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弟たちの家康デビュー

 慶長12年(1607年)に父秀康が亡くなると、長男忠直は12歳で藩主になった。若き藩主は自分の仕事だけで精一杯だったが、弟たちの庇護も大切な役割だった。34歳で病死した秀康は、幼い子供たちが心残りだったろう。その思いを若き藩主は引き継ぐことになった。彼らが立派な大人になるように。そして立派な大名に成長することを義務付けられていたのだ。

 まずは次男の虎松を徳川将軍家にデビューさせることから始めることにした。北の庄城の本丸、大広間に虎松と家老今村盛次を呼んだ。虎松は9歳。まだ子供だが、忠直と同じ母は岡山で、やんちゃ盛りな子供だった。父秀康の性格を兄忠直と同じように継いでいる。忠直の前で正座して座る虎松に兄である忠直は

「おまえも9歳だ。そろそろおじいさまに会ってみたいか。どうだ?」と聞くと虎松は元気のいい声で

「兄上、本当でございますか。当然、お会いしとうございます。兄上は大御所様にお目にかかられたことはあるんですか?」と問い返すと

「父に連れられて江戸に行った時と、大御所様が京都の二条城に来られた時にご挨拶した。大名たちにはとても厳しい方だが、われわれ孫にはお優しい方だ。きちんとご挨拶できると、それなりのご褒美を頂けるかもしれぬぞ。」と話すと虎松は嬉しそうに笑った。

 忠直は後ろに控えていた家老の今村に

「今村、話は分かったか。来月大御所様と将軍様が、御所に用事で京都に来ることになっている。幕府に書類を提出して、お目にかかれるように手配してくれ。」と言うと

「殿、すばらしいお心づかいでございますね。虎松様、おめでとうございます。早速手配いたします。」と言って座礼した。

 翌月の11月。忠直に引率されて虎松は京都に向かった。木の芽峠を越える時と刀根坂を越す時は大変だった。賤ケ岳の古戦場は10年ほど前に、秀吉軍が柴田勝家を打ち破った場所だった。さらに余呉湖を超えると琵琶湖に着いた。ここで船に乗り換え、大津を目指した。大津に到着すると京都は目の前だった。三条通りを進んで堀川通まで進むと、二条城が見えた。家臣たち20名ほどを同行してきたが、城に入ると家臣たちは控え所で待たさなくてはいけない。2人の付き添いの家臣を連れて、城内に入ると、接見の間の前室で待たされた。12歳の藩主と9歳の弟は緊張のあまり、呼吸する音が部屋に響いた。

 目を閉じて瞑想しながら待っていると、将軍の侍従と思われる家臣が入ってきて

「では松平様、お二人そろって奥にお入りください。」と連絡してくれた。2人は立ち上がり進むと、侍従が襖を開けた。奥の接見の間は中庭の明かりが降り注ぎ、畳の白さが眩しい限りだった。中に進むと両脇の襖には狩野派の虎の絵が描かれていて、虎の目は2人を睨みつけているようだった。正面の上段にはさらに一段高い高座がふたつ用意されている。その後ろには、違い棚と掛け軸があった。掛け軸は書が書かれていて、弘法大師の作品が掛けられていた。

 豪華絢爛な部屋の様子に圧倒されて唖然としていると、上段上座の障子が開いた。2人の若者は頭を下げて額を畳に擦り付けた。しばらくすると

「表をあげよ。」という合図があった。顔をあげると、忠直には見覚えのある2人が座っていた。将軍秀忠と大御所家康である。2人とも金糸をふんだんに使った和服と羽織り袴を着ている。虎松にとっては、初めて会う2人である。

 虎松は左に座った老人を見て、大御所として権勢をふるっている人物とは見えなかった。小柄なおじいちゃんと言ったところだった。その隣の将軍秀忠は父秀康の1歳違いの弟で、風貌も似たところもある気がした。

 藩主忠直は今までに何回か会ったことがあったので落ち着いて口上に入った。

「本日は我が弟の虎松が9歳になりましたので、祖父にあたる大御所様と叔父にあたる将軍様にご挨拶する機会を頂き、今後お引き立ていただけますように参上仕った次第です。まずは弟、虎松のご挨拶の機会をお願いいたします。」と前置きをしてくれた。

 虎松は緊張のあまり声が裏返りそうになったが、喉をごくりとして、息を整えると一気に息を吐きだした。

「本日初めてお目にかかります。兄よりご紹介つかまりまりました、私は越前松平秀康が次男、松平虎松でございます。先日、父秀康が病に倒れ、兄が越前藩を継いでからは、兄に従い武芸と学問に励み、江戸幕府の役に立つ武士になろうと、励んでおります。以後、お見知りおきをお願いいたします。」と堂々と口上した。

 その様子を見ていた大御所家康はかわいい孫の成長に目を細め

「虎松、よく知っているぞ。よく参った。父秀康の面影が見てとれる。父は大変、勇敢な武士だった。関ケ原でも大きな働きをして、その後は京都の守護職も立派にこなした。短い命だったことは、残念だったが、お主ら兄弟、力を合わせて、父の分まで働くのじゃぞ。」と声をかけた。

続けて将軍秀忠も

」虎松はどんなことが得意なのだ。」と声をかけると虎松は物おじせず

「実は学問よりも弓や槍が得意でございます。」と正直にのべた。その様子を秀忠は大いに気に入り、大御所とも顔を見合わせて笑い合いながら

「秀康兄さんによく似た力強い武将になりますね。」と言って喜んだ。そして

「忠直に相談だが、この弟をわしに預けてはどうかな。ちょうど姉ヶ崎藩が開いておる。1万石を与えるので、江戸城のわしの側で暮らしてはどうだ。」と問いかけた。言われた忠直はその瞬間、素晴らしい話で虎松は気に入られたと喜んだが、反面江戸幕府に弟を人質に出すという事だと直感した。しかし大御所と将軍の提案に逆らえるはずもなく

「大変喜ばしいお話、感激でございます。ただ、一度越前に帰り、母とも正式に別れをさせなくてはいけません。まだ9歳ですので、母岡山もまだ子離れできていないと思います。」と答え、越前で支度を終えたらすぐに江戸に向かわせることを約束した。

翌年の春には江戸城に虎松は入り、将軍秀忠の側近に育てられるが、元服して忠昌として上総姉ヶ崎藩1万石の大名になった。異例の早い出世であった。


3男の河内丸は父秀康が死ぬまでは、家臣の家で育てられたが、父の死後城に入り、後を継いだ長兄忠直の庇護を受けるようになっていた。

慶長16年(1611年)4月17日、河内丸は国松丸と名を改めていたが、11歳になっていた。16歳になった藩主忠直の計らいにより、忠昌の時と同じように京都二条城で祖父家康と叔父秀忠に謁見した。忠昌の時と同じ謁見の間だった。同じように忠直が弟の国松丸を紹介すると、国松丸は初めて大御所に会う孫と思えないくらい流暢に話した。

 実は京都に来る前、越前を出るときに国松丸の母から、良く言い聞かされていたのだ。徳島生まれの母お駒は数奇な運命をたどって、越前に嫁いだが、父秀康の死を契機に出家して月照院と名乗っていた。その月照院が息子である国吉丸に

「良いか国松丸、お前は大御所家康様の孫である。将軍秀忠様も叔父上だ。父秀康君は家康様の御次男で、関ケ原では天下第一の功労者として、越前68万石を賜った大大名だ。よその藩の3男とは格が違うのだ。しかし大御所様にお会いするのは初めてだ。必ず頭脳明晰なところをお見せして、お褒め頂くのだぞ。よいか。」と言って国松丸の手を取って言い聞かせた。国松丸は幼いころから周りの雰囲気を感じて立ち回ることが上手な子で、体は小さく武芸よりも学問の方が得意な子だった。この時も母の必死の期待に応えなくてはいけないと思い、

「母上、お任せください。私は大人たちの気を引くことは得意です。それに周りの会話に合わせて話を盛り上げることにも長けています。大御所様に必ずや気に入られます。」と返事をしてきたのだ。


 大御所家康と将軍秀忠の前に座った国松丸は、忠直が紹介してくれたあと口上に入った。

「私、国松丸は父秀康の3男で、藩主忠直君は私の兄でございます。母は月照院。父と母が京都から越前に帰る途中の近江の国、河内で生まれました。こちらに参る前に、母から是非大御所様や将軍様に、御贔屓にしていただけるように、御機嫌を取りなさいと教わって来ました。でも私は太鼓持ちではありません。ただ機嫌を取ることは出来ません。何かお二人に気に入ってもらえそうなお話はないかと考えました。将軍家では私と同じくらいの年齢の竹千代様がいらっしゃるとお聞きしました。私は竹千代様の従兄弟に当たります。どうかご学友にしていただけないでしょうか。私は武芸よりも学問の方が得意で、きっと良き学友になれると思います。」と言って将軍秀忠の顔を見上げ、回答をまった。驚いた秀忠は

「竹千代と同じか。それではこれからも仲良くしてもらう相手に良さそうだ。それにしてもお前はまだ子供なのに人の心に溶け込むのがうまいな。」と感心した表情だった。しかしその時、大御所家康が口を挟んだ。

「お前の母のお駒は確か京都の二条で遊女をしていたところを、秀康が熱をあげて、身請けしたんだったなどこの出だったかな。」と聞くと国松丸は眉をひそめた。家康がそのことをどれくらい知っているのか、わからなかったからだ。しかしここは知らないふりをしたほうが得策だと考え

「あいにく、私は聞き及んでおりません。」と答えを濁した。すると家康は

「お前の母は阿波国の豪族で三谷長基の娘だったのだ。長基はわしと敵対したため国外逃亡し、残されたお前の母は京都の二条で働いて生計を立てていたのだ。つまりお前の母とお前にとってわしは親の仇であり祖父の仇なのだ。ただお前はわしの孫には間違いない。心して励め。」とくぎをさしてきた。調子よく機嫌を取ってきた国吉丸は、その老人の頭の良さに感服させられた。

その後、越前に帰った国吉丸は、慶長18年(1613年)に元服、養育してくれた重政と藩主で兄の忠直それぞれの偏諱により直政を名乗るようになった。


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