表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/24

第23話「氷の分析官、取材する」


 休暇3日目の朝は、味噌汁の湯気の向こうから始まった。


 駅裏の定食屋、カウンターの隅。3日も通えば、大将は何も聞かずに朝定食を出すようになる。眼鏡は今日も置いてきた。髪も下ろしたままだ。この3日で分かったことがある。彼は毎朝ほとんど同じ時間に現れ、同じ席で、まず味噌汁に手を付ける。食べ方は静かで、器は下げやすい形に重ねて返す。


「ねえちゃん、今日は箸が動いてるな」


「……ええ。味が、決まっているので」


 大将は鼻を鳴らして鍋に戻った。いつもの大男は来ていない。好都合だった。観測というものは、対象が増えるほど精度が落ちる。


 準備は済ませてある。一、名乗り。二、口実。三、質問票。口実は「清掃業界の労働環境調査」。半分は本当だ。調査であることに嘘はない。依頼主が私ひとりであることを、言わないだけで。


 午前6時40分、引き戸が開いた。白い粉をかぶった作業着。眠そうな会釈。観測記録の枠と、寸分違わない時間だった。


 青年が定食を半分ほど進めたのを見計らい、盆ごと隣の丸椅子へ移る。


「相席、失礼します。……フリーで調査の仕事をしております、氷室と申します。清掃業界の労働環境について、夜間勤務の方のお話を集めていまして」


「はあ」


「少しだけ、お時間よろしいですか」


 嘘は3割に抑えた。それでも湯呑みを持つ手が、練習のときより重い。5年間、相手にしてきたのは数字だけだ。聞き込みの才能は、履歴書のどこにも書いていない。


 青年は箸を止めて、少し考えた。


「……うち、たしか取材お断りなんですけど。会社じゃなく、業界の話なら」


「業界の話です」


「なら、食べながらでよければ」


 拍子抜けするほど、あっさり通った。名刺を求められたら鞄を漁る芝居まで用意していたのに、出番がなかった。


「勤務は、何時から何時まで」

「1時から5時です。休憩は3時に15分。うち、労基はちゃんとしてるので」


 ペン先が、一瞬止まった。39件の記録から絞り出したあの枠が、本人の口で答え合わせされていく。――まだだ。仮説は、確かめるまで裏返しておけ。


「お休みは」

「週休2日です。祝日もちゃんと休みですよ、うちは」


 カレンダーの黒塗りが、また1枚めくれた。


「この仕事は、長いんですか」

「ひと月半、くらいですかね。前は……別のところで、雑用を。いまのほうが、性に合ってます」


 最初の消失記録の日付と、突き合わせるまでもなかった。それより「雑用」の前の短い間のほうが、耳に残った。履歴の空白は突かない。取材の礼儀だ。……礼儀というより、私が突かれたくない側の人間なだけだが。


「時給は、差し支えなければ」

「1,250円です。深夜割増込みで。……先月、50円上がりました」


 言ってから、青年は湯呑みで口元を隠した。耳が少し赤い。17か国が予算を積んで探している男の市場価格が、50円刻みで更新されている。この行を報告書に書いたら、上司はまず誤記を疑うだろう。


「安全対策の講習などは」

「所長が口頭で。『やばいと思ったら引き返せ』と。あとは毎晩、道具の点検です」

「……危険を感じたことは。その、夜のダンジョンで、怖いと思った経験などは」

「ヌメリが、しぶといときですかね」

「ヌメリ」

「油と魔素の混ざった汚れです。あれは手強い。普通のモップだと、繊維のほうが先に負けるので」


 そこからは、質問が要らなくなった。100円ショップのモップは柄の継ぎ目が弱点で、耐水テープを二重に巻けば寿命が3倍に伸びること。スポンジは高い1個より、安いのを切って使うほうが仕事になること。眠そうな目はそのままに、道具の話だけ早口になる。


 ――この人が。


 各国の分析官が寝ずに追いかけている観測史上最大の異常値が、100円のモップの改良点を、こんなに熱く。


 私の39枚の記録は、この早口を1行も予言していなかった。


 青年はあくびをひとつ噛み殺し、それから、ふと私を見た。


「……調査の人って、統計にも詳しいんですか」


「多少は」


「16歳の女の子が、見舞いでもらって困らない花の統計ってありますか。菊以外で」


 質問票のどこにもない質問だった。


「……切り花の購買調査なら、若年層の上位はガーベラ。次いで、かすみ草です。香りの強い花と花粉の落ちやすい花は、病室では避けるのが通例です」


「ガーベラ」


 青年は箸を置き、手帳ではなくレシートの裏にそれを書いた。思ったより、字が丁寧だった。


「妹さん、ですか」


「ええ、まあ。……花の好みが変わる年頃らしくて。去年と同じのを持っていったら、笑われたので」


 半分だけ開いて、すぐ閉まる引き出しだった。深追いはしない。私の調査項目に、家族欄はない。ないはずなのに、レシートの裏の4文字が妙に目に残った。


 質問票の最後の1問――《ファントム》をご存じですか――には、封をしたまま鞄へ戻ってもらった。今日のところは。


 店を出ると、駅までの方向が同じだった。取材の続きを口実に、隣を歩く。実際は、観察の続きだった。


 青年の歩き方は、変だ。歩幅は眠たげなのに、目だけが忙しい。視線はアーケードの継ぎ目に落ち、側溝の網をなぞる。それから傾いた立て看板を確かめて、先へ進んでいく。倒れていた誰かの自転車は、通りすがりに片手で起こされた。植え込みの空き缶は、いつの間にか彼のレジ袋の中にいた。


「……よく、拾うんですか」


「落ちてるので」


 それだけだった。理屈も美談も付いてこない。落ちているから、拾う。この人の世界はたぶん、その1行で回っている。


 信号待ちで、青年がこちらを見た。


「ちなみに、この辺の花屋が何時に開くかって、統計ありますか」


「統計ではなく記憶ですが。駅ビルの生花店なら、10時です」


「10時」


 またレシートの裏が出てきた。私の即答は、協会のどのデータベースよりも速かった。取材相手の買い物の役に立つ調査員が、世界に何人いるだろう。


 自転車を起こしたとき、彼の手が朝日の中に見えた。


 足が、止まりかけた。


 指の付け根に並んだ、固い盛り上がり。手のひらを横断する深い筋。指先はささくれて、絆創膏が2枚。爪は短く、輪郭だけが洗剤で白く抜けていた。道具を何万時間も握った人間の手だ。年数そのものが、皮膚に刻んである。


 知っている手だった。


 先輩の手が、そうだった。冬の観測小屋で、かじかむ指に息を吹きかけながら計器を拭いていた。数字の出どころを疑えと説教するたび、魔法瓶の珈琲を差し出してきた手は、いつも不格好だった。


 データは嘘をつきません。それが私の信条で、いまも変わらない。ただ、データには載らない項目がある。手の温度は、39枚のどこにも記録されていなかった。


 私は5年間、記録の中で人を探してきた。時刻で絞り、経路で絞り、汚染度で絞った。絞った先にいたのは、異常値でも英雄でもなく――妹の花に悩む、働く手をした人だった。


 息を、ひとつ整える。


 メモ帳を開いた。今日の頁に、数字はひとつも書かなかった。代わりに1行だけ。


 『手が、働く人の手だった』


 書いてから、頁を裏返した。この1行は、まだ誰にも渡さない。渡すための様式が、協会にはない。


「氷室さん。駅、そっちじゃないですよ」


「……ええ。いま行きます」


 駅前の電器屋の店頭で、並んだテレビが同じ画面を映していた。


 足が止まる。今度は、完全に。


 壇上に、ゼノギアの紋章。整列した幹部たち。中央のマイクの前で、王城巧が原稿を読み上げている。


『――正体不明の攻略者、通称ファントムについて。当クランは関係当局の承認のもと、大規模捕獲作戦の決行を発表いたします。作戦名は――』


 読み上げより先に、画面の下をテロップが走った。


 《グラビティ・ケージ》。決行は、3日後。


 定食の湯気で温まったはずの指先が、袖口から順に冷えていく。決行時刻は発表されなかった。だが、賭けてもいい。深夜だ。彼の、勤務時間帯だ。


 隣で、青年がのんきに画面を見上げていた。


「捕獲って。……熊でも出たんですかね」


 世界でいちばん探されている男が、世界でいちばん他人事の顔をしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
身内が逆鱗だと気付いたかな
早く、、、早く彼に幸運を。モヤモヤする。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ