部屋でいちばん先にその計算を終わらせたのが自分だという事実ごと、終わっている。
王城は自分の爪を見た。磨き上げた、傷ひとつない爪だ。
爪の間が黒かった時代、現場でいちばん恐ろしかったのは魔物ではなかった。地上の暖かい部屋で、こちらの値段を静かに計算している誰かの沈黙だった。
いま、その沈黙はこの椅子のものだった。
窓の外は、まだ昼だった。ダンジョンには朝も昼もない。閉じ込められた24人の時計だけが、地の底で正確に減っていく。
――同じ日の夕方。駅裏の雑居ビル、3階。
くまがいクリーンサービスの壁に、新しい貼り紙が1枚増えた。
『特別清掃・重度汚染(拡大中)/第七ダンジョン・第65層/夜間・特別手当あり』
夜勤の清掃員は、まだそれを知らない。
巨人の墜ちた穴のすぐ隣を、今夜、1本のモップが通る。




