第19話「データは嘘をつかない」
金曜、午後11時。記録分析室に残っているのは私と、空調の低い唸りだけになった。
照明を半分落として、机に紙の束を広げる。この1か月の階層消失記録、全39件。今朝、初めて紙に刷った。画面の数字は流れていくが、紙の数字は逃げない。逃がさないための、紙だった。
三日前の夜に書き足した、あの裏返しのメモ。今夜はあれを、一枚ずつ検算する。
手順は決めてある。一、時刻。二、場所。三、順序。四、空白。条件を重ねて、最後に残った形を見る。データは説得するものではない。絞るものだ。
まず、時刻。
39件の発生時刻を数直線に落とす。最初の消失はどの夜も、午前1時前後に始まる。最後の消失が5時を跨いだ例は、一度もない。報告書に書いてきた「0時から5時」の観測帯の内側に、もうひとつ硬い枠があった。
比較のために、上位探索者の行動記録を重ねてみた。攻略時刻は見事にばらばらだ。人間は気分で動く。気分で動かないのは、機械と勤務表だけだった。
災害に始業時刻はない。天才の気まぐれに終業時刻はない。この枠には、両方ある。実働はおよそ4時間。深夜勤務のシフトとしては、むしろ健全な部類だ。観測史上最大の謎が、働き方だけは健全だった。
次に、場所。
消失の起点になった区画を、各層の図面に赤で打つ。39個の赤点は、きれいに偏っていた。すべてが業者用搬入ゲートの近傍に落ちる。探索者用の正面ゲート側から始まった例は、ゼロ。
最短の攻略路は正面から延びる。物流の動線は、搬入口から延びる。赤点が選んでいるのは、後者だった。搬入ゲートは保守区分の通行パスでしか開かない。あの聞き込みの日、熊のような所長も認めていた。ゲート周りを拭くのに要る、と。
正面ゲートには連夜、報道の中継車が張り付いている。搬入口には誰もいない。世界中のカメラは、正しい建物の間違った入り口で出待ちをしている。
三つ目、順序。
ここで手が止まった。先月の第9夜。危険度S指定の層が手つかずのまま、隣の危険度Cの層が先に消えている。攻略の鉄則は脅威の排除からで、この順番に戦略上の説明はつかない。
試しに、危険度の欄を紙で隠した。代わりに、魔素汚染度の欄を並べる。
――揃った。
39件すべて、汚染度の高い順。危険かどうかは見ていない。汚れているかどうかだけを見ている。攻略者なら脅威から潰す。指揮官なら退路から固める。この赤点の主は――汚い場所から、拭いている。
最後に、空白。
カレンダーの、消失がなかった夜を黒く塗る。この1か月で9日。並びは毎週きっちり2日で、第3月曜だけが余分に黒い。祝日だ。
……災害は、祝日に休まない。
念のため、人間以外の説明も潰しておいた。気象データを照合する。相関は出ない。魔素潮汐の周期も外れた。大規模イベントの日程まで当たって、空振りに終わった。残ったのは、いちばん人間くさい説明だけだった。
ペンを置いて、導かれた条件文を口の中で読み上げる。深夜1時から5時に働く。搬入口から出入りする。汚い順に片付ける。週休2日で、祝日は休む。
「…………ファントムは、シフト制で働いている」
言い終える前に、喉の奥で変な音が鳴った。慌てて手の甲を口に当てる。
笑うところではない。17か国がこの相手に国家の威信を懸けている。私はこれまで、あらゆる仮説を検討してきた。国家の秘密部隊。未知の上位存在。観測網の集団誤作動。――「週休2日の勤め人」という仮説だけは、どの会議でも誰ひとり口にしなかった。報告書の題名まで浮かんでしまった。『労務管理された災害について』。協会史上、確実に前例のない題名だ。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しくて、どこにも矛盾がない。
データは嘘をつきません。入職からずっとこの信条でやってきて、今夜ほどこの条文を恨んだ夜はなかった。
背後で、台車の車輪が鳴った。
振り返ると、ビルの清掃の方がゴミ箱を替えに入ってくるところだった。毎晩この時間に来る。知っていたはずなのに、顔を見たのは初めてだった。
「遅くまでご苦労さまです」
「……お疲れさまです。いつも、ありがとうございます」
語尾が少し崩れた。清掃の方は目を丸くして会釈を返し、次の部屋へ消えていく。あの人の名前を、私は知らない。この建物に何年も通って、一度も知ろうとしなかった。
毎晩決まった時間に現れ、汚れた場所を綺麗にする。誰の記憶にも残らず、朝が来る前に消える。
――ファントムの定義と、一字も違わない。世界中が探している幽霊と、世界中が毎日すれ違っている。
笑いの名残が、すっと引いた。
引いたあとの静かな場所に、古い書類の感触が浮かぶ。5年前の事故報告書。表紙を入れて、たった3枚。
まだ観測研修生だった頃の、指導係の先輩だった。データの読み方も、メモの取り方も、あの人に習った。浅層の観測小屋は冬場、底冷えがした。あの人は魔法瓶の珈琲を半分こちらに注いでから、いつも同じ説教を始めた。数字を疑うな。数字の出どころを疑え。仮説は、確かめるまで裏返しておけ。――メモを裏返す私の癖は、あの人の癖の写しだ。
先輩は浅層の定点観測中に倒れた。危険度C。誰もが安全と呼ぶ層だった。死因は、残留魔素の中毒。報告書の結論の欄には一行だけ、こうあった。
『清掃不備による残留魔素の滞留。管理上の過失は認められない』
清掃不備。誰の名前もない、4文字だった。翌月に下請けの業者が替わり、報告書は3枚で閉じられた。私の書いた異議の意見書には、受理番号すら付かなかった。
あのとき掃除がされていれば、先輩は死んでいない。
その4文字を5年抱えてきた私がいま追っている相手は、誰に頼まれたわけでもなく――汚い順に、世界を掃除して回っている。
息を、ひとつ吐いた。
これは職務だ。異常記録の解明は分析官の本分で、報告書の様式も頭に入っている。入っているが……この推論を上に出したら、どうなる。「清掃不備」の4文字で人ひとりを葬った組織だ。今度は逆向きに、あの眠そうな人を「資産」の2文字で葬りかねない。
紙の束を揃えて、私物のロッカーに仕舞った。鍵は二重に確かめる。報告書はまだ書かない。書けない、ではない。書かない、だ。
机にはメモが1枚だけ残った。裏返したままの、あのページだ。
表に返す。深夜帯。清掃会社。眠そうな会釈。並んだ文字の下に、行き先をひとつ書き足した。駅裏の雑居ビル、3階。
それから引き出しを開けて、休暇届の用紙を取る。理由の欄には、前と同じ2文字を書いた。私用。今度のは、前のより本当だ。
確かめていない仮説を上げないのは、先輩の教えだ。
「今度は職員としてじゃない。……一人の人間として、確かめに行く」
分析室の照明を落とす。廊下の先では清掃の台車が、次の部屋の前で静かに待っていた。




