第22話「最強の舌」
張り込みは、9夜目に入っていた。
業者用搬入ゲートの見える駐車場の隅。人類最強の現在地は、レンタカーの運転席である。助手席では、空き缶が山を作っていた。
読みは間違っていないはずだ。観測値は毎晩動く。幽霊は今夜もどこかの層を磨いて帰っている。なのに、ゲートを通る瞬間だけが拾えない。第七の搬入口が1か所じゃないと知ったのが3夜目。業者の車が毎晩何十台も出入りすると知ったのが5夜目。深夜の職場ってのは、思ったより賑やかだった。全部を追い回したら、不審者は俺のほうだ。
おまけに、分析官どのは休暇中ときた。理由は私用だそうだ。あの人が数字より私用を取るとは、明日は槍でも降るらしい。データの読めない張り込みは、餌をつけない釣りと同じだった。
電話が震える。葛西だ。
「レイジさん、今朝の対談ですが……」
「飛ばせ」
「今月、それしか聞いてません!」
「代わりに出とけ。おまえのほうが喋りがうめえ」
切った。悪いとは思っている。思っているだけだが。世間話の相手より、いま大事な取材相手がいる。なにせ4分差で逃げた前科持ちの大物だ。
で――9度目の空振りの、帰り道である。
駅裏の路地で、足が止まった。湯気の匂いがする。見れば、古い暖簾が出たばかりだった。この一角には覚えがある。熊の事務所のある並びだ。考えるより先に、腹の虫が返事をした。
「やってるよ。入んな」
大将は俺の顔を一瞥して、一言だけ寄越した。
「でけえ客だな。奥へ詰めてくれ」
それだけだった。テレビで百回は流れた面のはずだが、この店の朝には、ニュースより味噌汁のほうが偉いらしい。……いいね。10年ぶりに、俺はただの腹の減った客だった。
「朝定食、飯は多めだ。あと、握り飯はできるか」
「できるよ。塩だけの、素っ気ねえやつだがな」
盆が来た。飯が峠みたいに盛ってある。まず豚汁をすすった。うめえ。出汁の底が、ちゃんと立っている。
「大将、豚汁がうめえな」
「今週はな、味が決まってんだ」
自慢なのか報告なのか、分からない言い方だった。それから皿の端の塩むすびを、ひと口。
止まった。
知っている。この塩を、俺の舌は知っている。米の甘さの一歩手前で止まる塩加減。徹夜の体の輪郭まで、染みてくるやつ。――エレベーターの、あの朝の味だ。
「大将。この握り飯、誰の仕事だ」
「深夜バイトの兄ちゃんの差し入れさ。うまかったんでな、賄い用に塩加減だけ教わった。なんでも、塩は指三本ぶん、だと」
指三本。
はっ、と息が漏れた。世間が狭いんじゃない。うまい飯ってのは、一か所に集まるんだ。飯の兄ちゃん、ここの常連か。駅裏、清掃会社、深夜バイト。頭の隅で何かが瞬いたが、深夜バイトなんぞこの街に何万人もいる。数字にすりゃ日常だ。それより、目の前の2個目だ。
「その兄ちゃん、何時に来る」
「決まっちゃいねえよ。夜勤明けに、ふらっとだ」
「そうか。なら通うしかねえな」
幽霊も気になるが、この飯も捨てがたい。
味噌汁を飲み干して、決めた。張り込みの上がりは、この店で締める。空振りの供養にも、燃料の補給にもなる。それに通っていれば、あの兄ちゃんにまた会える。塩むすび2個ぶんの借りが、まだ返せていなかった。
――常連への道は、早かった。
二日で大将は俺の飯の量を覚え、三日目には「いつもの」が通った。常連の爺さんがひとり、どっかで見た顔だなと首をひねった。よく言われる、と返しておいた。嘘じゃない。ここでは色紙もカメラも出てこない。出てくるのは飯と、たまの説教と、断れない縁台将棋だけだ。ちなみに将棋は負けた。世界ランクってのは、この店では効かねえらしい。10年かけて世界に覚えさせた名前より、三日の食いっぷりのほうが信用になる。
その三日目の朝だった。引き戸が開いて、白い粉をかぶった作業着が入ってきた。
「おう、飯の兄ちゃん」
「……引っ越し屋さん」
兄ちゃんは二度見してから、隣に鞄を下ろした。
「お知り合いかい」と大将。
「飯の恩人だ」と俺。
「通路の恩人です」と兄ちゃん。
話が見えねえよ、と大将は鍋に戻っていった。
「行動範囲、広いですね」
「飯のためなら通う。それより探し人だがな、ゆうべも振られた。これで9連敗だ」
「……筋金入りの夜逃げですね。追う側の朝飯がうまそうで、何よりです」
「はっ、違えねえ」
盆がふたつ並ぶ。俺は大盛り100円増し。兄ちゃんは大盛り無料。スタンプの差だそうだ。世界ランクより厳格な番付が、この店にはあった。
「兄ちゃんも夜通しか」
「ええ。昨日の現場が、その……広くて」
「どこも人手不足だな」
「時給分は働きます」
「そういや、例の塩。妹さんに礼を言っといてくれ。あれから世話になりっぱなしだ」
「もう報告済みです。『当然です』と。……三日ほど、自慢が止まりませんでした」
「いい妹じゃねえか」
「ええ、まあ」
兄ちゃんは味噌汁に口をつけて、それきり黙って食い始めた。俺も食った。カウンターには、箸の音だけが並んだ。
妙なもんだ。10年分の勝ち星より、この定食のほうが体に残る気がする。頂点ってのは、行けば分かるが、飯のうまい場所じゃない。空気は薄い。拍手はうるさい。隣の席は、いつも空いている。飯がうまくなるのは、こういうカウンターの丸椅子の上だ。湯気の向こうに大将がいて、隣で誰かが同じ豚汁をすすっている。10年前の俺に教えてやりたいが、あの頃の俺は聞かねえだろうな。
強えやつの顔は、まだ拝めていない。ただ、探しながら食う飯がこれだけうまいなら――この追いかけっこも、悪くねえ。
「ごちそうさん。大将、明日もいつもので」
「毎度どうも、ってこった」
――その朝の、その店である。
カウンターのいちばん隅に、見慣れない客がひとりいた。
私服の女だ。眼鏡はなく、髪も下ろしている。湯呑みを両手で包んだまま、箸はほとんど進んでいない。動いているのは目だけだった。大盛りを平らげる大男と、粉をかぶった作業着の青年。ふたりの朝飯を、湯気の向こうから静かに追っている。
注文した朝定食は、とっくに冷め始めていた。それでも彼女は、席を立たなかった。
膝の上では、小さな手帳がそっと裏返された。
彼女の「取材」は、もう始まっている。




