第15話「40万円の壁」
夜間出入口の自動ドアは、開くのが遅かった。
守衛さんに名乗って、階段を2段飛ばしで上がる。エレベーターを待つ息が惜しかった。4階の廊下は消灯のままで、402号室の前だけが明るい。
白衣が2人、部屋を出入りしていた。ワゴンの車輪の音。モニターの電子音。消灯後の病棟で、そこだけが起きていた。
「灰崎さんのご家族ですね。数値は、いま落ち着き始めています」
夜勤の看護師さんは、電話と同じ声で言った。落ち着き「始めて」いる。始めている、は、まだ終わっていないという意味だ。8か月も通えば、それくらいの日本語は読める。
「先生からのご説明は、あらためて」
あらためて、が付く説明に、軽いものはない。それも8か月で覚えた。
ガラス越しに、ベッドが見えた。
ひよりは眠っていた。腕の点滴が、1本増えて2本になっている。頬には透明な細い管。名前も知らない道具が、妹の体に増えていく。俺の知らないところで、俺の落とせない汚れが進んでいる。
何か握るものを探して、手のひらが空だと気づいた。コンビニ袋は、あの坂のどこかに置いてきたらしい。中身は麦茶と、面会用のプリンだった。
朝の7時まで、廊下の長椅子にいた。眠らなかった。目を閉じると、モニターの音の数を見失いそうだった。
主治医の先生と話せたのは、昼前だった。
診察室の椅子は相変わらず低い。座ると、先生を見上げる形になる。8か月前と同じ部屋で同じ角度。違うのは、机の上のファイルの厚みだけだった。
「魔素値の急上昇は、いったん抑えられました。ただ――」
先生はモニターをこちらに向けた。折れ線が1本。ゆるやかな坂だったものが、昨夜の日付のところで崖になっていた。
「第二段階への進行が確認されました。蓄積した魔素が、臓器を侵し始めています」
侵食。掃除の言葉で言えば、沈着だ。表面の汚れは拭けば落ちる。沈着は素材そのものを傷めていく。放っておけば、二度と落ちない汚れになる。
「以前ご説明した新しい抑制剤ですが、状況が変わりました。即時に開始しなければ、進行を止められません」
「……『ゆっくり決めていい』ほうの話は」
「申し訳ありません。その段階は、昨夜で終わりました」
先生は事務的な人だ。8か月間ずっとそうだった。その先生が、数字より先に謝った。事態の説明としては、どんなグラフより正確だった。
「費用は月に40万。初回は検査分が乗ります。お支払いは月末締めで――」
はい、と俺は返事を重ねた。頭の中では電卓が走っていた。時給1,250円。深夜手当を乗せて1,562円。40万を割って、256時間。1日も休まず、毎晩8時間半。それでようやく治療費だけが埋まる。家賃と飯の欄は、白紙のままだ。
「ご家族と、よく相談を――」
「やります。手続き、進めてください」
電卓の答えなら出ていた。届かない、が答えだ。それでも返事を先に出した。方法はあとから探す。掃除と同じだ。落ちない汚れの前でも、まず雑巾は絞る。
同意書の署名欄に名前を書いた。ペン先が一度も止まらなかったことだけは、自慢してもいいと思う。
会計の窓口で、支払いの案内をもらった。月末締めの、翌10日払い。締め日と給料日のあいだに、川が1本流れていた。渡り方は、夜のうちに考える。
午後、ひよりが目を覚ました。
「……あれ。お兄ちゃん、今日は早いね」
「夜勤明けでな。道が、その、空いてた」
「ふうん」
顔色は白かった。唇の色が薄い。それでもこいつは、まず俺の顔色から確認する。俺が8か月かけて覚えた順番を、こいつは最初からやっている。
「なんか私、夜中に騒いじゃったんだって? 全然覚えてないんだけど」
「騒いだってほどじゃない。検査が増えただけだ」
「そっか。ならいいや」
嘘の在庫を、互いに1個ずつ使った。おあいこだ。
だから俺は、用意していた土産話を出した。プリンの代わりだ。
「そういえば昨日、夜勤明けに変な人に会った。熊谷所長より厚みがあるのに、握り飯2個で目の色が変わるんだ」
「え、何それ」
「お前の塩加減のやつだよ。指三本の。……うめえうめえって、鉄の箱の中で吠えてた」
「でしょ?」
ひよりは点滴ごと胸を張った。
「私の塩加減、世界一だから。その人、見る目あるなあ」
「握ったのは俺だけどな」
「監修だよ、監修。現場は任せる主義なの」
それからしばらく、自慢が止まらなかった。読み通りで何よりだ。横目でモニターを確かめたが、波形は素直なままだった。
「ね、お兄ちゃん。退院したら――おにぎり屋さんって、ありかなあ」
「……奇遇だな。昨日の朝、同じこと考えた」
「うそ。やっぱり兄妹だ」
「もとからだよ」
「お店の名前、考えとくね。退院したら、の続きだから」
薬の効いてくる時間らしい。まぶたが下がりきる前に、ひよりは律儀に手を振った。
俺は廊下に出て、自販機の前で少しのあいだ立っていた。何も買わなかった。買う金の使い道が、今日から全部決まったからだ。
夕方の事務所は、洗剤と茶葉の匂いがした。
熊谷所長は特注の椅子で、来週の清掃計画表に判を押していた。俺が戸口に立つと、顔も上げずに湯呑みをもうひとつ出した。
「座んな。ひでえ面だな」
「所長。お願いがあります」
俺は座らなかった。代わりに、頭を下げた。深く下げるのは面接の日以来だ。あの日は時給に下げた頭を、今日は別のものに下げる。
「夜勤、増やしてください。入れるだけ入れてください。……危険な現場でも、構いません」
湯呑みの置かれる音がした。それきり、事務所から音が消えた。顔を上げられないまま、俺は床板の木目を数えた。先週、俺が磨いた床だ。古いくせに、手入れの分だけ若い顔をしている。
「……理由は聞かん」
所長の声は、いつも通り短かった。
「確認だけだ。金か」
「はい。まとまった金が、毎月要ります」
「そうか」
紙をめくる音。清掃計画表の、来週の欄だ。
「高難度層は特別手当が出る。深けりゃ深いほどな。……ただし、無理はするな」
「します」
「灰崎」
「――しません。無理と残業の区別は、つけます」
「よし」
顔を上げると、所長はもう計画表に戻っていた。現場番号の欄に、見たことのない数字が並んでいく。壁の色褪せた集合写真が、その手元を見下ろしていた。
「体ァ壊したら掃除はできん。掃除ができなきゃ、金にもならん。順番を間違えるな」
「時給分は働きます」
「時給分で帰れ。手当の分は、俺が乗せる」
どんな判子より速い決裁だった。俺はもう一度だけ頭を下げて、階段を降りた。
消灯前の402号室に、もう一度寄った。
ひよりは眠っていた。点滴は2本のまま。モニターの波形は静かだった。夜勤の看護師さんが、5分だけ、と指を立てる。昨夜の電話の声の人だと、名札で分かった。頭を下げると、向こうも小さく下げ返した。
ベッド脇の丸椅子に座る。掛け布団から出た手に、自分の手を重ねた。細い手だ。世界一の塩加減の、監修者の手。管に触らないよう、握るのは指だけにした。
8年前の体育館で、俺はこの手を掴んだ。あの日の手は濡れていて、みっともなく震えていた。声だけ平らにするのが、15の俺の精一杯の嘘だった。
いまは、震えない。
いくら要るかを知っている。どこで稼ぐかを決めてある。明日の現場番号は、胸ポケットに入っている。震える理由を、8年かけてひとつずつ潰してきた。それだけの話だ。
「大丈夫。俺が何とかする」
同じ台詞を、今度は嘘じゃなくすために言う。
眠ったままの指が、わずかに握り返してきた。
5分きっかりで席を立った。ドアを閉める前に、鉢植えの土を確かめる。まだ湿っている。水やりは、明日でいい。
――胸ポケットの勤務表。明日からの現場番号は、これまでのどの数字よりも深い。
かくして深夜の清掃区域は、人類の観測が届く限界へ向かって沈んでいく。磨かれた床の記録が、世界中の測定器を振り切っていくことを。
俺はまだ、知らない。




