第29話「妹は気づく」
深夜の病室で動画を見るコツは、画面の明るさを最低にすること。音は片耳だけにして、顔は寝たふり。見回りの看護師さんとの、暗黙の協定である。
舌の奥には、まだ特選いちごの甘さが残っていた。はたらきものの兄が、働いて買ってきた甘さだ。
『【新説】ファントムの正体、"清掃員"説【徹底考察】』
赤いサムネイルに、白い文字。投稿主はノロイちゃん。呪術師の格好でデータを語る、私の推し考察配信者だ。私がフォローした頃の10倍は登録者がいる、時の人である。
再生ボタンに、触れた。
「はいはーい、ノロイちゃんよー。今日の動画は、たぶん荒れるわ。先に言っとくの。――前回の私の説、半分撤回します」
おお、と毛布の中で思う。配信者が自説を曲げるのは、ふつう炎上のあとだ。この人は火の気配より先に、自分から曲げる。そこが推せる。
「《幻影清掃部隊》説。訓練されたプロ集団と言ったわね。半分は当たってた。浄化のプロ。でも、規模のほうが間違いだったの。データを見直したわ」
画面に表が出る。ファントムの浄化が検知された、日時の一覧。
「いい? 検知はぜんぶ深夜の1時から5時。例外は一度もないの。国家の極秘部隊が、こんな行儀のいい運用をする? しないわ。これはね――シフトなのよ」
シフト。
「次。例の流出画像の置き手紙。『特別清掃、完了しました。承認お願いします』。工作員は超過2時間の承認なんて取らないわ。素材は資源ごみに分別。現場は水拭きまで完璧。おまけに、業者用ゲートの通過記録があったって噂まで協会周りから聞こえてるの」
ノロイちゃんは、扇子をぴしりと閉じた。
「結論。ファントムは部隊じゃない。深夜シフトで床を磨く、たったひとりの――清掃員なの」
コメント欄が、滝になった。
『は?』
『夢がない』
『ノロイちゃん、焼きが回ったか』
『世界最強が時給制なわけないだろ』
『ロマン返して』
『登録解除しまーす』
画面の中の呪術師は、動じない。
「異論は認めるわ。ただし、データを持ってきてからにしなさい」
いつもの締めだった。いつもなら「かっこいい」と打って寝る。
打てなかった。
親指が、画面の上で止まっていた。
……清掃員。深夜の、シフトの。
お兄ちゃんの袖の匂いを思い出す。石鹸を煮詰めたような、つんとした匂い。転職してから、あの人の匂いは変わった。
――でかい施設。夜中の、誰もいないやつ。
職場を聞いた日、お兄ちゃんは一拍おいてそう言った。一拍の意味を、私は追及しなかった。
まさか、と思う。ないない、とも思う。清掃員なんて日本に何十万人もいる。深夜勤務も珍しくない。うちの兄は時給1,250円で、世界最強は――
世界最強が、時給制なわけないだろ。
さっきのコメントが、頭の中で裏返った。じゃあ、あの置き手紙は何。超過2時間ぶんの承認を求める世界最強って、何。
動画を巻き戻して、検知一覧の表で止める。いちばん上の行。ファントム初検知、第47層、未明。
その日付に、見覚えがあった。
トーク履歴を遡る。指がうまく滑らなかった。画面に、汗の細い筋がつく。
あった。友達に送った写真。生のいちごのパックと、『うちの兄、入って2日で昇給した。天才では?』の一文。
送信日時は、初検知の翌日だった。
入って2日で昇給。逆算すると、初仕事の夜は――初検知の、前の夜。
ファントムが第47層を綺麗にしたのは、その夜明けだ。
数えるまでもなかった。それでも数えた。3回、数えた。
一致した。
息の吸い方を、少しのあいだ忘れた。モニターは静かだった。波形も静かだった。騒いでいるのは、私の中身だけだった。
誇らしさが、先に来た。
やっぱり。やっぱりだ。お兄ちゃんはすごいんだよ、世界が気づいてないだけ――ずっとそう言ってきた。冗談みたいな本気だった。世界のほうが、あとから追いついてきただけだ。
次に来たものには、名前をつけたくなかった。
軍隊が逃げた化け物。災害級の呪い。人類未踏破。この8か月、ニュースで聞き流してきた言葉が、ぜんぶ質量を持って戻ってくる。あの言葉たちの真ん中に、毎晩うちのお兄ちゃんが立っている。モップ1本で。
ダンジョンは、お父さんとお母さんを連れていった場所だ。私の体に、魔素を置いていった場所だ。
そして私の治療は、たぶん私が思うよりずっと高くて。深夜の時給は、昼間より高くて。
――お兄ちゃんは、私のために、世界でいちばん危ない場所にいる。
毛布をかぶり直した。意味はない。そうしないと、震えが外に出そうだった。
サイドテーブルのメモ帳が目に入る。「退院したら」リストの、2番。お兄ちゃんの職場見学。
書いたときは、モップの持ち方でも教わるつもりだった。……見学って、私。第47層って、あなた。
笑おうとして、失敗した。
どうしよう、は考えないことにした。考えるのは、どうするか、だけ。入院生活で身についた特技の3つ目だ。ベッドの上では、できることから数える。
まず、誰にも言わない。友達にも看護師さんにも。本人には、なおさら。世界はいまファントムを探して大騒ぎだ。国が、軍が、偉そうな大人たちが。名前が知られたら、あの人の夜勤は夜勤じゃなくなる。特売のプリンを2個買う人生が、終わってしまう。
守るものが増えるのは、初めてかもしれなかった。ずっと、守られる係だったから。
動画に戻ると、コメント欄はまだ祭りだった。
『清掃員はねーわ』
『どうせ売名でしょ。正体隠すやつにろくなのいない』
『仮に清掃員なら金目当てじゃん。しょぼ』
金目当て。
……そうだよ。悪い? あの人はね、いちごの「特選」の札の前で3分は悩むんだよ。悩んで、買って、自分は1粒しか食べないんだよ。
気づいたら、入力欄を開いていた。
打っては消して、打っては消して。長い文は全部削った。名探偵は、証拠を並べない。妹だから分かることは、妹の中にしまっておく。
残った一行だけを、送信した。
『ファントムはそんな人じゃないと思います』
匿名の細い声は、滝の中にすぐ沈んだ。いいねは付かないだろう。それでいい。世界でひとりだけ答えを知っている人間の、最初の書き込みだ。
スマホを枕の下に戻して、天井を見た。
今ごろあの人は、どこか深い場所の床を磨いている。たぶん鼻歌つきで。危ないなんて、1ミリも思っていない顔で。あの鈍さが、今夜だけはお守りに見えた。
お兄ちゃんはすごいんだよ。世界が気づいてないだけ。
――どうか、このまま気づかれませんように。
口癖の続きを生まれて初めて祈りの形にして、私は目を閉じた。
――翌日の夕暮れ。駅裏の雑居ビル、3階。
夜勤前の事務所で、1枚の指示書が手渡されていた。現場は第七ダンジョン・第58層。過去で、いちばん深い番号だった。
「厄介そうなら、引き返せよ」
「はあ。まあ、掃除しときますね」
その最奥で待つものを、渡した熊谷も受け取った湊も、まだ知らない。
拭いても、消えない汚れ。
モップが初めて通らない夜が、すぐそこまで来ていた。




