第25話「残業する幽霊」
出勤すると、壁のシフト表の横に新しい貼り紙があった。
『特別清掃・重度汚染(原因不明)/第七ダンジョン・第44層/夜間・特別手当あり』
特別手当。いい日本語だ。頭の中の電卓が、勝手に動き出す。深夜割増に危険手当、その上に特別が乗る。駅ビルの果物屋で見た「特選」の札が、ぐっと近づいた気がした。
熊谷所長が、指示書と複写式の作業票を寄越した。
「協会の直発注だ。44層の周辺一帯は、いま民間の立ち入りが凍結されてる。通れるのは協会発注の緊急案件だけだ。業者ゲートの権限は今夜ぶんだけ開く」
「凍結って、何かあったんですか」
「大手が何かやってるらしい。演習だか工事だか知らんが、うちには関係ねえ。汚れが出た。落とす。それだけだ」
「それだけなら、得意です」
「協会直の案件は、報告の現場控えを置いてくる決まりだ。複写の3枚目を残せ。……それとな」
所長は、指示書の「原因不明」の4文字を太い指で叩いた。
「原因不明ってのは、誰も責任を取らねえって意味だ。やばいと思ったら引き返せ」
「時給分は働きます」
「そういう話じゃねえって、何度言やあ分かるんだ」
午前1時、第44層。
管理ゲートの光が引くと、先ににおいが来た。機械油と、焦げた魔素。ヘッドライトを回すと、床の一面がうっすら虹色に光っていた。廃魔素の油膜だ。ここまで育つと、普通のモップは繊維から負ける。なるほど、重度汚染。看板に偽りなしだった。
膝をついて、汚れの筋を目でたどる。汚れには流れがある。さかのぼれば、上流に元栓がある。元から断たないと、二度手間になる。二度手間は、嫌いだ。
流れの先に、機械がいた。
通路の交差点に、冷蔵庫を三まわり大きくした鉄の箱が据えてある。1台じゃない。光の輪の中に4台、奥の暗がりにもまだいる。低くうなりながら、側面の排気口から例の焦げた魔素を垂れ流していた。
――上流、発見。
発電機か、空調の親玉か。どこの誰の持ち物か知らないが、ひどい機械だった。自分の排気で、自分の足元を汚している。うちの事務所の換気扇と同じで、こういうのは電源部からやられていく。
「まあ、掃除しときますね」
交差点に踏み込むと、体がふっと重くなった。肩と膝に、砂袋をひとつずつ足されたような重さ。
……空気が淀んでいるな。これだけ汚れていれば、道理だ。
手順は決めてある。一、換気。二、上流の元栓。三、床と壁。四、仕上げ。
四隅に固まった「淀みの根」を拭き取る。砂袋は、まだ肩にいた。この重さは根が深い。となれば、やはり元栓からだ。
1台目の排気口の詰まりを掻き出し、外装を拭いて、電源部のこびりつきを磨き上げる。焦げた魔素が層になって、配線の隙間まで染みていた。よく今まで動いていたものだ。
磨き終えた瞬間、うなりが止まった。ついでに、肩の砂袋がひとつ軽くなった。
……止めたか? いや、汚れで無理をしていた機械が、汚れが落ちて休んだんだろう。それに深夜だぞ、この音量。地下200メートルでも、近所迷惑という言葉は生きていると思う。
2台目、3台目。拭くたびに、1台ずつ黙っていく。12台目が静かになると、交差点は耳が鳴るほどの無音になった。体もすっかり軽い。換気と元栓。掃除の基本は、深層でも裏切らない。
物陰で、何かが揺れた。
汚染だまりに湧いたらしいスライムの群れが、行き場をなくしてひしめいている。餌の汚染は、もう拭いた。残っているのは、ただの動くシミだ。モップを一往復。二往復。床が広くなった。
午前3時、休憩。ゲートの脇で塩むすびを2個。スマホは圏外。402号室の消灯には、とっくに遅い時間だ。15分きっかりで切り上げた。今夜は、後半が長い。
床の油膜は、見た目より根が深かった。拭いても拭いても、岩の目地から新しい膜がにじんでくる。12台ぶんの垂れ流しが、床下まで染みていたらしい。スキルを通すたび、指先から根こそぎ持っていかれる例の感覚が来た。今夜のは重い。まあ、深夜労働とはそういうものだ。
気づけば、午前5時を回っていた。定時だ。床は、まだ半分残っている。
やりかけの床ほど、座りの悪いものはない。それに明日また来るなら、ゲート権限だの申請だのが、もう一度ぜんぶ要る。答えは決まっていた。
――残業だな。
超過は事前承認が原則だが、ここは圏外だ。言い訳の文面を頭の中で組み立てながら、モップを絞り直した。
仕上げが終わったのは、午前7時前だった。
床は光の届く先まで白く、機械の鉄板は買ったばかりの顔をしている。あの虹色は、もうどこにもない。いい交差点になった。
作業票に記入して、複写の3枚目を切り離す。少し考えて、メモを1枚足した。機材の持ち主が見に来るだろうから、断りは入れておくのが筋だ。
『ご担当者様 特別清掃、完了しました。汚染が酷かったので2時間超過しました。承認お願いします。なお機材12台は電源部の汚れがひどかったため清掃済みです。動作は確認していません』
現場控えと重ねて、いちばん手前の1台の上に置いた。風はないが、隅を小石で押さえておく。
帰りのゲートで、白くなった交差点を振り返った。
特別手当に、超過2時間。……特選いちごに、届くな。
――同じ夜。第44層、外周第1配置。
与野は岩陰で、単眼鏡を構え続けていた。二晩目。仮眠は2時間で切り上げた。40層の借りと、52層の借り。まとめて返すなら、今夜しかない。監視割りは外周の進入路に全班。中央は、檻に任せる配置だった。
午前1時20分、本部からの通信が耳に落ちた。
『観測班より各班。中央区画の汚染値が低下を始めた。計器の故障と思われる。監視を継続せよ』
解析官の声が、後ろに続いた。
『……故障です、と申し上げたいのですが。全計器が同時に、同じ曲線で壊れています』
以後、中央の計器が何を言っても、本部はそれを故障の続きとして記録した。
2時前、装置のうなりが変わった。1基、また1基と黙っていく。技術主任の報告は「廃魔素による絶縁不良の連鎖かと」。本部の指示は変わらない。
『触るな。配置は維持だ。獲物の前で檻を直す猟師がいるか』
与野は単眼鏡を握り直した。熱源、なし。進入反応、なし。魔素反応に至っては、下がり続けている。静かすぎる夜だった。静かすぎる夜は、40層でも52層でも、ろくな朝につながらなかった。
夜が、明けた。
撤収命令が下りたのは、7時を回ってからだった。最終確認で、与野の班は中央区画に入った。
白い。
床が白い。壁が白い。装置の鉄板が、鏡みたいに白い。二晩かけて床を曇らせた油膜が、岩の目地まで消えている。石鹸の、においがした。
この白さを、与野は知っていた。52層の、あの朝の白さだ。膝の後ろが、勝手に強張った。
「た、隊長。装置の上に……こ、これがっ」
副長が差し出した紙を、受け取る。読む。二度、読む。
「……本部へ。だ、第1班、与野です。中央区画に到達。装置は全基、停止。汚染は……消えています。それから、書き置きが、あります」
『書き置き?』
「読み上げます。『ご担当者様。特別清掃、完了しました。汚染が酷かったので、2時間超過しました。しょ……承認、お願いします』……本部、応答願います。承認とは、誰が何を――本部ォ!」
――30分後。王城巧は、自分の靴音だけが響く交差点に立っていた。
数億の檻は、12基とも磨き上げられて沈黙していた。総工費は純利益の2年分。動いたのは2晩で、戦果はゼロだった。いや、正確を期すなら、現場はかつてなく綺麗になった。数字で語れば、そうなる。誰が語るか。
業者ゲート。協会直発注。起きない前提の例外。契約書の飾りが、額縁ごと頭に落ちてきた。
手の中には、2枚の紙がある。1枚は協会様式の作業控え。業者名の欄は複写の掠れで読めない。もう1枚は、手書きのメモだった。
几帳面な字だった。数字は半角で桁が揃い、用件は3行で終わっている。読みやすい。読みやすすぎる。決裁の山のいちばん底で、5年間こういう字を見ていた気がする。備品発注書に、在庫表。誰も読まない引き継ぎメモの、あの余白の取り方――
どこで見た字だ。
思い出せない。名前を呼んだことが、一度もないからだ。頭のどこかが、そう言った。
紙を持つ指先から、体温が引いていく。朝の冷えではない。ダンジョンに、朝はない。
「……与野。この件は箝口令だ。数字も画も、一切外に出すな」
「はっ」
返事は揃っていた。だから王城は気づかなかった。整列した隊列の後ろで、誰かの端末が音もなく光ったことに。
数億円の檻が二晩かけて捕らえたものは、ひとつだけだった。
残業申請、2時間ぶん。
幽霊は今夜も定時に出勤して、汚れがひどければ――残業をする。




