父の死
11歳の仙千代は将軍秀忠に接見するため、北ノ庄城を出て江戸に上った。越前68万石の若様の初登城として、藩をあげて大行列で江戸に向かい、天下に越前の威厳を示した。北国街道を北に進み、高田から信越道に入り、碓氷峠を超えて関東に入った。川越の宿を超えると江戸へは北から入った。当時は既に越前藩江戸屋敷が江戸城近くに立てられていた。江戸城正面の外堀の内側と言う一等地で、最高の立地に広大な敷地を有していた。屋敷に到着すると、すぐに江戸城に将軍との対面の申し出をするために藩士を活かせた。他の一行は、上屋敷と下屋敷に分かれて、旅の疲れをとるために休息に入った。
対面が許されたのは2日後だった。10人ほどの家臣に守られて仙千代は江戸城大手門から入り、さらにいくつかの門をくぐって、かぎ型に曲がった道を進むと、受付らしき役所があり、氏名を述べると刀を預けるように言われた。脇差の小刀を残して大刀を預けると進むことを許された。奥に進むと正面に壮大な天守閣が現われた。北の庄の城も天下普請で作られた巨大な城だったが、この江戸城天守閣はまさに天下一の城で、多くの大名が建設に協力した天下普請の作品である。
天守閣を遠くに身ながら進むと手前に本丸屋敷の玄関が現われた。この本丸は表と奥に分かれていて、奥は大奥と呼ばれる女ばかりの領域で、謎が深いらしい。表は半分が将軍の生活領域で、残り半分は政治領域である。
仙千代と同行した家老職2名は将軍との対面所に案内された。他の藩士たちは手前の部屋で待機させられた。対面所は大広間の奥の部屋で、有力大名が個人的に将軍に対面を許された場合のみ、使用される特別室だ。
仙千代たちが部屋の下段に座って待っていると、上段上座の襖が開いて、小姓に続いて将軍秀忠が入ってきた。それと同時に下段の襖が開き、老中堀部氏が入ってきて、仙千代たちの上座に横向きに座った。
この当時は家康は将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所様と呼ばれ駿府城に隠居する身だった。幕府の一大事には駿府の大御所の判断を仰いだが、大概のことは秀忠に任されていた。ちなみに大奥の主である秀忠の正室は織田信長の妹のお市の3女であるお江だった。秀忠の前で頭を下げていた仙千代に向かって秀忠が低い声で
「表をあげよ、仙千代。」と親し気に話した。顔をあげて背筋を伸ばした仙千代は
「この度、私、仙千代の求めに応じ、御対面いただき、厚く御礼申し上げます。将軍様におかれましては、ご健勝の事、お慶び申し上げます。」と述べて深々と座礼をした。
将軍秀忠は甥っ子のことを心遣いして
「苦しうない。表をあげよ。兄上はお元気か。」と秀康のことを気遣った。仙千代は
「父は幕府より京都伏見城の城代を賜り、お役目のため京都に行っております。元気でいるのではないかと思います。」と答えた。しかし秀忠は
「兄上が京都で少し体の具合が良くないと聞いた。越前に帰って養生された方が良いと思っている。」と父秀康のことを気遣ってくれた。しかし話題を仙千代に戻して
仙千代、お主は元服は済ませたのか。そうか、まだか。では江戸で元服を済ませて、名前も変えろ。どうだ、わしの『忠』の文字を使って名をつけよ。どんな名が良いかな。そうじゃ、忠直はどうだ。直は正直とか素直とか、まっすぐという意味だ。12歳の若き武将に相応しい。」と諱名を授けた。12歳の忠直は松平(結城)秀康の血を引くだけあって、年齢よりも大柄で筋肉も多く蓄えている。顔つきも目つきも鋭く、戦国時代の武将にうってつけな感じだった。
しばらく秀忠と会話を楽しんで、江戸城をあとにした忠直は家臣たちと共に上屋敷に戻り。元服の祝宴をあげた。越前から来ている家臣たちに加えて、江戸屋敷勤めの家老たちも加わって、若君の元服を祝った。まだ12歳の忠直は、初めて酒をたしなんだが、味はほとんどわからなかった。
翌日も江戸城に上った忠直は越前藩の若君が元服したことを、大広間に集まった諸国の大名と幕府の家臣団の前で、老中から報告してもらった。全員が若き忠直に目線を送り、お祝いのサインを送った。しかし多くの大名たちの内心は、祝意よりも心配の気持ちの方が 大きかった。68万石の大所帯をこの12歳の若造に治められるわけがないと感じていたのだった。
太平の世にはまだ早いかもしれないが、戦国時代は秀吉の天下統一で終焉していた、当然武士に求められる力量も変化していて、天下を平定したばかりの秀吉の時代ですら、柴田勝家のような荒くれの武人よりも、石田三成のような実務派の政治家の方が重要だったのかもしれない。まして関ケ原を終えて日本中を統一した徳川政権では、質実剛健な結城秀康のような武人は、必要なかったのかもしれない。
彼の武勇伝はたくさんあるが、中でも碓井峠の関所での逸話は彼の性格を物語っている。越前から江戸に向かう途中、碓氷峠の関所で多くの家来を連れて、巨大な大筒を持参して江戸へ向かうという。驚いた関所の役人は
「江戸にはそんな武器は持ってはいけない。」と関所の通過を拒んだ。結城秀康は
「父や兄をお守りするには、必要な武器だ。」と一歩も引かなかった。関所の役人は江戸に使いを出して、秀忠に報告し、対応策を聞くと、秀忠は
「よく兄さんに殺されなくて良かったな。兄さんなら役人を殺してでも関所を通っただろうに。」と言って笑ったとか。そんな勇壮な話が秀康には多く残されている。
慶長11年、秀康は幕府より伏見城の城代を任じられ、京都にいた。しかし病気を患い家族を連れて北の庄に戻っている。越前に着くと病気療養の甲斐もなく翌年死亡する。一説には梅毒が体中を蝕んだと言われている。
31歳という年齢で早死にした秀康は5人の息子と2人の娘を残した。長男仙千代は12歳で越前北の庄藩を相続した。前年、江戸で元服して松平忠直として元服していた。その当時江戸幕府2代将軍になっていた秀忠から『忠』という一文字をもらって襲名した。
この時、次男の虎松は9歳、河内丸は6歳で、まだ何もわからなかった。ただ、父の死で悲しい思いをしたようだ。妻の岡山は夫の死で喪に服したが、葬儀の後に長男の忠直を呼んで言い聞かせた。
「よいか、忠直。父が死にお主がこの松平の家を守るのだ。強い気持ちで家臣たちに藩主としての威厳を保つのだ。お主の父は結城秀康殿だが、おじいさまは徳川家康様だし、2代将軍徳川秀忠様は叔父上だ。あなたは生まれながらの江戸幕府の重臣で、越前大藩の大名なのです。重い責任が理解できますか。」と忠直の手を握り、目を見つめて話しかけた。忠直はまだ子供で、理解できたかどうかは疑問が残るが、気持を奮い立たせ岡山に
「父亡きあと、私がこの家を守ります。母上、私にお任せください。」と返事をした。その言葉を聞いた岡山の心の中には、家康様が2代将軍に秀忠ではなく、結城秀康殿を選んでいたら、息子の忠直が将軍職を継いでいたかもしれないという、以前から抱いていた思いがふつふつと思い出された。忠直が幼いころから言葉の端はしに、
「世が世であれば・・・」という意味合いのことを伝えて来たことも思い出された。
忠直は幼いころから江戸城に登城すると叔父の秀忠にかわいがってもらっていた。しかし反面、周りの大人たちからこの
『世が世であれば・・・・』という言葉は聞かされていたので、次期将軍に内定していた秀忠のことは、心の底から好きになれなかった。父結城秀忠の弟であり、最大のライバルだったことはうすうす感じていたのである。
秀康の葬儀が終わり、およいよ忠直が藩主の座に就いた。ただ、その席には着いたが、何をしたらよいのか分からずにいた。実際には家老の本多富正(伊豆守)と今村盛次(掃部)が領国統治に当たった。12歳の忠直は就任当初は自分らしい藩政を目指したが、彼らの言うとおりに承認するだけの生活に陥っていった。




