第14話「最強と清掃員」
のろのろ開いた扉は、閉まるのものろのろだった。貨物兼用の大箱は、動き出してからも年寄りの熊より遅い。
箱が上がるあいだ、俺は今夜の反省会をした。読みは当たった。入り口だけが外れた。次は保守系統の窓口とやらを朝イチで締め上げる。……いや、締め上げるのは駄目だ。書類相手に泣くのは俺のほうだと、今夜学んだばかりだった。
乗客は俺と、作業着の青年のふたりきり。青年は道具の詰まった鞄を足元に置き、コンビニ袋を提げたまま目を閉じかけている。器用なもんだ。箱の中には石鹸を煮詰めたような匂いが薄く満ちていた。悪くない。徹夜明けの鼻には、7本目の缶コーヒーより効く。
胸元の名札が、目に入った。
くまがいクリーンサービス。
……あの雑居ビルだ。3階の事務所。特注の幅の椅子に収まった熊と、鏡みたいに磨り減ったモップの柄。
「あんた、駅裏の――」
言いかけて、口を閉じた。頭の中で、分析官どのの声がしたからだ。保守区分の業者は毎晩あちこちのゲートを出入りする。登録業者だけで何十社。深夜の管理棟で清掃屋に会うのは、駅で駅員に会うようなものだ。
なんだ。数字にすりゃ、ただの日常か。疑い出したら、この街の清掃屋が全員幽霊になっちまう。
俺の勘は「駅裏で見た会社だ」で止まった。その先は、腹の虫が掻き消した。鉄の箱の中に、盛大に響き渡った。二度も鳴った。
青年が薄目を開ける。それからコンビニ袋を漁り、アルミホイルの包みをひとつ差し出してきた。
「……よかったら。予備です」
「いいのか」
「行き倒れられると、通路が塞がるので」
言い方はあれだが、くれるらしい。包みを剥くと、握り飯だった。海苔なし。具なし。ただの塩むすびだ。
ひと口齧って、俺は動きを止めた。
「……なんだこれ、うめえ……!」
「声、大きいです」
「塩だ。塩がうめえ。米の甘さの一歩手前で止まってやがる」
徹夜で軋んだ体に、輪郭まで染みていく。腹に物を入れたのはいつ以来だったか。張り込みってのは食う暇がないんじゃない。食う気を忘れるんだ。気づけば1個目が消えていた。2個目が無言で差し出され、俺は素直に受け取った。人類最強の胃袋が、名前も知らねえ兄ちゃんに養われている。誰にも見せられない図だった。
「これ、あんたが握ったのか」
「ええ。塩は指三本ぶん、だそうです。……妹が、うるさいんですよ。多くても少なくても、作り直しなので」
「いい妹じゃねえか」
「ええ、まあ」
青年はコンビニ袋の口を縛り直した。相槌は半端なくせに、目元だけがわずかに緩んでいた。
扉が開くと、地上の空が白く割れ始めていた。どちらからともなく、搬入口の縁に並んで座る。妙な成り行きだが、握り飯2個ぶんの義理はある。回収班を待つ時間は、どうせ余っていた。
「あんたも夜通しか」
「ええ。急に現場が変わって。……広いんですよ、今夜のところは。うちも人手不足で」
「清掃って、ダンジョンのか」
「ええ。通路のゴミ拾いです」
「……大変だな、それも」
「時給分は働きます」
はっ、いい台詞だ。うちの業界の若えのに聞かせてやりてえ。
「どこも人手不足だな。俺のところは道具も足も足りてるが、肝心の相手に会えねえ」
「探し物ですか」
「人だ。今朝なんか、4分差で振られた」
「4分」
「惜しいだろ」
「……その方、夜逃げの最中なんですか」
「はっ。違えねえ」
笑ってから、口が勝手に続きを喋った。分析官どのにも半分しか話していない中身だった。
「強えやつなんだ。たぶん、俺より。なのに戦った痕ひとつ残さねえで、他人に毛布なんぞかけて回ってやがる。……会って、顔が見てえ。用はそれだけなんだがな」
「はあ」
青年の相槌は、蕎麦湯みたいに薄い。だがこの10年、俺の話をこの薄さで聞いてくれたやつはいなかった。たいていは途中で色紙かカメラが出てくる。薄い相槌ってのは、案外うまいもんだな。
「妹さんってのは、家で待ってんのか」
「病院です。……長いんですけどね、もう」
「そうか」
詮索はしなかった。代わりに缶コーヒーの最後のひと口を飲み干した。指三本ぶんの塩は、病室で仕込まれた味ってことか。道理で、腹の底まで届くわけだ。
「あんた、俺を知らねえのか」
「……すみません。夜のテレビは、あまり見ないので。有名な方ですか」
「――引っ越し屋だ」
「ああ、道理で。力持ちそうだと思いました」
俺は残りの握り飯を口に放り込んだ。そうでもしないと、噴き出して米粒を飛ばすところだった。おやじさん、あんたの見立ては世間に通用してるぜ。
ホールの向こうに回収班の車両が滑り込んできた頃、青年が立ち上がった。鞄を担ぎ直し、軽く頭を下げてくる。
「ごちそうさまの、逆ですけど。……お仕事、頑張ってください。会えるといいですね、その人」
「おう。――またな、飯の兄ちゃん」
名前は聞かなかった。聞いちまったら、この妙な朝が事務手続きに変わる気がした。
遠ざかる背中を見送って、膝の米粒を摘む。今夜の収穫、空き缶7本。幽霊の人柄ひとつ。塩むすび2個。……はっ、悪くねえ夜だったじゃねえか。
回収班の若いのがこっちに気づいて、敬礼をしかけたのを片手で止めた。今はいい。口の中が、まだ少し塩の味だった。
――午前6時前。駅裏の坂道。
日報の備考欄には『お忘れ物・6名様、回収依頼済み』と書いておいた。所長は行も読まずに判を押した。何も聞かれなかったのが、妙に速い判だった。
道具を事務所に返して外へ出ると、街はまだ半分寝ていた。人のいない朝の道は、掃除のあとの床に似ている。静かで、まだ誰の足跡もついていない。
それにしても、変な人だった。
体の厚みは熊谷所長より上なのに、握り飯2個で目の色が変わって、人探しの話になると子供の顔になる。引っ越し屋というのも、たぶん違う。あの拳は段ボールじゃなく、もっと硬いものを相手に育った拳だ。装備リストを5年眺めてきた目は、そのくらいは見分ける。
まあ、いい。他人の事情は、他人の部屋だ。頼まれてもいないのに掃除はしない。
そういえば、あの人の探し相手も「他人に毛布をかけて回る」らしい。世の中には親切な人がいるものだ。俺も昨夜、通路で寝ていた探索者の皆さんに毛布をかけた。だがあれは会社の備品だし、業務の一環だ。関係はないだろう。
頭の中で電卓を叩く。現場変更の手当はつくんだろうか。ついたら、いちご貯金に上乗せだ。いちごは決めてある。駅ビルの果物屋の、粒の揃ったやつ。ゼリーじゃない、生のやつだ。
指三本、と言ってあいつが俺の手を取ったのは、まだ家の台所に立てた頃の話だ。以来、うちの塩は計量が要らない。塩むすびがあの大男に効いたことは、次の面会で報告しておこう。あいつは自分の塩加減を世界一だと信じている。しばらく自慢が止まらないはずだ。
退院したら、握り飯屋でもやろうかな――なんて言い出すかもしれない。それも悪くない。開店資金は、時給1,250円でこつこつ貯めればいい。
ポケットで、スマホが震えた。
病院の番号だった。
この時間に、鳴っていい番号じゃない。
坂の途中で足が止まる。画面の上で指が滑った。2度目で、ようやく通話になる。
「灰崎ひよりさんのご家族の携帯で、よろしいでしょうか。夜間対応の看護師です。……落ち着いて、お聞きください」
受話器の奥で、機械の警告音が規則正しく鳴っていた。消灯後の402号室で、鳴るはずのない音だ。
「ひよりさんの魔素値が、急上昇しています」
コンビニ袋が、手から滑り落ちた。
白み始めた坂を、俺は駆け出していた。




