第11話「誰も知らない救世」
定時を2時間過ぎた記録分析室で、氷室紗雪は第七ダンジョンの断面図と向き合っていた。
ファントムの「現場」に、赤いピンを立てていく。単独調査で洗い出した深夜の通過記録は、今夜で10本を超えた。
「なあ、まだ帰らねえのか」
「お帰りいただいて構いません」
「はっ。俺だけ帰ってどうすんだよ」
天海レイジは応接椅子を占領して、缶コーヒーの3本目を開けている。連絡係の一件以来、世界ランク1位は分析室の備品みたいな顔で居座るようになった。警備は誰も注意しない。この男と握手した警備員を、私は3人知っている。
端末に向き直り、検索の途中で指が止まった。
閲覧権限の縁に、見慣れない区分の文書が引っかかっている。
『特別観測対象・第七旧区画第31層/災害指定審査中・取扱注意』
開く。読む。読み終えて、最初からもう一度読んだ。
旧区画第31層に大規模な魔素だまりが形成されている。濃度は観測開始以来、上昇を継続。現在の推定水位は警戒基準の12倍。決壊予測は約3ヶ月後。決壊時の流出範囲は、地上の周辺三区。避難計画は策定中。公表時期は――未定。
紗雪は眼鏡を外して、目頭を押さえた。
三ヶ月後、街が三つ呑まれるかもしれない。その予測が「未定」の二文字と並んで、権限の奥で眠っている。
「おい。ひでえ顔してんぞ」
「……いつも通りです」
データは嘘をつかない。ただ、金庫の中のデータは誰も救わない。
――同じ夜、午前0時。
旧区画のゲートは、現役のやつより年季が入っていた。転送の光まで、心なしか黄ばんで見える。
第31層に降りた瞬間、長靴の底がぬるりと滑った。
ヘッドライトを一周させて、納得した。
湖だ。
黒い水面が、光の届く限り広がっている。天井からは粘つく滴がひっきりなしに落ちて、波紋の代わりに靄を立てていた。空気は饐えて甘ったるい。息を吸うたび、喉の奥に膜が張る。
指示書には『魔素だまり・除去』とある。所長は「街ごと呑みかねん」と言っていた。確かに、放っておけば溢れそうな溜まり方ではある。
俺は水際にしゃがんで、指先でなぞってみた。ぬめる。糸を引く。台所で毎晩会うやつの、親玉みたいな手触りだった。
「……なんだ。排水口のヌメリみたいなもんですね」
やばいと思ったら引き返せ、が所長の指示だ。あいにく、ヌメリをやばいと思ったことは一度もない。しつこいとは思う。毎回。
方針を立てる。ヌメリの鉄則は「端から剥がして、元を断つ」。水際から面積を削り、最後に発生源を落とす。風呂場のカビ取りと同じ工程で、規模だけが桁違いなのだった。
スプレーを構えて、【クリーンアップ】を開ける。
モップを入れる。黒が引く。入れる。引く。水位が下がるというより、汚れが最初からなかったことになっていく。水際が1メートル退くたび、下から石畳が現れた。存外いい床だ。長年ヌメリの下敷きだったにしては、上等な仕事をしている。
午前3時、中間の飯。塩むすび2個。湖はもう、水たまりのサイズまで退いていた。
最後に残ったのは、中心の一塊だった。人の背丈ほどのヘドロが、心臓みたいに脈を打っている。近づくと、頭の中に低い水音めいたものが流れ込んできた。こいつが元栓だ。延々と汚れを吐き続けている、大元の詰まり。
二度がけして、こする。薄くなる。三度がけの途中で、指先から根こそぎ持っていかれる例の感覚が来た。今夜のは過去いちばん重い。腕ごと浚われる感じがする。……まあ、汚れの規模を思えば妥当な疲労だろう。
四度目で、脈が止まった。
五度目で、塊は白い湯気になって消えた。
午前5時。フロアの中央に立って、磨きたての石畳を見渡す。天井の滴は止まり、甘ったるさの代わりに洗剤の香りが薄く漂っていた。
いい部屋になった。
鼻歌でも歌おうとして、サビの続きが出てこなかった。ど忘れだ。最近多いな。帰ったら、ちゃんと寝よう。
――翌朝、午前9時。協会の観測フロアは、蜂の巣を四度目に突かれた顔ぶれで溢れていた。
31層の値を確認しろ。当直は誰だ。機器点検はどうなっている。廊下を走る声を背中に、紗雪はモニターの数字を見つめていた。
旧区画第31層・魔素濃度。昨日18時、警戒基準の12倍。今朝6時、検出限界以下。
グラフは崖だった。ほとんど垂直に、ゼロへ落ちている。3系統の観測を照合した。故障ではない。三ヶ月後に街を呑むはずだった湖は、一晩でこの世から消えていた。
観測部長は受話器を2本同時に握って、上へ下へと頭を下げている。
「はい。緘口令は徹底します。避難計画の件も、その……なかったことに――いえ、あったこともなかったことに」
日本語が壊れ始めていた。準備していた災害ごと消されたのだから、無理もない。
紗雪は騒ぎに背を向けて、断面図の前に立った。
赤いピンを1本、31層に足す。
それから、並び順を変えてみた。攻略価値の順ではない。素材相場の順でもない。到達の名誉で言うなら、未踏破の47層を踏んだ者が31層へ降りる理由がない。
危険度の順だ。
放置すれば人が死ぬ場所から順番に、消えていっている。
47層は未踏破の最深部だった。52層にはS級が居座っていた。39層は呪詛の多発層で、31層は決壊寸前の水がめだった。素材は置いていく。記録には名乗らない。今回に至っては討伐ですらない。ただの汚染をひとつ、誰にも知られないまま消して帰った。三ヶ月後の決壊に協会が青ざめていたことを、本人が知っていたかどうかすら怪しい。
背後で、缶コーヒーの開く音がした。
「読めたか、分析官どの」
「……ファントムの行動には、攻略の意図がありません」
「だな。あの幽霊、勝ちに来てねえ」
レイジの声から、いつもの遊びが半分抜けていた。紗雪はピンの列を目でなぞる。脅威。対策。捕捉。会議室で飛び交ってきた単語が、どれも寸法違いに思えてくる。
数字は嘘をつかない。その数字が今朝、初めて意図のようなものを口にした。
「この人は、戦っているんじゃない。……守っている?」
脅威分析のフォーマットに、その欄はまだなかった。
――その夜、駅裏の定食屋。
俺は生姜焼き定食を頼んで、財布の小銭を数えていた。大盛りは100円増し。今日はやめておくか、と思ったところで、カウンターの向こうから大将の声が降ってきた。
「兄ちゃん、スタンプ10個たまってるぞ。今日から大盛り、無料な」
「……無料」
「毎度どうも、ってこった」
箸を持ったまま、3秒止まった。大盛り100円。俺の時給で5分ぶん。それが今日から、通うだけで毎回ついてくる。
「大将。俺、この店に骨を埋めます」
「重てえよ」
山盛りの白飯が来た。湯気の立ち上がり方からして、もう勝っている。豚肉を乗せて、かき込む。世の中は捨てたもんじゃない。時給は上がるし、大盛りは無料になるし、床は磨けば光る。ひよりの外泊許可が出たら、まずここだな。「退院したら」リストに、大盛り無料の店と書き足してもらおう。
頭上のテレビがニュースを流していた。第七ダンジョン旧区画で観測異常。協会の広報は「事実関係を確認中です」を4回繰り返した。歯切れの悪さに、常連たちが野次を飛ばす。
「また出たんだろ、例の幽霊」
「協会さんは隠しごとが多いねえ」
画面が切り替わり、速報のテロップが走った。
『大手クラン「ゼノギア」、明日14時に緊急会見――「わがクランが《ファントム》の正体を暴く」』
見覚えのある社章の横に、見覚えのある代表の顔があった。5年勤めた古巣の名前を、俺は白飯と一緒に飲み込む。
「……相変わらず、景気のいい会社だな」
明日の14時は夜勤明けだ。どうせ寝ている。
俺は味噌汁をすすった。世界の騒ぎより、目の前の大盛りだ。
無料は、うまい。




