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姉ヶ崎藩

忠昌と直政の2人の兄弟にとって下総の姉ヶ崎は思い出深い地となった。1607年、二条城で家康に謁見した忠昌は,同席した秀忠から江戸に来るように言われ、下総姉ヶ崎1万石を与えられた。姉ヶ崎藩が出来たのもこの時が初めてだった。忠昌が大名になったのもこの時からである。ただ、忠昌が姉ヶ崎にすぐに入る事はなく、ほぼ江戸城に居て、留守居役が統治にあたったようだ。1万石を与えられたとはいえ、まだ9歳の少年だった。ここから将軍のもとで養育され、たくましく成長していくことになる。

 しかし、この江戸行きにはもっと深い因縁が隠されていた。秀忠にとって越前結城秀康は、一つ年上の母親違いの兄で、面倒くさい存在であり、ライバルだった。その秀康亡きあと、その後を継いだ嫡男忠直は、その憎き秀康の存在そのものになり、秀康が羽柴に養子として住んでいたこともあり、越前藩が豊臣方なのか徳川方なのか、見分けがつきにくかった一面もあった。そんな長男忠直に比べて、次男忠昌は絶好の人質対象と思われていたのだ。越前北の庄から遠く離れた関東に置いておくことは、秀忠にとって大きな意味を持っていたのだろう。

 江戸城では秀忠の側の近くで養育され、叔父と甥の関係は深くなっていった。秀忠の長男の竹千代(家光)が生まれたのは1604年なので、忠昌とは6歳ちがいで、いっしょに遊ぶ関係ではなかったようだ。しかし秀忠は成長途上の忠昌をいろいろなところに同行させている。

 江戸に入って4年経つと、大きな動きがあった。忠昌は13歳になていたが、家康の11男徳川頼宜が下妻藩から水戸藩に移って御三家の一つを形成したため、空いた下妻藩3万石に忠昌が加増して移封した。他家の大名たちからすると、羨ましい出世である。姉ヶ崎藩はこの4年で一旦、幕府領にもどり、藩は閉鎖になる。

 

 しかしこの姉ヶ崎藩が再興するのは忠昌の弟である直政(幼名国松丸)が1619年に入封した時である。直政は大坂の陣の後に16歳で越前藩の松平忠直から、大野盆地の木本地区の1万石を与えられていた。その時は、越前藩領の中の所領を与えられたにすぎず、独立して大名になったわけではなかった。しかし19歳で幕府から姉ヶ崎1万石を与えられ、初めて大名に成り上がった。この時も将軍秀忠の意向が強く、越前の松平本家から、次男以降を引き離そうとしたところがみられる。また、直政の場合には江戸幕府3代将軍になる竹千代と年齢が近い事も、関東に呼ばれた一因である。

 直政も姉ヶ崎藩を頂いたが、江戸城で過ごすことが多く、竹千代と一緒に学問に励んだり、武芸の稽古に臨んだり、2人が一緒にいる時間は多かった。このことは、二条城で直政が家康に謁見した時に自己アピールした通りになっていた。そういう面では江戸行きには直政の意向も関わっていたのかもしれない。

 ただ、この家光(竹千代)との友好関係が、直政のこの後の出世に大きく関与してくる。


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