第28話「俺のスキル、変か?」
夜勤明けの朝日というのは、どうにも他人行儀だ。
床から名前を呼ばれた気がした夜から、二晩が過ぎた。あれきり現場は静かなもので、結論はもう出ている。空耳。深夜労働と寝不足の合わせ技だ。俺の頭の中の裁判所は、審理が早い。
今日は夕方に面会がある。いちごの日だ。それまでにやることは、作業票の提出と睡眠だけだった。
午前6時半。事務所に上がると、給湯室から湯気とぼやきが漏れていた。
「あー、腰。腰がもう、定年」
島さんだ。管理棟周りと浅層通路をかれこれ28年守っている、うちの最古参。腰のサポーターは3代目だと聞いた。
「おはようございます」
「おう灰崎くん。……いや、朝だけどねえ」
島さんは湯呑みを両手で包んで、事務椅子に沈んだ。昨夜は連絡通路のガム剥がしだったらしい。近頃の探索者は装備は最新でも、マナーは石器時代なのだそうだ。
「灰崎くんは、昨夜どこだったの」
「第七の38と39です」
「38番通路かい。あの長いやつ」
「いえ、38層と39層です。層のほう」
湯呑みが、口の手前で止まった。
「……2層? 一晩で?」
「39層は前に一度やってるんで。要領の問題かと」
「はあ……若いって、おっかないねえ」
島さんは湯呑みを傾けて、それで納得したらしかった。あたしなんか通路一本で腰がこれよ、とサポーターを叩いて笑う。28年ものの職人の腰だ。笑いごとではないと思う。
「灰崎くんさ、洗剤なに使ってんの」
「基本は支給品です。仕上げだけ自前で、配合をいじってます」
「若いのに渋いねえ。道具に凝るやつは長続きするよ」
奥の机で、熊谷所長が俺の作業票を受け取った。1枚めくり、2枚めくり――手が、いつもより半拍長く止まった気がした。
「……38と39、一晩でか」
「狭い層だったんで。汚れの筋も素直でした」
「そうかい」
それだけだった。所長は綴りを引き出しに仕舞って、朝刊を広げた。
帰り道。開店前の商店街を歩きながら、俺は島さんの湯呑みのことを考えていた。
口の手前で、止まった湯呑み。
通路一本と、2層。
……あれ?
横断歩道の手前で、人生初の自己分析が開廷した。議題、俺のスキルはちょっと変なのではないか。
証拠その1。島さんは一晩で通路一本。俺は一晩で2層。面積比を暗算しかけて、途中で投げた。桁が揃わないと、電卓というものは仕事を放棄する。
証拠その2。深層にいる、あの犬みたいな動くシミ。探索者の資料では討伐難度がかなり上のはずだが、モップで拭くと落ちる。
証拠その3。入って早々に、時給が上がった。無能に昇給は来ない。
「……あれ? 俺のスキル、ちょっと変か?」
声に出したら、足元の鳩が2羽飛んだ。
いや、待て。順番に潰そう。
まず、俺の【クリーンアップ】は協会の適性検査でハズレ枠と判定されている。国のお墨付きだ。個人の感想と公文書が争えば、公文書が勝つ。社会はそうできている。
参考判例もある。ゼノギアの5年間、俺の仕事は誰の記録にも残らなかった。規格外の人間が、雑用でコストカットされるか? されない。判例は俺に不利だが、論理としては盤石だった。
次に島さんとの差。あちらは腰が定年で、こちらは23歳。体力の問題だ。若さ。以上。
じゃあ、あの動くシミはどうだ。探索者が命がけで狩る相手を、俺はモップで――
考えかけたところで、信号が青になった。渡り終える頃には、審理は次の証拠に移っていた。人間の集中力とは、そういうものだ。
残るは道具と腕。スプレーは5年かけて配合を調整した自前だし、希釈も水温も現場ごとに変えている。島さんも言っていた。道具に凝るやつは長続きすると。つまり、あれだ。魔素とやらは油汚れと同系統で、うちの配合と相性がいいんだろう。
「……まあ、洗剤の使い方が上手いんだろうな」
結論が出た。信号が2回変わっていたから、審理時間はおよそ3分。人生初の自己分析は、職人の自尊心を静かに満たして閉廷した。控訴の予定はない。
この判決文を世界中の協会と政府が読んだら――と考える者は、朝の横断歩道のどこにもいなかった。
駅ビルの果物屋は、ちょうどシャッターを上げたところだった。
「特選」の札の前で足を止めて、財布を開く。特別手当に、超過2時間ぶん。数字は、もう確かめるまでもない。
「これください。箱はいらないです。今日食べるので」
夕方の面会で、ひよりは1粒目を口に入れた瞬間に固まった。点滴の数値より、頬の色のほうが早かった。投資は正しかったらしい。
「……お兄ちゃん、これはすごい。いちごの、偉い人だ」
「偉い人は食われるのか」
「ね、退院したら、いちご狩りに行きたいなあ。偉い人を、もぎたてで」
「考えとく」
俺は1粒だけもらって、夜勤に出た。
――同じ夜。駅裏の雑居ビル、3階。
熊谷源三は、ひとり残った事務所で綴りをめくっていた。
複写式の作業票、現場控え。灰崎湊のぶんだ。雇ってからまだ、束は薄い。
第47層、全面清掃・1名・一晩。第52層、同じく一晩。旧区画の魔素だまり、処理完了。第44層、重度汚染・超過2時間。
どの行も、字は几帳面に揃っている。数字だけが、この商売の常識から桁ごと外れていた。
30年この稼業をやってきて、こういう作業票を見るのは二度目だった。
一度目の綴りは、もうこの世にない。書いた男と、一緒に消えた。首に手拭いを巻いて、誰より大きく笑う男だった。
窓の外を、報道のヘリが遠く横切っていく。幻とやらを探す網は、日ごとに狭まっている。
熊谷は伏せたままの写真立てを一瞥して、冷めた茶を飲み下した。
「【クリーンアップ】……」
安い名前だ。協会の検査は、あの器を測れなかった。あるいは――測れて、しまったのか。
「いや、あれは『概念浄化』。――30年前、世界がそう呼んで、封印した力だ」
誰もいない事務所で、直したばかりの換気扇だけが回り続けていた。
――同じ頃。市立病院、402号室。
消灯後の毛布の中で、ひよりはスマホの明かりを絞っていた。
舌の奥に、まだ夕方の甘さが残っている。特選のいちごは、悔しいくらい特選の味がした。1粒しか食べずに夜勤へ行った誰かさんは、今ごろどこかの床を磨いているはずだ。はたらきものにも、ほどがある。
寝る前の日課は、考察チャンネルの巡回だ。通知が1件、届いていた。
赤いサムネイルに、白い文字が躍る。
『【新説】ファントムの正体、"清掃員"説【徹底考察】』
スクロールする指が、止まった。
……清掃員?
画面の光の中で、ひよりは再生ボタンへ、そっと指を戻した。




