第20話「病の正体」
昼下がりの外来は、消毒液と眠気の匂いがする。
夜勤明けの体に、この明るさは少し眩しい。待合の長椅子で番号を待ちながら、俺は今月の請求書を頭の中で三つ折りにした。治療費、家賃、光熱費。二層体制の給料で、どうにか背表紙の揃う並びだ。
番号が呼ばれた。月に一度の、経過説明の日だった。
診察室の椅子は、今日も低い。座ると先生を見上げる角度になるのも、8か月前から変わらない。変わったのは机のファイルの厚みと、俺の頭の中の電卓の速さくらいだ。
「抑制剤は、効いています」
先生はモニターをこちらへ向けた。見覚えのある折れ線が1本だけ映っている。3週間前に崖だった坂が、崖の途中で踏みとどまっていた。
「魔素値の上昇は、ほぼ止まりました。数値だけ見れば、想定より良い経過です」
「……そうですか」
吐いた息が、思ったより長くなった。月40万の薬は、値段の分だけ仕事をしているらしい。うちの家計で一番の稼ぎ頭だ。雇い主としては、労いのひとつも言ってやりたい。
「ただし、止まっただけです。蓄積した魔素が減ったわけではありません。治療は年単位の長期戦になります。――ここまでで、ご質問は」
いつもなら「ありません」で終わる場面だ。この部屋で俺が8か月聞いてきたのは、支払いの段取りと、次の検査日のことだけだった。
金の勘定ばかりで、汚れの正体を聞いていない。掃除屋として、初歩の手抜かりだ。
「……先生。ひとつ、いいですか」
「どうぞ」
「この病気は、そもそも――どこから来たんですか」
先生は少しだけ間を置いた。ファイルを閉じて、別の画面を呼び出す。日本地図の上に、色のついた点が散っていた。
「魔素症候群の登録患者数です。現在、全国におよそ4,000人。毎年、増え続けています」
4,000。数字は癖で、頭の中の電卓に流れかけた。ひとりに月40万なら――やめた。今日の電卓は、金の話じゃない。
「患者には共通項があります。全員が、10代から20代前半。――約10年前に始まったダンジョン大量発生期に、幼少期を過ごした世代です」
先生の声は、教科書を読む速さのまま続く。
「発生期の初期、隔離の技術はまだ未完成でした。各地で高濃度の魔素が地上へ漏出しています。大人は代謝で排出できました。ですが、成長期前の子供は違う。骨や臓器の成長に、魔素をそのまま取り込んでしまうんです」
「……取り込んだものは」
「体の奥に残ります。時限装置のように眠って、成長期に――発症します」
「発症する前に、分かるものなんですか」
「分かりませんでした。少なくとも、8年前までは。いまは被曝歴のある子供に定期検査を勧めていますが――発症してから分かる例が、大半です」
時限装置、と先生は言った。俺の語彙で言えば、染み込んだ汚れだ。表面はきれいに見えて、素材の奥で年単位で進む。落とすなら早いほどいい――いや。この汚れは、とっくの昔に染みていた。
「ひよりさんのカルテにも、被曝の推定時期が記録されています」
先生がページをめくって、日付を読み上げる。
読み上げてもらう必要は、なかった。その日付なら、体のほうが覚えている。
雨。体育館。最後まで呼ばれなかった名字。
――8年前の、あの災害の日だ。
「発生期の末期に起きた、観測史上最大の漏出事故です。ひよりさんの被曝は、この日で間違いないかと」
あの日に持っていかれたのは、両親だけだと思っていた。8年間、そう思って帳簿を締めてきた。……締まっていなかった。あの日の雨は、まだ妹の体の中に降り続いている。
膝の上で、手のひらを一度開いて閉じた。診察室で拳は、行儀が悪い。
「……治療を続ければ、抜けるんですか。その、染み込んだぶんは」
「抑え込むことは、できます」
先生はそこで初めて、モニターから目を離した。
「ただ、根本の話をすれば――魔素の根源は、ダンジョン最深部の『核』です。あれが存在する限り、漏出は続きます。濃度は下がっても、ゼロにはならない。患者はこれからも、増え続けるでしょう」
それから先生は、事務連絡と同じ調子で付け足した。
「我々のやっていることは、蛇口の開いた床を拭き続けるようなものですよ」
何気ない言い方だった。たぶん、学会の廊下で百回は使われてきた種類の愚痴だ。
ただ、こっちは床を拭く側の人間だった。その譬えだけが、胸の妙な場所に引っかかって取れなかった。
「――先生。その『核』というのは」
「最深部です。人類はまだ、誰も到達したことがありません」
先生はファイルを閉じた。診察は、それで終わりだった。
402号室のドアを開けると、ひよりはベッドの上で雑誌を広げていた。
「あ、お兄ちゃん。先生とのお話、長かったね」
「経過は順調だとさ」
「知ってる。私の体だもん」
点滴は2本のまま。ただ、頬の管は昨日から外れている。白いなりに、顔には血の気が戻ってきた。月40万の稼ぎ頭は、現場でもいい仕事をしているらしい。
「ね、それより聞いて。リストの2番なんだけど」
サイドテーブルのメモ帳が、こっちへ向けて開いてあった。例の「退院したら」リストだ。2番、お兄ちゃんの職場見学。
「先生がね、順調なら外泊の練習もそのうち、って。だから予約です。私、職場見学の予約をします」
「……夜勤だぞ。見るもんも、ない」
「洗剤の匂いの元が見たいの。あと、熊の所長さん」
「熊は日勤だ」
「じゃあ昼に行く」
「見学は家族でも手続きが要るんだぞ、たぶん」
「たぶんって言った。いま絶対てきとう言った」
逃げ道がひとつずつ塞がれていく。俺は「所長に聞いとく」で白旗を上げた。深夜のダンジョンです、とは言わない。言えば、この部屋のモニターの波形が乱れる。嘘の在庫は、まだ切らしていない。
薬の時間が来ると、ひよりのまぶたはすぐに下がり始めた。
「……退院したら、の続き。まだ、いっぱいあるからね」
「はいはい」
「はいは1回……」
取り締まりの語尾が、途中から寝息に変わった。16年目の常連への、いつもの巡回だ。罰金はまだ払ったことがない。
俺は丸椅子に座ったまま、しばらく寝顔を見ていた。
細い手首に貼られた、点滴のテープの白さが目につく。その皮膚の下の見えない場所に、8年前の雨が染みている。俺が毎晩落としているのと、同じ成分の汚れが。
……知らなかった、で済ませていい話か。8年間、俺は妹の病気を「不運」の棚に放り込んでいた。名前のない災害。誰のせいでもない何か。そういう棚だ。
違った。出どころには、ちゃんと場所があった。
帰り際、鉢植えの土を確かめた。乾いている。水をやりながら、ふと両親の顔を思い出そうとした。
出てきたのは、仏壇の写真と同じ構図だけだった。笑うときの癖とか、声の高さとか。細かいところが、うまく像を結ばない。
……夜勤続きだからな。寝れば、戻る。
そういうことにして、病室のドアを静かに閉めた。
その夜、出勤のバスをひとつ手前で降りた。歩きたい気分、というやつを8年ぶりにやった。
歩く先で、湾岸の空が薄く光っている。第一管理区の隔離壁が、夜を灰色に区切っていた。管制塔の赤い灯が等間隔で明滅して、壁の内側では今夜も、世界中の探索者が地下へ潜っているはずだ。
俺にとっては、毎晩通う夜の職場だ。時給と手当の出どころで、それ以上でも以下でもなかった。
今夜は、少し違って見えた。
あの壁の奥の、そのまた奥――誰も届いたことのない最深部で、蛇口がひとつ開きっぱなしになっている。8年前の雨の出どころ。両親の命日の出どころ。妹の点滴の、2本目の出どころ。
……お前だったのか。
声には出さなかった。名指しで呼んでやるほどの相手だと、認めるのもしゃくだった。
俺は掃除屋で、あそこは職場だ。それは明日の夜も変わらない。変わらないが――頭の中の帳簿の備考欄に、一行だけ書き足すことにした。
あの職場の一番奥に、諸悪の元栓がある。
いつか誰かが、締めに行くしかない。そして現場の経験で言えば、蛇口を締める役は大抵――床を拭いてる奴に、回ってくる。
管制塔の赤い灯が、瞬きもせずにこっちを見返していた。俺は視線を切って、搬入ゲートへ歩き出す。今夜も現場は汚れている。それだけは、いつも通りの話だ。
翌週の月曜。出勤すると、事務所の壁に新しい清掃計画表が貼り出されていた。
俺の欄の先頭に、見慣れない赤い印が付いている。協会発注の、特別依頼。所長が判子を片手に、顎で計画表を指した。
「協会からのご指名だ。断ってもいい仕事だぞ」
「行きます。……手当、付きますか」
「倍だ。――無理はするなよ」
「無理と残業の区別は、つけてます」
依頼内容の欄には、こうあった。
『第28層・魔素だまり清掃/地上漏出の恐れあり・最優先』
――地上漏出。
先週、診察室で覚えたばかりの言葉が。もう、仕事になって降ってきた。




