第30話「落ちない汚れ」
深さというのは、耳で分かる。
第七ダンジョン、第58層。業務ゲートの昇降機を降りきった瞬間、耳の奥で気圧がひとつ鳴った。地上の音の記憶は、ここまで来るともう残っていない。あるのは俺の足音と、バケツの車輪の音だけだ。
過去でいちばん深い現場だった。指示書の階層番号を2度見して、深度加算の欄を3度見た。深いほど時給が育つ。ダンジョンというのは、そこだけは誠実にできている。
「厄介そうなら、引き返せよ」
出がけの所長の声を思い出す。うちの所長は心配性だ。ただし心配の宛先はいつも俺の体で、汚れのほうじゃない。汚れに厄介も何もない。落ちるか、落ちにくいか。世界の汚れは、その2種類しかない。
5年間、そう思って生きてきた。
仕事は順調だった。通路の焦げた魔素を落とし、天井の粘つく何かを剥がす。例の犬みたいな動くシミが3匹寄ってきたので、順番に拭いた。広さは中層の倍近いが、要領は同じだ。汚れの筋を読んで、上流から下流へ。3時間で、床の色がふた回り明るくなった。
深層の汚れは粘りが強い。指先から何かを持っていかれる、あの感じも強い。それでも落ちる。拭けば白くなる。この稼業の気持ちよさは、つまるところそれに尽きる。
異変は、最奥の広間にいた。
ヘッドライトの輪の先で、それは待っていた。黒い床の、ちょうど中央だった。
直径2メートルほどの、シミ。黒曜石みたいな光沢で、濡れてもいないのに濡れて見える。飛び散った形のくせに、縁だけが妙に整っていた。一滴も、無駄がない。
……何の汚れだ、これは。
まず観察する。基本だ。油の照りに見えて、油の匂いがしない。焦げの黒に見えて、焦げの乾きがない。強いて言えば――血痕の形をしていた。ばかでかい何かが、ここで一度だけ倒れたような。
モップを当てた。
通らなかった。
拭いた、という手応えがない。毛先が表面を滑るだけで、汚れの層に一切届かない。ガラスに映った影を拭いているのに近かった。
道具を替える。中性洗剤は無反応。アルカリの強いやつも無反応。5年かけた自前の配合は――弾かれた。染みる前に液が丸まって、転がり落ちる。
漂白の原液を置いた。1分待つ。変化はない。10分待つ。液のほうが先に乾いた。
スクレーパーで削りにいく。刃は立った。薄皮一枚、確かに削れた。削った端から、黒が埋まった。傷の塞がる速さで。
手が止まった。
5年間で、初めての工程だった。「落ちない」の見当が、どこにもつかない。
しゃがんだまま、シミを見る。
シミが、脈を打った。
どくん、と。照りの中心が一拍ふくらんで、戻った。縁がじわりと這い、床の目地をひとつ越える。俺は膝を半歩ぶん引いた。
それから、あれが来た。
床の奥からモップの柄を伝い、手のひらへ昇ってくる低い振動。いつかの夜の空耳は、名前の形をしていた。今夜のそれは短くて、揺れの並びが――どう聞いても。
……嗤ってやがる。
「――笑ったか? いま」
声に出しても、広間は静かなままだった。シミは黒く光って、もう一拍だけ脈を打った。
落ち着け。手順の話をしよう。落ちない汚れに現場で粘るのは二流だ。原因を持ち帰って、道具を揃えて、出直す。教科書はそう言っている。
言っているが。
俺はこの仕事で、「持ち帰り」というやつを一度もやったことがなかった。「完了しました」以外の報告を、書いたことがなかった。
スマホで写真を3枚撮る。圏外でも、カメラは動く。区画の入り口にコーンを2本立てて、養生テープで即席の立入禁止を張った。敗北宣言としては、我ながら丁寧な部類だと思う。
引き上げ際、一度だけ振り返った。
コーンの向こうで、黒い照りが脈打っていた。急ぐでもなく、焦るでもなく。開店の日取りがもう決まっている店の、準備中の札みたいに。
帰りの昇降機は、行きより長く感じた。深度のせいじゃないことだけは、分かっていた。
午前6時40分。駅裏の雑居ビル、3階。
事務所の机に、俺は作業票と一緒にスマホを置いた。
「1か所だけ、落とせませんでした」
熊谷所長は湯呑みを持ったまま、画面を覗き込んだ。
湯呑みが、机に戻る。音がしなかった。特注の椅子ごと大男が静かになると、この事務所は目に見えて狭くなる。
「……形を言え。写真じゃなく、お前の目で見たほうをだ」
「血痕、ですかね。でかい何かが一度倒れた跡みたいな。縁だけ、変に整ってました」
「脈は」
「打ってました。見てる間に、目地ひとつぶん広がって」
「音は」
一拍、迷った。幻聴の在庫まで上司に開示する義理はない。ないが、あの現場に限っては、隠すほうが手抜きに思えた。
「……低いのが、床から。笑うみたいな揺れ方でした」
所長は何も言わなかった。画面を見たまま、眉のあたりだけが年を取った。
「触ったか」
「道具越しだけです。素手では触ってません」
「なら、いい」
所長は俺のスマホを、伏せて置いた。あの写真立てと、同じ伏せ方だった。
「あの区画は封鎖する。協会には俺から話を通す。お前はもう、最奥に近づくな」
「配合を変えれば、次は――」
「駄目だ」
被せてきた。うちの所長が人の見積もりを途中で折るのは、雇われてから初めてだった。
「……58層の定期は続けていい。ただし広間は扉の外までだ。いいな」
「はあ。まあ、手前までは掃除しときますね」
俺は作業票の備考欄に「1件、持ち帰り」と書いた。書き慣れない5文字は、我ながら曲がっていた。
帰り際、戸口で思い出す。
「そういえば今朝、妹から電話がありまして。検査の数値が、ちょっと揺れたらしいです。先生は誤差だって言ってましたけど」
綴りをめくる所長の手が、止まった。
「……いつからだ」
「今週に入ってから、だそうです。薬で数値が落ち着いてからは初めての揺れなんで、本人はむしろ検査機を疑ってます」
「そうかい。――灰崎、今夜は休め。残業もなしだ」
「時給が減りますが」
「減ったぶんは深度加算で返ってくる。いいから行け」
妙な理屈だったが、眠かったので従うことにした。階段を降りながら考える。うちの所長は今日も変だった。最近、ああいう日が多すぎる。
――同じ日の夜。誰もいない事務所で。
熊谷源三は、古い手帳の最後のページを開いていた。
書かれた番号は、30年間ひとつも直していない。相手が生きていれば、いまも協会観測部の奥にいるはずの男だった。
5回目のコールで、繋がった。
「――俺だ。熊谷だ。……ああ、生きてた。そっちもか」
旧交の温め直しは10秒で切り上げた。聞くことは、3つと決めてある。
「観測部の生データだ。表に出る前のやつでいい。……深層の基礎魔素濃度は、いつから上がってる」
答えを聞きながら、熊谷は手帳の余白に数字を並べた。
「次だ。魔素だまりの発生件数は。……先月比でそれか。地上漏出の一歩手前が、もうその数か」
2列目の数字が並ぶ。
「最後だ。魔素症候群の登録患者の数値は、どう動いてる」
受話器の向こうの声は、長かった。熊谷は途中で、書くのをやめた。
並べた数字の上に、今朝の写真が浮かぶ。黒曜石の照りが脈を打ち、笑うみたいに揺れる――あの黒だ。
深層の濃度が上がっている。魔素だまりが増えている。患者の数値が、静かに揺れ始めている。バラバラだったはずの帳簿が、1本の線で縫い上がっていく。線の先は、誰も届いたことのない最深部を指していた。
「……すまん、もうひとつだけ。30年前の、第1次の報告書。あれはまだ封印指定のままか」
答えは短かったらしい。熊谷は目を閉じた。
「なら、いい。今夜の話は忘れろ。……恩に着る」
受話器を置いて、大男はしばらく動かなかった。
それから、伏せたままの写真立てを起こした。色褪せた6人。手拭いの男は、今夜も誰より大きく笑っている。
――お前が最後に磨いた床にも、あれが咲いてたな。
「……『魔王の血痕』。30年前と、同じだ」
あれは、何かが死んだ跡じゃない。目覚めるものが打った、寝返りの跡だ。
最深部で――魔素の王が、起き始めている。
熊谷は手帳を閉じて、窓の外を見た。湾岸の方角で、管制塔の赤い灯が瞬きもせず夜を刻んでいる。
「……30年ぶりの大掃除に、なるかもしれんな」
誰に言うでもない声は、直したばかりの換気扇の音に混ざって消えた。
――同じ夜。ダンジョン協会本部、記録分析室。
氷室紗雪の画面には、2枚のグラフが並んでいた。
1枚目は、第七ダンジョン深層の魔素観測値だ。第58層の最奥を中心に、この1週間で見たことのない波形が立ち続けている。観測網の教科書に載っていない形だった。
2枚目は、今朝の同じ座標の記録だ。業者用ゲートの深夜通過。層の残留魔素は例によって根こそぎ消え、最奥の一点にだけ、桁の違う何かが居座っている。
最悪の異常と、完璧な清潔。ありえないものが2つ、同じ住所に同居していた。
「……データは嘘をつきません」
口癖を、今夜は自分に向けて言った。積み上げてきた照合が出した答えに、欠けているものは1行しかない。この目で見た、という1行だ。
紗雪は端末を閉じ、ロッカーから私物の防寒着を出した。申請書は書かない。書類にすれば、止める人間が出る。
行き先は、決めてある。
深夜の、第58層。
――答え合わせの時間だ。




