第21話「街を守った夜」
駅裏の商店街に暖簾を出して、今年で41年になる。
定食屋の大将の一日は仕込みで始まり、締めの豚汁で終わる。その41年の勘が、三日前から同じことを言っていた。
――この街、どっかおかしい。
まず、米屋の柴犬だった。散歩のたびに排水溝へ吠える。飼い主が綱を引いても、四つ足を踏ん張って動かない。次に猫だ。商店街の顔だった三毛が、アーケードから消えて三日になる。鳩も減った。今朝など、電線に一羽もいなかった。
夜には、街灯が瞬き始めた。
「球じゃねえんだよなあ。配線でもねえ」
脚立の上で、電気屋の親父が首をひねる。調べても異常なし。異常がないのに瞬くのが一番の異常だろうと、大将は思う。
極めつけは、うちの豚汁だった。同じ水、同じ味噌、同じ手順。なのに昨日から、味の据わりが決まらない。41年、同じ鍋を見てきた舌だ。狂ったのは舌か、水か。
夜の客足も、心なしか薄い。勘のいい年寄りから順に、日が落ちると出歩かなくなっている気がする。
大将は暖簾を仕舞いながら、アーケードの天井を見上げた。
街灯が、また二度瞬いた。
――同じ夜、午後11時。ダンジョン協会・中央観測室。
オペレーター3年目の矢野は、旧区画第28層の水位グラフを睨んでいた。
赤い警戒線は、とうに画面の外だ。数値は臨界域。決壊予測は先週の時点で「3ヶ月後」だった。三日前の再計算で「2週間」になり、今日の夕方には「48時間以内」と出た。グラフの傾きは、見るたびに立ち上がっていく。
「課長、避難勧告の決裁は」
「回してる。……回してるが、判子があと5つ要る」
「48時間しかないんですよ」
「上は『確定前の公表はパニックを招く』とさ」
第28層の真上は、駅裏の商店街だ。魔素に色はなく、匂いもない。漏れ始めても、犬が吠えて街灯が瞬く程度で――そしてある朝、人が倒れ始める。
矢野は端末の隅で、そっとカレンダーを開いた。我ながら、祈るような手つきだった。
「……課長。今日、平日ですよね」
「月曜だ」
「幽霊の始業まで、あと2時間です」
課長は何も言わなかった。国家の観測機関が、正体不明の幽霊の出勤に望みを繋いでいる。報告書には、口が裂けても書けない夜だった。
――午前1時。旧区画・第28層。
転送の光が抜けた瞬間、長靴が沈んだ。
沼だ。
こないだの31層は湖だった。今夜のは、深さと粘りが違う。ヘッドライトを上げると、天井の岩盤に稲妻の形の亀裂が走っている。黒い靄が、そこへゆっくり吸い上げられていた。
上ということは、地上だ。
「うわ。……こないだのヌメリの、親玉ですね」
誰に言うでもなく、声が出た。
先週までなら、頭の電卓が先に動いた現場だ。手当は倍。深夜割増も付く。ところが今夜は、電卓が静かだった。代わりに、診察室で聞いた言葉が居座っている。地上への漏出。浴びた子供。8年前の、あの雨。
……この靄が上がった先じゃ、傘は役に立たない。
所長の指示は今夜も「やばいと思ったら引き返せ」だ。あいにく、適用の予定はない。
方針はいつも通り。上から下へ、奥から手前へ。基本に従うなら最初に拭くのは天井――つまり、漏れ口だ。都合がいい。掃除の基本というのは、たぶんこういう夜のためにある。
壁の岩を伝って登り、亀裂に手のひらを当てた。
【クリーンアップ】。
吸われていた靄が、根元から白い湯気に変わる。亀裂の奥に詰まった汚れを、奥へ奥へと拭き上げていく。指先から根こそぎ持っていかれる例の感覚が、今夜は最初から来た。構わず、こする。漏れ口の掃除を後回しにする掃除屋はいない。
天井が済んだら、あとは沼だ。
端から剥がして、元を断つ。ヌメリの鉄則は親玉が相手でも変わらない。モップを入れる。黒が引く。入れる。引く。水際が退くたび、下から石畳が現れた。31層より目地の汚れが深い。年季の違いというやつだ。
午前3時。塩むすびの時間だが、握り飯は胸元に入れたままにした。沼の中心の脈が、さっきから速い。飯と決壊なら、決壊が先だ。
中心に残ったのは、家一軒ぶんのヘドロだった。脈を打つたび、塞ぎたての天井の亀裂がミシリと鳴く。
二度がけ。薄くなる。
三度がけ。腕ごと浚われる。
四度がけの途中で、膝が一度落ちた。
……立つ。
時給の話じゃない。手当の話でもない。この天井の上に、誰かの家がある。誰かの妹が、寝ている。
五度目で、脈が止まった。
六度目で、親玉は白い湯気になって消えた。
午前4時50分。磨き上がった石畳の真ん中で、ようやく握り飯を開けた。天井の亀裂は、ただの岩の皺に戻っている。靄はない。滴もない。
いい部屋になった。
握り飯の塩が、今夜はやけに沁みる。過去いちばん重い現場だった。指先の感覚がまだ薄い。ついでに、頭の棚がひとつ軽くなった気がする。何を置いていた棚かは、思い出せなかった。
……寝れば、戻る。
午前6時、観測室。
矢野は水位グラフの終点を三度見した。臨界域から検出限界以下へ、ほとんど垂直の崖。3系統を照合した。故障ではない。48時間後に街を呑むはずだった沼は、一晩でこの世から消えていた。
「課長、出ました。……今夜も定時内です。1時から、5時前」
「……そうか」
課長は椅子に沈んで、天井へ長い息を吐いた。机の上では、書きかけの避難勧告の稟議書が、ただの紙の束に戻っていた。
同じ朝、商店街。
米屋の柴犬は店先で腹を出して寝ていた。電線には鳩が並び、三毛猫は看板の上で欠伸をしている。街灯の点検に来た電気屋の親父は、脚立を担いだまま拍子抜けの顔で言った。
「なんだ、何もなかったな」
誰も知らない。知らないまま、シャッターが順番に開いていく。街は今日も、通常営業だった。
――午前6時半。駅裏の定食屋。
暖簾はまだ出ていなかった。引き戸に手をかけると、中から仕込みの湯気と大将の声がした。
「やってるよ。入んな」
カウンターに座って、朝定食を頼んだ。頼んだのは、それだけだった。
出てきた盆の上で、飯が山になっていた。豚汁は具が縁を越えている。頼んでいない小鉢まで、一品付いてきた。きんぴらだ。
「……大将。俺、普通盛りって言いましたよ」
「兄ちゃん、いつもお疲れさん。――大盛りにしといたよ」
「大盛りの無料と、話が別のやつが載ってます」
「うるせえな。毎度どうも、ってこった」
大将はそれきり鍋に向き直った。粉まみれの作業着に何を見たのかは、聞かない。聞かないのが、この店の値段のうちなんだろう。
箸を取って、豚汁をすすった。
……うまい。うまくて、どこかで知っている味だった。ずっと昔、誰かがよそってくれた椀の味に似ている。
思い出そうとして、やめた。頭の棚は、まだひとつ軽いままだ。寝れば戻る。戻らなくても、この味は今ここにある。
飯を、かき込む。
「今朝の豚汁はな、久しぶりに味が決まった」
大将が背中で言った。そうですか、と俺は答えた。水でも変わったんですかね、とは言わなかった。夜勤明けの頭は、余計なことを喋らないに限る。
窓の外では、救われたことを知らない街が、いつも通りの朝を始めていた。
それでいい。汚れは落ちた。犬は寝てる。豚汁はうまい。夜勤明けの世界としては、ほとんど満点だった。
――この数日後。
同じ暖簾を、腹を空かせた人類最強がくぐることになる。
それはまだ、誰も知らない話だった。




