第27話「所長の写真」
給料明細というものは、読み返すたびに味が出る。
夕方4時50分。事務所の外階段を上がりながら、俺は封筒の中身を3度目に確かめていた。深夜割増に危険手当。その上に特別手当と、超過2時間ぶん。合計欄には、うちの家計簿が見たことのない並びの数字が座っていた。
駅ビルの果物屋の、あの「特選」の札。今週中に、現実になる。ついでにひよりの言う「プリン・ア・ラ・モード」の材料費まで暗算しかけて、やめた。電卓は景気のいいうちに閉じるに限る。
3階の磨りガラスを開けると、テレビの消える音がした。
「おはようございます」
「……おう。今日は早いな」
熊谷所長が、リモコンを置くところだった。画面は黒い。消える寸前に司会者の口が「ファント」まで動いた気がするが、うちのテレビは古い。だいたい世間は最近、その幻とやらの話しかしていないらしい。ご苦労なことだ。
「明細のお礼を言いに来ました。あと、給湯室の換気扇が先週から気になってたので」
「お前の『気になる』は長くなるやつだ。ほどほどにしとけよ」
「時給の外なんで、手短にやります」
給湯室の換気扇は、思ったより重症だった。フィルターの油を落とし、羽根を1枚ずつ拭き上げる。回してみると、音がひとつ若返った。いい音だ。ついでに湯を沸かして、茶を二人ぶん淹れる。所長のは濃いめ。この事務所で最初に覚えた業務知識だ。
湯呑みを運んだ先、所長の机の端に、それはあった。
伏せられた写真立て。
昨日までは、なかったはずだ。机を拭くには、どかす必要がある。持ち上げた拍子に、中身が見えた。
色褪せた写真だった。ごつい防護服の6人が、肩を組んで笑っている。装備はどれも、資料映像でしか見ない旧式だ。背後の岩壁には旗が1本。手書きの太い字で「第1次攻略隊」とあった。
左端の大男に、見覚えがあった。若い。髪も黒い。だが特注の椅子が要る体格と、眉の太さは今と変わらない。その隣では、首に手拭いを巻いた男が誰より大きく笑っていた。
「……茶ぁ、冷めるぞ」
背後の声。俺は写真立てを、そっと元の向きへ戻した。戻してから、もう遅いよなと思った。
「所長、探索者だったんですか?」
「……昔の話だ」
いつもなら、ここから梅雨だの腰痛だのが始まる。あの世間話の分厚い座布団が、今日は出てこなかった。所長は湯呑みを受け取り、長いこと湯気だけを見ていた。
「この人たちは」
「仲間だ。昔の、な」
「今は」
「……散り散りさ。当時のダンジョンってのは、今よりだいぶ血の気が多くてな」
それきり写真の話は終わった。終わったはずだったが、所長は湯呑みを置いて、こっちを見た。
「灰崎」
「はい」
「お前、掃除した後の床を見て、何を思う」
変な質問だった。俺は昨夜の現場の床を思い浮かべた。
「え? ……綺麗になったなあ、って」
「それだけか」
「あとは時給の計算を、少し」
「……そうか。それでいい」
所長は茶を一口だけ飲んだ。
「それが一番、難しいんだ」
どこがだ。小学生でも出てくる感想だと思う。だが口には出さなかった。所長の目が、冗談を言うときの目をしていなかった。
茶を挟んで、短い沈黙が続いた。給湯室からは、直したばかりの換気扇の音が低く回ってくる。直したての音というのは、少しだけ得意げに聞こえるものだ。所長はその音の方を一度だけ見て、湯呑みを置いた。湯気は、もうほとんど立っていなかった。
「お前のその力……協会の検査じゃ、なんて名前がついた」
「【クリーンアップ】ですけど。ハズレ枠の」
「クリーンアップ、ね」
所長はその名前を、口の中でしばらく転がした。出涸らしを飲んだときの顔だった。
「名付けた検査官は――」
言いかけて、やめた。湯呑みの底を覗き込んで、続きごと飲んだらしい。
「……いや。覚えやすくて、いい名前だ」
「それ、褒めてます?」
「半分な。……灰崎。最近、物忘れはねえか」
「は? 俺、まだ23ですよ」
「俺の話だ。歳を取るとな、大事なことから先に忘れちまう」
所長は伏せた写真立てを一瞥して、それきり黙った。話の繋ぎ方としては0点だと思う。だが、突っ込める空気でもなかった。
戸口で作業着の襟を直していると、背中に声が来た。
「今夜も現場か」
「はい。浅層の定期です」
「……床を拭いて、綺麗になったと思う。帰って、飯を食って、寝る。それができてるうちは、何の心配も要らねえ」
「所長、それ、社訓か何かですか」
「そんな上等なもんか。行ってこい」
階段を降りながら考えた。うちの所長は今日、少し変だった。まあ、大男にもそういう日はあるんだろう。俺にだって、あさっての方向に落ち込む夜くらいはある。
階段の下で振り返ると、3階の磨りガラスにはまだ灯りが点いていた。テレビを点け直す音は、最後までしなかった。
午前2時。第七ダンジョン、浅層連絡通路A。
今夜の指示書は、いたって平和だった。ゲート周りの泥を落とし、通路のガムを剥がす。剥がしがいのある、まっとうな汚れだ。深層の焦げた魔素と違って、指先から何かを持っていかれるあの感じもない。
モップを往復させながら、夕方の問答を反芻する。掃除した後の床を見て、何を思うか。綺麗になったなあ、と思う。……それの何が、一番難しい――
――ト。
手が止まった。
「……?」
振り返る。通路には誰もいない。ヘッドライトの輪の外は、いつも通りの暗さだった。
――ミナ、ト。
声、と呼ぶには低すぎた。床の、ずっと深いところから響く音。名前の形をした振動が、モップの柄を伝って手のひらまで昇ってきた。
スマホを見る。圏外。無線は今夜、借りていない。同僚は全員、地上だ。
30秒、待った。何も起きない。床は床のままで、拭いたところだけ静かに白い。
「……疲れてるな、俺」
深夜労働と寝不足が続けば、幻聴のひとつも出る頃合いだ。所長が変なことを聞くから、変な耳になった。そういうことにして、俺はモップを絞り直した。
拭き終えた床は、今夜もよく光った。
綺麗になったなあ、と思った。それだけだった。それでいいと、夕方に太鼓判ももらっている。
――その「声」が何だったのかを、湊はまだ知らない。
地の底よりなお深い場所で。何かが初めて、掃除人の名前を呼んだことを。




