第16話「深層残業」
胸ポケットの勤務表に、今夜の現場番号がある。52。人類の到達記録は、51で止まっているらしい。
つまりこの職場は、まだ誰も掃除したことがない。
道理で汚いわけだ。
転送ゲートを抜けた瞬間、埃と獣の匂いが鼻の奥を刺した。8年物の空き家がかわいく見える濃度だ。ヘッドライトの光が届く範囲、全部が手つかず。指先がうずうずするのは、たぶん職業病だと思う。
第52層の大広間は、天井まで蜘蛛の巣で塞がっていた。糸の一本一本が俺の腕より太い。奥では糸の主たちが、暗がりで赤い目をひしめかせている。作業表によれば、S級魔獣〈アビス・スパイダー〉の群生地。討伐推奨人数、60人。
巣があるということは、害虫がいるということだ。
「害虫駆除、始めます」
誰に言うでもなく宣言して、モップを構えた。手順は決めてある。一、換気。二、駆除。三、カビと水回り。四、床の仕上げ。上から下へ、奥から手前へ。掃除の基本は、地上でも深層でも変わらない。
【クリーンアップ】。
天井の巣が、端から白い光に解けていく。巣ごと払われた害虫たちは、鳴く間もなく消えた。年季の入った巣汚れが落ちる瞬間は、何度見てもいい。窓のない職場で唯一、朝日に似たものが拝める時間だ。
巣の跡には、乗用車ほどの抜け殻がいくつも残った。素材としてはS級だと聞いたが、ここは回収指定の区域外。持ち帰れない大物の扱いは、ひとつしかない。
粗大ゴミの日は、また来てしまった。
回収業者の人が見たら泣くだろうが、置いていくと巣が再発する。心の中で手を合わせて、まとめて浄化した。ゴミの分別に、例外はない。
二番目の区画は、床が見えないほど白い霧に沈んでいた。作業表の注意書きは〈死の霧・吸引即死級〉。
要するに、換気のできていない部屋だ。
空気の汚れは初歩も初歩だ。四隅に溜まった霧の「根」を拭き取ると、あとは勝手に晴れていった。所要5分。即死級と書いた人には悪いが、換気扇のない浴室のほうがまだ手強い。
三番目は当たりだった。黒い祭壇。壁一面に赤黒い染みが根を張っている。作業表いわく〈千年呪詛の祭壇・接触厳禁〉。
千年物のカビだった。
カビは根まで取らないと再発する。祭壇の芯に手のひらを当てて、根こそぎ浄化した。染みの引いた壁は、思いのほか白い。千年住み着いた汚れも、落ちてしまえば新品と同じだ。この部屋、意外といい石を使っている。
時計を見る。午前1時半。予定より40分早い。
――もう一層、行けるな。
深層の手当は階層ごとに出る。一晩で二層なら、実入りも二倍。単純で美しい計算だ。道具をまとめて、下り階段のゴミを拾いながら第53層へ降りた。
第53層は水場だった。黒く濁った地底湖から、骨だけの魚が矢のように飛んでくる。水質の汚染は少し手間だ。湖底に沈んだ「ヘドロ」を抜いて、源流ごと洗う。水が透けた頃には、飛んでくる魚も大人しくなっていた。汚れた水で育つと、ああいう気性になるらしい。
終わってみれば、午前4時40分。一晩で、二層。
……いける。このペースを「二層体制」と名付けることにした。名付けたのも俺なら、承認したのも俺だ。深層のいいところは、通行人がいないことだ。誰の邪魔にもならず、誰にも邪魔されない。仕事は、はかどる。
三日目の夜には、道具の並べ順まで最適化が済んだ。モップは右、洗剤は左、非常食の握り飯は胸元。深層ルーティンは日々進化している。改善提案書を出す先がないのが、唯一の不満だった。
週明けの朝、事務所で給与明細を受け取った。
基本給の欄はいつも通り。その下に、見慣れない行が三つ増えていた。深層手当。危険区域手当。緊急清掃手当。
合計欄の数字を二度読んだ。指で隠して、桁をひとつずつ数え直す。間違いない。先月の倍がある。
――よし。
誰も見ていないのを確かめて、小さく拳を握った。頭の中の電卓を叩き直す。256時間という絶望的な数字が、この三行でほとんど半分になった。残りの半分は、二層体制が埋める。40万の壁はまだ高い。ただ、見上げて首が痛い高さでは、なくなってきた。
ついでに、いちご貯金の欄も頭の中で更新しておく。駅ビルの果物屋の、粒の揃った生のやつ。この調子なら、隣に並んだ「特選」の札にも手が届く。
「灰崎」
所長が判子を置いて、こっちを見た。
「顔色は悪くねえな。飯は食ってるか」
「はい。現場で握り飯を」
「よし。……言っとくが、俺が気前いいわけじゃねえぞ。深いとこは協会の危険手当が乗る。それだけ危ねえって意味だ」
「掃除しやすい職場でしたよ。静かで」
「そういうことを言うんじゃねえよ」
所長は湯呑みに口をつけて、それきり計画表に戻った。俺は明細を三つ折りにして、胸ポケットにしまう。勤務表と同じ場所だ。うちの胸ポケットは最近、景気がいい。
――同じ週。ダンジョン協会・中央観測室。
オペレーター3年目の矢野は、椅子に座ったまま眠る技術を身につけつつあった。習得したくて習得する技術ではない。
午前3時12分、警報。第52層、魔素反応消失。
午前4時58分、警報。第53層、魔素反応消失。
一晩で、二層。
「課長ォ! また出ました! 二層です、今夜も二層消えました!」
「見りゃ分かる……見りゃ分かるんだよ……」
課長は先週から同じネクタイをしている。観測史上初の【単独完全攻略】が検知されて以来、この部屋の照明は一度も落ちていない。
最初の頃は、警報のたびに全員が跳ね起きた。国家災害級の観測イベントだからだ。今も跳ね起きる。そのうえで、書く報告書だけが三倍になった。
矢野の机には、栄養ドリンクの空き瓶が並んでいる。今週で12本目だ。どこかの誰かが一層片付けるたびに、こっちの寿命が縮む。割に合わない等価交換だった。
「第52層の推定攻略難度は」
「国連の合同作戦で3年、の試算です」
「それが」
「はい。今夜の……その、残業のような何かで、消えました。所要約4時間です」
矢野はモニターに並ぶ消失記録を見つめた。開始は深夜0時前後。終了は明け方5時まで。そして土日は、ぴたりと止まる。この規則正しさは何なのか。
「……課長。ファントムって、残業の概念があるんですかね」
「やめろ」
「だってこれ、どう見ても勤務シフトですよ。週休二日の」
「やめろって言ってんだろ……真実味があって笑えねえんだよ……」
部屋の隅では、立ったまま寝ていた同僚が二人、医務室へ運ばれていった。人類未踏の記録より先に、観測する側の人類が踏破されかけている。
その光景を、記録分析官の氷室紗雪は部屋の後ろから見ていた。
手元の端末には、この一か月の消失記録がすべて並んでいる。発生時刻。所要時間。曜日の偏り。
「……データは嘘をつきません」
規則正しすぎるのだ。災害でも、天才の気まぐれでもない。この波形に最も近いものを、彼女はひとつしか知らなかった。
勤怠記録、だ。
その仮説は、まだ手元のメモから出していない。
週末、観測室に別種の警報が鳴った。今度はダンジョンではない。通信室からだった。
「課長! 海外の観測機関から照会が来てます! 米国、EU、それから――合計17か国です!」
観測データは、国境を知らない。世界中の測定器が、同じ夜の同じ異常を見ている。
「文面はどこも同じです。『正体不明の単独攻略者について、情報共有を求む』――」
課長は天井を仰いだ。それから、ずり落ちた眼鏡を押し上げて言った。
「……残業だ」
海の向こうでは、17の国が同じ画面を睨んでいた。各国の滑走路では、外交官の顔をした人間を乗せた機体が、次々と車輪を上げ始めている。
行き先は、日本。
目当ては――名前も顔も知られていない、ひとりの深夜清掃員だった。




