第32話「定食屋サミット」
缶コーヒーというのは、渡す相手がいると倍うまい。
――はずだった。
夜明けの駐車場。差し出した1本は、受け取られないまま冷め始めていた。分析官どのは無言で立っている。徹夜明けのはずが、姿勢だけは面接みたいに正しい。
「何のことでしょう」
缶の礼はなしだ。据わった目が、まっすぐ俺を見返している。
「二晩連続で潜って、収穫ゼロのツラをしてねえ。ゆうべなんざ6時間だ。保守点検にしちゃ、岩場と仲良くしすぎだろ」
「臨時観測機の点検です。詳細は、協会広報を通してください」
「その広報に聞いたら、ゆうべの観測記録は出てくるのか」
「所定の手続きを踏めば」
「踏んだら、何が出てくる」
「……手続きの、結果が」
うまい逃げ方だった。嘘をつかずに、何も言っていない。
取り調べは俺の商売じゃない。俺の商売は追いかけっこだ。ただ、こっちには9夜ぶんの燃料代と、4分差の恨みがある。手がかりを黙って消されて、はいそうですかで帰れるほど、俺の帳簿は綺麗じゃない。
俺は自分のぶんの缶を開けた。ひと口。眠気に効くのは中身じゃなく、開けたときのこの音のほうだ。
「あんたのツラはな、獲物を逃した顔じゃねえんだよ。……隠した顔だ。で、何を消した」
「データは消えません。厳重に管理されていますので」
「管理してる側が言うと、重みが違うな」
分析官どのは黙った。この人の黙り方は上等だ。石でできている。10年、囲み取材をかわしてきた俺が保証する。それに、あの目だ。後ろめたい人間の目じゃない。悪いことをした顔でもない。――悪いことを、正しいと決めた顔だ。
厄介なのは、そっちのほうなんだよな。
膠着は、音で破られた。
腹の虫だった。俺のじゃない。
分析官どのは眉ひとつ動かさなかった。耳だけが、じわりと赤くなった。
「……観測機の保守は、体力を使うので」
「だろうな。飯にするか」
――で、定食屋である。
大将は俺たちを順に見て、一言だけ寄越した。
「でけえのと、ねえちゃんか。揃いで来るたぁ珍しい」
詮索しないのが、この店の家訓だ。カウンターに盆がふたつ並ぶ。俺は握り飯を追加した。「あいよ。塩だけのな」と大将。それでいい。それがいい。
分析官どのは箸を持ってからも、供述はしなかった。落ちたのは味噌汁のほうだ。2杯目を頼んだから、間違いない。
引き戸が開いたのは、そのときだった。
白い粉をかぶった作業着に、眠そうな会釈。
「おう、飯の兄ちゃん」
「……引っ越し屋さん。と、氷室さん?」
兄ちゃんは俺と隣を二度見して、戸口で固まった。
「お知り合い、だったんですか」
「腐れ縁だ」
「仕事の知人です」
台詞が重なって、中身が食い違った。兄ちゃんは深く考えるのをやめた顔で、俺の隣に鞄を下ろした。賢明だ。深く考えたところで、この並びに説明はつかない。
丸椅子が3つ、妙な首脳会談みたいに埋まった。夜勤明けの清掃員と、徹夜の分析官と、はぐれた引っ越し屋だ。奥の席では常連の爺さんが首をひねっていた。気持ちは分かる。近頃この店は、客の面子がどうかしている。
「兄ちゃんも夜通しか」
「ええ。昨日の現場が、その……広くて」
「どこも人手不足だな」
「時給分は働きます」
隣で、椀がことりと鳴った。分析官どのが置き損ねたらしい。この人でも、器を置き損ねるのか。
飯が来て、しばらくは箸の音だけになった。悪くない静けさだった。取り調べの続きをやる気が、湯気で鈍っていく。
握り飯も来た。海苔なし。具なし。例の塩加減だ。ひと口で、9夜ぶんの燃料代が半分くらい帳消しになった。うまい飯ってのは、勘定の外で仕事をする。
「探し人、まだ見つからないんですか」
先に口を開いたのは、兄ちゃんのほうだった。
「おう。近くまでは行ってる。確信もある。なのに、面が拝めねえ」
「筋金入りですね」
「はっ。夜逃げの才能だけは世界一だ」
笑って、味噌汁を飲んだ。そこで止めておけばよかったのかもしれない。だがこの店の湯気には、妙な効能がある。10年しまってあったものが、するりと口を出た。
「……なあ。俺がそいつを探す理由、聞きたいか」
「勝負を挑むんじゃ、ないんですか」
「半分な。残りの半分は、言いに行くんだ。そいつは強すぎて、たぶん、孤独な奴だからな」
「言いたいこと、って?」
「『無理してんじゃねえよ』って」
箸が二膳、止まった。
「強すぎる奴には、誰も追いつけねえ。追いつけねえってことは、誰も並べねえってことだ。並ぶ奴のいねえまま歩いてると、頼り方ってやつを忘れる。……一人で全部やってる奴は、いつか折れる。俺がそうだった」
誰も何も言わないので、続きを喋った。
「1位を取った年だ。世界中が俺の名前を呼んでた。なのに部屋へ帰ると、飯に誘う番号がひとつもねえ。強くなるってのは、そういう引き算だ。あの頃の俺に要ったのは、称号でも賞金でもねえ。いま言った、その一言だ。……誰も言ってくれなかったんでな。今度は俺が、言う側に回る。用件はそれだけよ」
喋り終えてから、自分で驚いた。この話は葛西にもしたことがない。定食屋の湯気と、名前も知らねえ兄ちゃんの薄い相槌。取材で吐かなかったものを吐かせる道具が、世の中にはあるらしい。
兄ちゃんは湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。
「……その人、無理してる自覚は、たぶんないと思いますよ」
「なんでだ」
「無理って……続けてるうちに、時給の内に入るので」
変な理屈だった。変な理屈のくせに、妙に腹へ落ちた。
「なら、なおさら言いに行かねえとな。自覚のねえ怪我がいちばん深い」
「そうですね」
兄ちゃんは頷いて、それから、こともなげに付け足した。
「いい人ですね、あなた」
「……飯食え」
まっすぐ来られると弱い。10年で覚えた切り返しは、どれも役に立たなかった。俺は丼の残りを片付けることで、その場を切り抜けた。
ふと、隣を見た。
分析官どのは、食べていなかった。箸を置いて、俺と兄ちゃんを順に見ていた。数字を読むときの目じゃない。なんというか――答え合わせの終わった目、だった。俺の話のどこに、答え合わせの種があったんだか。
「どうした」
「いえ」
彼女は湯呑みに視線を落として、静かに言った。
「届くといいですね。その一言」
「おう、届けるさ。宛先が今んとこ、圏外だがな」
「圏外は、困りますね」
兄ちゃんが笑った。夜勤明けの、気の抜けた笑い方だった。分析官どのは何も言わずに、2杯目の味噌汁を最後まで飲んだ。飲み干すまでの横顔が、湯気のせいか、少しだけ緩んで見えた。
兄ちゃんが先に席を立った。
「じゃあ、俺はこれで。仮眠しないと、面会に遅れるので」
「妹さんによろしくな」
「ええ。……あの、探し人。会えたら教えてください。結末だけ、気になるので」
「おう。一番にな」
引き戸が閉まる。粉っぽい背中が、朝の路地へ消えていった。結末だけ、ときたか。あの兄ちゃん、たまに言葉の選び方が職人くせえ。
会計を済ませて外へ出ると、俺はさっきの缶コーヒーをもう一度差し出した。
今度は、受け取られた。
「……いただきます。取り調べの賄賂ではなく、朝食の一部として」
「好きに帳簿をつけろ。――消した件は、貸しにしとくぜ。分析官どの」
「利子は、つけないでください」
言い方は硬いくせに、缶を持つ手は素直だった。ま、いい。あの目の消し方なら、悪いもんは消えてねえ。10年の勘がそう言っている。勘の当たり数なら、俺は世界ランクだ。
路地の奥まで、朝日が届いていた。悪くない朝だった。
こういう朝は長く続かないと、相場が決まっている。
――翌朝。
スマホが、鳴りやまなかった。
葛西からの着信が11件。留守電より先に、速報が画面を埋めた。
壇上にゼノギアの紋章と、整列した幹部たち。原稿を読み上げているのは、王城巧だった。
『――当クランは失われた信頼の回復を懸け、人類の到達記録を超える挑戦を決行いたします。目標は、第66層。史上最大規模の、強行攻略です』
会見場の照明の下で、王城の顔は白かった。原稿を持つ手の位置が、前に見たときと違う。高すぎる。あれは、顔を隠す持ち方だ。
手の中で、空き缶が軋んだ。
到達記録ってのはな。超えるもんじゃねえ。
――生きて帰って、初めて更新と呼ぶんだよ。




