越前騒動
越前北の庄藩は68万石の大所帯のため、家臣団も大勢必要だった。そのため関ケ原の戦いの後、結城秀康が父家康から越前という領地を与えられた時、家康から藩の運営のために付け家老として本多富正を与えられ、家臣団も数十名頂いた。全員、江戸幕府の運営に尽力した、優秀な人材だった。しかし結城秀康には関東の結城家の時代から連れ立った家臣たちが大勢いた。特に今村盛次は結城家時代からの家老で、北の庄に入ってからも秀康の右腕であり、秀康死後は忠直を心から支える真の味方だった。そのほかにも結城家時代からの家臣は数十名に上った。その他にも関ケ原の戦いに際し、仕官させた家臣たちもいて、なかなか一枚岩にまとめることは難しかった。
特に家老本多富正を頭とする江戸派閥は、江戸幕府に直接のパイプを持つグループで、家老今村盛次を中心とした結城グループとは、何かにつけて対立した。
藩主忠直が17歳となった慶長17年(1612)越前藩を揺るがす大事件が勃発する。領地内の農民の娘が隣村に嫁いだが、夫が佐渡金山に働きに行き、帰ってこないので妻は実家に帰り別の男と再婚した。しかししばらくすると元夫が帰ってきた。元夫は再婚していた元妻と新夫に激怒して、夫を殺してしまった。しかし殺された夫の領地の家臣が奉行所に訴えると、家老の今村盛次と本多富正が裁きに当たった。しかしそれぞれ対立する派閥の家臣同士の争いであったこともあり、評定は難航した。結果的には双方が駿府の大御所様に訴え出る事になってしまった。しかし藩内で解決することになり、今村方は藩主忠直を味方に取り込み、本多方に元夫を捕まえるように命じる命令文を発送する。しかし本多方の抵抗に遭い、控えさせていた武士団が、本多方の武士団と武力衝突してしまう事となった。
武家諸法度で家臣同士の武力衝突などお家騒動があった場合は、お家取りつぶしと明記されており、越前藩は窮地に立たされる。騒動の大きさに裁定は駿府の大御所と幕府の将軍秀忠に託された。
裁定は今村盛次など今村方は東北各藩に身柄を預け、一部の者は蟄居となった。その反面、本多方には何もお咎めがなかった。本多富正は幕府が派遣した付け家老で、」幕府隠密の役割も勤めていたと考えると、当然の判決内容だったかもしれない。もっと悲劇的に捉えると、徳川家康が結城秀康を越前のような雪国に置いたのは、秀康が羽柴家に養子として暮らしていたことから、半分は豊臣家に所属する気持ちがあるかもしれないとして、謀反のおそれがあると考えていたかもしれないのである。越前松平家の不祥事を見逃さずに、処分することで、謀反を起こせないように弱体化させることを考えていたのかもしれなうのである。
しかし今回の越前騒動の評定は、忠直にとっては大きな屈辱となった。今村方の肩を持って命令書を発した藩主の意見が無視され、幕府から派遣された付け家老本多富正の訴えが採用されたのだ。若き17歳の藩主とは言え、すでに藩主になって5年過ぎていたのだ。家臣団に対する不信感は勿論だが、幕府、特に将軍秀忠に対する不信感は徐々に怒りにも似た感情に変わっていった。
この後、忠直の幕府に対する不満は目に見える形で表れてくる。




