第31話「決定的証拠」
嘘は、書類のいらない形で用意した。
臨時観測機の保守点検。口実として、これ以上自然な題目はない。第58層の異常波形を受けて、観測部は急ごしらえの観測機を3基降ろした。設置報告の回覧は読んである。機体の位置も、記録の回収手順も頭に入っている。死角の場所も、だ。
申請書は書かない。書けば経路が残る。経路は、いつか誰かの武器になる。
深夜の管理棟で、顔見知りの当直に身分証を見せた。
「分析室の氷室です。58層の臨時機の波形が、少し。……現地で確認してきます」
「こんな時間にですか」
「異常は、勤務時間を選んでくれないので」
嘘は2割に抑えた。波形がおかしいのは本当だ。おかしさの桁を、言わないだけで。
――一夜目は、空振りだった。
業者ゲートは一度も開かず、私は岩と6時間、無言の面会をして帰った。収穫はひとつ。データにない変数を学んだ。人間は、休む。
二夜目。昇降機が下りきると、耳の奥で気圧がひとつ鳴った。
第58層。数字の上でなら、庭のように知っている層だ。基礎濃度、残留値、消失記録。紙なら何百枚も読んだ。足で来たのは初めてだった。5年間、私はこの仕事を画面の中だけでやってきたのだ。
午前0時40分、配置につく。
選んだのは、3基の観測機のどれからも外れる岩陰だった。観測の網を張る側の人間が、網の穴に隠れている。経歴書には書けない夜だった。
岩は冷たい。私物の防寒着は正解だった。ロッカーの前の自分を、少しだけ褒めておく。
手順は決めてある。一、視認。二、照合。三、離脱。触れない。呼びかけない。確かめたいのは正体の名前ではなく、39枚の記録に欠けている最後の1行だ。
この目で見た、という1行。
午前1時4分。通路の奥に、光が生まれた。
ヘッドライトの白。続いて、バケツの車輪の音。硬い岩の廊下を、日常の音が転がってくる。
――来た。
白い作業着に、眠そうな歩き方。定食屋のカウンターで、花屋の開店時間を訊いてきた人だった。
彼は通路の入り口で足を止め、床を眺めた。しゃがんで、汚れの筋を目でたどる。それから、迷いなく奥へ歩き出した。知っている。あの進み方は、39件の記録が示す進行方向と同じだ。汚染の上流へ。いつも、汚い順に。
モップが、床を撫で始めた。
撫でた跡から、床の色が変わっていく。観測機が「桁の違う残留値」と叫び続けてきた汚染が、毛先の通り道だけ消えていく。
計器では千回見た現象だ。目で見るのは、初めてだった。
鼻歌が、聞こえる。
曲名は分からない。音程は、正直に言えば外れている。観測史上最大の異常値は、調子の外れた鼻歌つきで床を拭いていた。
異変は、20分後に来た。
横穴から、影が湧いた。
大きい。天井につかえるほどの体躯。骨の浮いた四肢に、霧のような瘴気。深層種の魔獣だ。観測分類でいえば討伐推奨等級S。交戦単位は1個中隊――教科書の頁が、頭の中で勝手にめくれていく。
通報。退避誘導。手順だけが駆け巡った。膝は、動かなかった。
彼が、振り向いた。
モップを、一往復。
影が、消えた。
蒸発という言葉すら大げさだった。窓の結露を、ひと拭き。あれに近い。等級Sの何かは、拭かれた。それだけだった。
鼻歌は、途切れてもいなかった。
「……ああいうの、また増えたな。換気かな」
独り言が岩陰まで届く。彼の中で、いまのは戦闘ですらないらしい。汚れが1匹、床を歩いていただけだ。
床に残った角のような欠片を、彼は袋に入れて口を縛った。持ち帰って分別する気らしい。あの欠片の市場価格を、私は職業柄知っている。都心の中古マンションと、いい勝負をする。
これで、揃った。時刻と経路、順序、そして実体。39枚の記録は、あの背中に1本の線で繋がった。決定的証拠――分析官として、5年間探し続けてきた種類の瞬間だった。
なのに。
胸に来たのは、手柄の熱ではなかった。等級Sを消す力への寒気でも、なかった。
泣きたくなる、に近い何かだった。名前をつけるのは、あとにした。
午前3時。彼は通路の脇に腰を下ろし、包みを開いた。
握り飯が2個。湯気はない。冷えた塩むすびを、彼は両手で持って食べた。食べながら圏外のスマホを一度だけ見て、すぐ仕舞う。誰かの消灯時間を確かめる仕草に、見えた。
15分きっかりで立ち上がり、モップを絞り直す。
今夜この人が消したものは、様式に書けば災害級1件。書かなければ、ゼロ件。世界はゼロ件のほうを信じて、眠っている。
17か国が探している。協会は予算を積んでいる。ニュースは毎晩騒いでいる。その中心の人が、深夜の岩の上で、冷えた握り飯を食べていた。時給1,250円。先月50円上がったと、耳を赤くして言っていた。
……世界は、この人の何を数えてきたんだろう。
最後に、彼は通路の突き当たりへ向かった。
立入禁止のコーンが2本。養生テープの、手作りの結界。その奥の扉から――低いものが、床を伝ってきた。
脈のような振動だった。防寒着の上からでも分かる。臨時観測機を降ろさせた波形の主。桁違いの何かの、住所だ。
彼はコーンの手前で止まった。扉の外までを丁寧に拭き、それ以上は踏み込まない。誰かとの約束を守る手つきだった。
拭き終えると、彼は扉に向かって小さく頭を下げた。
「今日も手前だけです。……また来ます」
化け物に、挨拶をする人だった。
午前4時50分。光が業者ゲートへ引いていく。車輪の音が消えても、私はしばらく動けなかった。
残ったのは、白い床と、私だった。
白の上に、古い冬が浮かぶ。観測小屋で計器を拭いていた、先輩の手。魔法瓶の珈琲を半分くれて、数字の出どころを疑えと説教した人。あの人の仕事も、こういう仕事だった。誰かが見ていなければ、なかったことになる仕事。
そして実際、なかったことにされた。清掃不備の4文字で。受理番号のつかない意見書で。
組織は、見えない仕事を数えない。数えないくせに、値札だけは正確につける。あの背中に協会がつける値札の様式まで、私は知っている。特級観測対象。管理番号。必要になれば――資産の、2文字。
データは嘘をつきません。
私の信条は、今夜も正しい。正しいから、危ない。データは正直すぎて、人を守るという仕事ができない。守れるとすれば、データを扱う側の人間だけだ。
岩陰を出て、1基目の観測機の前に立った。
保守端末を繋ぐ。認証は私自身のコードで通した。偽名の技術は持っていない。持つ気もない。履歴に残るなら、氷室紗雪の名前で残ればいい。
手順は決めてある。一、今夜の記録の抽出。二、原本の消去。三、予備領域の上書き。証拠を守るために5年かけて覚えた手順を、今夜は逆から実行する。
消去の確認画面で、指が一度だけ止まった。
画面の中では、白い作業着がモップを一往復させている。等級Sが、結露のように消えている。世界がひっくり返る7秒だった。そしてこの7秒は、表に出た瞬間から彼の夜を壊す。定食屋の朝飯を奪う。花屋の開店時間を、意味のない知識に変える。
実行を、押した。
2基目。3基目。同じ手順を、同じ指で。
震えは最後まで出なかった。それが自分でも意外だった。記録分析官・氷室紗雪は今夜、観測史上最大の発見を記録から消した。組織の中で過ごした5年間で、初めて組織の外側に足を置いた。
立ってみれば、存外に静かな場所だった。
昇降機の箱の中で、メモ帳を開く。今夜の頁に書くべき数字は、もうこの世に存在しない。私が消した。
代わりに1行だけ書いて、頁を裏返した。
『世界でいちばん静かな場所で、世界はいちばん綺麗になっていた』
地上に出ると、空の底が薄く白み始めていた。
管理棟の脇を抜けて、駐車場へ。そこで、足が止まった。
見覚えのあるレンタカーのボンネットに、大男が腰かけていた。手には缶コーヒーが2本。1本は、まだ開いていない。
人類最強が、朝日を背負って笑った。
「よお。……お前、何か消しただろ」




