官位叙任
慶長16年(1611年)3月、16歳になった忠直は、祖父家康に連れられて上洛した。朝廷から官位を授けられるためだった。
江戸を出発した一行は、まず駿府城に立つより、家康に謁見した。城には江戸を先に出た徳川将軍家の義直・頼宣・頼房がいた。父である秀康公の弟にあたるので、年下だが叔父にあたる。しかも家康の子供にあたるので、礼節にのっとって、家臣としての挨拶をした。複雑な心境だったが、忠直は周りの雰囲気に合わせて、おとなしく従った。
一泊して翌日には駿府を立ち、東海道を西に進んだ。途中、浜松でも岡崎でも家康のゆかりの町に立ち寄り、城では歓待を受けた。町の衆たちも町の英雄どぁる家康の帰りをちょうちん行列で歓待してくれた。
大津から山を越えて三条大橋から京の町に入った。御所の南を通って、堀川通の二条城に入ったのは3月17日の事だった。疲れをいやして数日を過ごすと、3月20日にtyピ亭から使者がやってきて、従四位上左近衛権少将に昇叙されることの伝達があった。、
3日後の23日に祖父と共に宮中へ参内した。叙任することは武士にとって大切なことで、朝廷から授けられる役職もこの任位が重要になってくる。上位の官位がなかったら、守護職に就けないので、国持の大名にはなれないのである。松平姓だった若き日の家康は、由緒が不明な松平姓では朝廷が高い官位を出せないということだったので、親戚筋の中で過去に使っていた得川姓に変える事で高い官位を頂き、三河の守の役職を得ている。まして後に征夷大将軍に任じられることも、松平姓ではかなわなかったのだ。
京都御所の正殿前の部屋には、大御所の家康に引き連れられ、松平忠直だけでなく徳川将軍家の義直・頼宣・頼房も、同席していた。年下ではあるが、叔父である。後に御三家の藩主となり、序列的に忠直よりも上位に来る存在である。
正座して天皇のお出ましを待つ家康は4人の若者に事前の注意事項を述べた。
「よいか、帝に直接話しかけるのではないぞ。口上では名前と叙任のお礼だけを述べればよい。余計なことは話すな。」と宮中での作法を話した。4人の若者は訳も分からず緊張して、頷くばかりだった。緊張するのも仕方なく、宮中にあがるのは初めてで、宮中用の束帯を着るのも初めてだったのである。
しばらく待っていると侍従と思しき役人が出て来て、入り方を説明した。
「では中に入っていただきますが、帝が御簾の奥に入られましたら、低頭の姿勢を崩さず、合図があるまでそのままお待ちください。入る順番は德川家康様を先頭に。徳川義直様、頼宜様、頼房様、松平忠直様の順にお入りください。中では家康様が一列目でその後ろに4名の皆様が並んでお座りください。では私に続いてお入りください。」と言って立ち上がり、振り向くと歩き始めて扉の前に立った。
家康を含む5人も立ち上がり、侍従に続いた。扉の前に全員が揃ったことを確認するとゆっくりと扉を開き、中に入っていった。正殿は広さ200畳以上ありそうなくらい広かった。周りの襖は狩野派の達人の作と思われる絵が部屋の雰囲気を醸し出している。忠直は家康の後の列でしかも最も右側の場所で控えていた。父の結城秀康が小牧長久手の戦いの後に、人質として羽柴家に出されて、羽柴秀康になっていなかったら、父が徳川幕府を継いでいたかもしれない。そして自分が3代将軍になっていたかもしれないという深い思いを抱いていた忠直は、この部屋での序列に違和感を感じていた。幼いころから江戸城では将軍家の次が越前松平家で、父秀康に導かれて、他の大名とは別格で扱われてきたのだ。
らだ今日は祖父家康様といっしょだし、宮中という事もあり不平を言う訳にもいかなかった。
正殿中央で正座して待っていると、上段の御簾の奥から帝が入られ、玉座に座られた。帝の姿が見えた瞬間から忠直たちは頭を下げ、額を畳に擦り付け低頭の姿勢を保った。
忠直は頭を下げながら帝とはどんな方なのか、見てみたい衝動にかられた。しかし祖父家康の目の前であり、宮中でもあるので、我慢するしかなかった。
家康が息子と孫の叙任のお礼のご挨拶であることを述べると、一人一人口上があった。
徳川家の9男義直から始まり、頼宜、頼房と続いて、忠直の番が来た。
「お初にお目にかかります。過年越前の守を賜りました松平秀康が長男、松平忠直でございます。先日は帝より、身に余る官位を頂き、有難く存じます。この上はこの官位に恥じぬように、精進して帝のお役に立つ所存でございます。」と大きな声で、帝に向かって口上した。帝の表情は御簾の向こうなのでわからなかった。しかし見えないからこそ、高貴な美しきものに見えた。
宮中での対面を終え、5人は家康の京都での城である二条城に戻った。二条城で親子、祖父と孫の5人で祝宴が開かれた。酒宴の席次もやはり徳川本家の末席に松平家が配された。忠直の心は穏やかではなかったが、大御所家康の前ではどうしようもなかった。このあと2代将軍の秀忠に向けては、正面から嫌悪感を表すようになっていく。




