勝姫の興し入れ
同じ慶長16年(1611)、16歳の忠直に縁談がまとまった将軍秀忠の娘で忠直の従妹に当たる12歳(満年齢10歳)の勝姫を正室に迎えた。
9月5日に江戸を出発し、11日から18日まで駿府で祖父・家康のもとで饗応を受け、9月28日に越前国北荘で福井藩主忠直と結婚した。
さすがに68万石の大所帯の藩主の相手は将軍の娘だった。しかし勝姫の母は天崇徳院(お江)である。お江の母は信長の妹、お市である。浅井長政に嫁いでお市は浅井が信長に攻められると清州に戻り、本能寺で信長亡き後、清須会議後に柴田勝家に嫁ぎ、越前北の庄に入った。しかしそこでも豊臣秀吉に攻められ、北ノ庄城で死んでいる。まだ幼かったお江は茶々、お初と共に城から救出されて、豊臣に庇護された。だから勝姫にとって北ノ庄城は母と祖母の因縁の場所だったのである。
まだ幼い勝姫にとってどれほどの思いを持っていたのかは分からないが、年齢と共に深い思いを抱いていくのだろう、ただ、勝姫は一旦江戸城を出て、越前に下るが、参勤の制が出ると、江戸城からすぐ近くの越前藩江戸上屋敷に移ったので、生涯江戸城内にいた時間が一番多かった。
ちなみに勝姫は3女だが、長女は豊臣秀頼の正室、千姫。2女珠姫は加賀藩藩主前田利常の正室。4女初姫は小浜藩主の京極忠高の正室、5女の和姫は後水尾天皇の皇后として皇室に輿入れしている。
結婚したと言ってもまだ幼い勝姫は活発な少女だった。しかし年齢が上がると勝気な性格に成長していき、忠直の父親譲りの質実剛健な性格と相まって、似たもの夫婦になっていった。
元和元年(1615年)に16歳(満年齢14歳)で仙千代(光長)、元和3年(1617年)に亀姫、元和4年(1618年)に鶴姫を出産した。
結婚後に忠直は藩政に尽力していく。事務系の性格ではなく、武将として武芸に励み戦いに明け暮れた方が似合う質実剛健タイプだったので、体を動かす土木作業を指導していった。
鯖江の日野川沿いには鳥羽野と呼ばれる荒れ地が広がっていた。江戸時代前期は新田開発が盛んで、戦国時代の終了で、余ったエネルギーを土木作業にあてがい、新たな耕地を出現させていった。
若き藩主の忠直は自ら先頭に立って、日野川と浅水川に挟まれたこの場所を農地に変えるため、河川の堤防の強化に当たった。下級の武士たち20人ほどと、現地の百姓たちを動員して100人ほどで、工事は数か月。毎年のように洪水に悩まされたこの場所は、ようやく洪水の心配がなくなった。翌年には排水路を建設した。すると湿地帯だった鳥羽野は見る見る水が引き、乾いた土地に変わっていった。そこに浅水川の上流に水門を作って用水路を作り、あとは百姓たちが水路を広げていって、鳥羽野は豊かな農地に生まれ変わっていった。
翌年からは父秀康の頃からの継続事業だった、城下へ用水を引く事業に取り掛かった。九頭竜川扇状地の扇頂部分から用水を引くのだが、反対側の岸からは十郷用水が引かれていた。そのために、毎年春には簗で川を堰き止め水を用水に流し、秋にはその簗を壊して水を下流に流していた。忠直はその反対の岸から、芝原用水と名付けた用水を、北の庄まで伸ばす事を父秀康から引き継いだのだ。工事は困難を極め、なかなか進まなかった。しかし多くの家臣たちの努力と領民たちの協力で、3年の年月で完成させ、城下に美しい水をもたらした。上水にも利用され、藩主の別邸として作られた養浩館の庭園の大きな池も、この水が注がれた。また城の内堀や外堀にもこの用水がつながっていた。
若き城主の忠直は父が完成させられなかった城下のインフラの整備に、大いに活躍した。領民たちからもこれらのインフラ事業の功績を認められ、人望を集めるようになってきていた。
しかし、大坂の陣での褒美の問題や、官位を授かった際の幕府の扱いの変化、そして年下の叔父の存在などから、幕府じぇの不満が募り、その不満は徐々に叔父である将軍秀忠に向いていった。そして秀忠の娘である勝姫に対しても純粋な愛情を示せなくなっていった。
その不満のはけ口としてらだ直が力を入れたのが、鉄砲や大砲だった。慶長17年に近江国彦根藩藩士・澤村角右衛門から稲富流砲術を伝授され、元和4年に家臣の中川右京へ砲術伝書の「直矢倉之巻」を与えた。




