直政誕生
慶長6年8月5日(1601)近江伊香郡河内で男の子が生まれた。この子は結城秀康の3男である。関ケ原の乱の後、京都守護職として伏見城を拠点に結城秀康は京都の治安維持に従事していた。秀康は仕事の合間に、伏見や3条界隈で酒宴を催した。その流れで一人の遊女と出会うことになる。2条の遊郭にいた『あげまき』という女で、絶世の美女だった。結城秀康は父の家康よりも体も大きく、性格的にも質実剛健で荒々しいところがあった。そんな秀康なので岡山と言う正室を迎えていながら、このあげまきに一途になってしまったのだろう。しかもこのあげまきには暗い過去があった。
この遊女は阿波国麻植郡の豪族・三谷長基の娘だった。名前はお駒。長基は徳川家と敵対したため国外逃亡し、残されたお駒は京都に出て、条で遊女となって上巻と名乗っていたのだ。武家の娘でありながら、不幸な身の上だった。しかも父家康が滅ぼした家の娘であったことも、彼女に執着した理由だったのかもしれない。
結城秀康が関ケ原の功績で越前の国を得て、北の庄に行くとき、お駒を連れて行った。しかもその時、彼女は妊娠していたのだ。一行が近江の国、伊香保郡河内の宿に達した時、産気づいてしまい宿で男の子を生んだのだ。河内の宿で生まれたので河内丸となずけられた。お駒とお付きの者を残して、秀康は越前に先に向かったが、後にお駒も河内丸(直政)も無事に越前北の庄に入った。
秀康とともに正室の岡山も長男仙千代(忠直)も次男虎松(忠昌)も北の庄に入り、家族が揃うことになる。ただし3男河内丸(直政)は庶子のため、生まれた直後、乳母1人を添えて家臣の金谷家に預けられた。その後、慶長10年(1605年)、家臣の朝日重政に預けられて養育されたが、ほどなく重政が退去したため父の下に戻った。




