第23話「氷の分析官、取材する」
休暇3日目の朝は、味噌汁の湯気の向こうから始まった。
駅裏の定食屋、カウンターの隅。3日も通えば、大将は何も聞かずに朝定食を出すようになる。眼鏡は今日も置いてきた。髪も下ろしたままだ。この3日で分かったことがある。彼は毎朝ほとんど同じ時間に現れ、同じ席で、まず味噌汁に手を付ける。食べ方は静かで、器は下げやすい形に重ねて返す。
「ねえちゃん、今日は箸が動いてるな」
「……ええ。味が、決まっているので」
大将は鼻を鳴らして鍋に戻った。いつもの大男は来ていない。好都合だった。観測というものは、対象が増えるほど精度が落ちる。
準備は済ませてある。一、名乗り。二、口実。三、質問票。口実は「清掃業界の労働環境調査」。半分は本当だ。調査であることに嘘はない。依頼主が私ひとりであることを、言わないだけで。
午前6時40分、引き戸が開いた。白い粉をかぶった作業着。眠そうな会釈。観測記録の枠と、寸分違わない時間だった。
青年が定食を半分ほど進めたのを見計らい、盆ごと隣の丸椅子へ移る。
「相席、失礼します。……フリーで調査の仕事をしております、氷室と申します。清掃業界の労働環境について、夜間勤務の方のお話を集めていまして」
「はあ」
「少しだけ、お時間よろしいですか」
嘘は3割に抑えた。それでも湯呑みを持つ手が、練習のときより重い。5年間、相手にしてきたのは数字だけだ。聞き込みの才能は、履歴書のどこにも書いていない。
青年は箸を止めて、少し考えた。
「……うち、たしか取材お断りなんですけど。会社じゃなく、業界の話なら」
「業界の話です」
「なら、食べながらでよければ」
拍子抜けするほど、あっさり通った。名刺を求められたら鞄を漁る芝居まで用意していたのに、出番がなかった。
「勤務は、何時から何時まで」
「1時から5時です。休憩は3時に15分。うち、労基はちゃんとしてるので」
ペン先が、一瞬止まった。39件の記録から絞り出したあの枠が、本人の口で答え合わせされていく。――まだだ。仮説は、確かめるまで裏返しておけ。
「お休みは」
「週休2日です。祝日もちゃんと休みですよ、うちは」
カレンダーの黒塗りが、また1枚めくれた。
「この仕事は、長いんですか」
「ひと月半、くらいですかね。前は……別のところで、雑用を。いまのほうが、性に合ってます」
最初の消失記録の日付と、突き合わせるまでもなかった。それより「雑用」の前の短い間のほうが、耳に残った。履歴の空白は突かない。取材の礼儀だ。……礼儀というより、私が突かれたくない側の人間なだけだが。
「時給は、差し支えなければ」
「1,250円です。深夜割増込みで。……先月、50円上がりました」
言ってから、青年は湯呑みで口元を隠した。耳が少し赤い。17か国が予算を積んで探している男の市場価格が、50円刻みで更新されている。この行を報告書に書いたら、上司はまず誤記を疑うだろう。
「安全対策の講習などは」
「所長が口頭で。『やばいと思ったら引き返せ』と。あとは毎晩、道具の点検です」
「……危険を感じたことは。その、夜のダンジョンで、怖いと思った経験などは」
「ヌメリが、しぶといときですかね」
「ヌメリ」
「油と魔素の混ざった汚れです。あれは手強い。普通のモップだと、繊維のほうが先に負けるので」
そこからは、質問が要らなくなった。100円ショップのモップは柄の継ぎ目が弱点で、耐水テープを二重に巻けば寿命が3倍に伸びること。スポンジは高い1個より、安いのを切って使うほうが仕事になること。眠そうな目はそのままに、道具の話だけ早口になる。
――この人が。
各国の分析官が寝ずに追いかけている観測史上最大の異常値が、100円のモップの改良点を、こんなに熱く。
私の39枚の記録は、この早口を1行も予言していなかった。
青年はあくびをひとつ噛み殺し、それから、ふと私を見た。
「……調査の人って、統計にも詳しいんですか」
「多少は」
「16歳の女の子が、見舞いでもらって困らない花の統計ってありますか。菊以外で」
質問票のどこにもない質問だった。
「……切り花の購買調査なら、若年層の上位はガーベラ。次いで、かすみ草です。香りの強い花と花粉の落ちやすい花は、病室では避けるのが通例です」
「ガーベラ」
青年は箸を置き、手帳ではなくレシートの裏にそれを書いた。思ったより、字が丁寧だった。
「妹さん、ですか」
「ええ、まあ。……花の好みが変わる年頃らしくて。去年と同じのを持っていったら、笑われたので」
半分だけ開いて、すぐ閉まる引き出しだった。深追いはしない。私の調査項目に、家族欄はない。ないはずなのに、レシートの裏の4文字が妙に目に残った。
質問票の最後の1問――《ファントム》をご存じですか――には、封をしたまま鞄へ戻ってもらった。今日のところは。
店を出ると、駅までの方向が同じだった。取材の続きを口実に、隣を歩く。実際は、観察の続きだった。
青年の歩き方は、変だ。歩幅は眠たげなのに、目だけが忙しい。視線はアーケードの継ぎ目に落ち、側溝の網をなぞる。それから傾いた立て看板を確かめて、先へ進んでいく。倒れていた誰かの自転車は、通りすがりに片手で起こされた。植え込みの空き缶は、いつの間にか彼のレジ袋の中にいた。
「……よく、拾うんですか」
「落ちてるので」
それだけだった。理屈も美談も付いてこない。落ちているから、拾う。この人の世界はたぶん、その1行で回っている。
信号待ちで、青年がこちらを見た。
「ちなみに、この辺の花屋が何時に開くかって、統計ありますか」
「統計ではなく記憶ですが。駅ビルの生花店なら、10時です」
「10時」
またレシートの裏が出てきた。私の即答は、協会のどのデータベースよりも速かった。取材相手の買い物の役に立つ調査員が、世界に何人いるだろう。
自転車を起こしたとき、彼の手が朝日の中に見えた。
足が、止まりかけた。
指の付け根に並んだ、固い盛り上がり。手のひらを横断する深い筋。指先はささくれて、絆創膏が2枚。爪は短く、輪郭だけが洗剤で白く抜けていた。道具を何万時間も握った人間の手だ。年数そのものが、皮膚に刻んである。
知っている手だった。
先輩の手が、そうだった。冬の観測小屋で、かじかむ指に息を吹きかけながら計器を拭いていた。数字の出どころを疑えと説教するたび、魔法瓶の珈琲を差し出してきた手は、いつも不格好だった。
データは嘘をつきません。それが私の信条で、いまも変わらない。ただ、データには載らない項目がある。手の温度は、39枚のどこにも記録されていなかった。
私は5年間、記録の中で人を探してきた。時刻で絞り、経路で絞り、汚染度で絞った。絞った先にいたのは、異常値でも英雄でもなく――妹の花に悩む、働く手をした人だった。
息を、ひとつ整える。
メモ帳を開いた。今日の頁に、数字はひとつも書かなかった。代わりに1行だけ。
『手が、働く人の手だった』
書いてから、頁を裏返した。この1行は、まだ誰にも渡さない。渡すための様式が、協会にはない。
「氷室さん。駅、そっちじゃないですよ」
「……ええ。いま行きます」
駅前の電器屋の店頭で、並んだテレビが同じ画面を映していた。
足が止まる。今度は、完全に。
壇上に、ゼノギアの紋章。整列した幹部たち。中央のマイクの前で、王城巧が原稿を読み上げている。
『――正体不明の攻略者、通称について。当クランは関係当局の承認のもと、大規模捕獲作戦の決行を発表いたします。作戦名は――』
読み上げより先に、画面の下をテロップが走った。
《グラビティ・ケージ》。決行は、3日後。
定食の湯気で温まったはずの指先が、袖口から順に冷えていく。決行時刻は発表されなかった。だが、賭けてもいい。深夜だ。彼の、勤務時間帯だ。
隣で、青年がのんきに画面を見上げていた。
「捕獲って。……熊でも出たんですかね」
世界でいちばん探されている男が、世界でいちばん他人事の顔をしていた。




