関ケ原
忠昌が生まれた翌年、慶長3年4月 秀吉が死んだ。結城秀康は小牧長久手の戦いのあと、人質として徳川家から羽柴家に養子に出されて、羽柴秀康として子供時代を大阪で過ごした。しかし秀吉に鶴丸という実子が生まれたことで、羽柴家での秀康の存在意義がなくなり、実父の徳川家康の領地である江戸に近い上州の結城家にまた養子に出された。
その頃には結城秀康は豊臣秀吉のもとで既に九州征伐などで手柄を立て、質実剛健、勇壮果敢な武将としての名をはせていた。
豊臣秀吉の死は豊臣政権の後継者争いを一気に加速した。秀吉は死の間際まで秀頼を盛り立てるように家臣たちに頼んだ。特に大きな力を持っていた徳川家康には、死の間際まで秀頼の後見人を頼んだ。
しかしその後の豊臣政権は德川家を中心とする東軍と、大阪城の豊臣家を中心とする西軍に分かれて、一触即発の状態にまで緊張が高まっていった。
東北の大名を制圧するため、奥州街道に集結した徳川軍に対して、豊臣方が反旗を翻したという知らせを受けたのは、東軍が宇都宮を過ぎる時だった。すぐさま、家康は小山で評定を開いた。
家康の本隊は東海道を西に進むことになり、徳川家を引き継ぐことが約束されている徳川秀忠は中山道を西に進むことになった。しかし家康が悩んだのは東北の雄たちの動きだった。軍議でもそのことが話題にあがり家康は悩んだ挙句
「山形の上杉と仙台の伊達の出方で豊臣との戦いが決する。誰かが奥州街道の途中で待ち受けて、関ケ原に行けないようにする必要がある。誰かこの役目を担ってくれるものはいないか。」と問いかけた。小山評定の軍議は家康の声で静まり返った。奥州の上杉や伊達は大勢力であり、両家が手を組んだら豊臣家に匹敵するような軍勢になることが予想される。迂闊に手をあげて引き受けられる役割ではなかった。
家康が上段から居並ぶ大名たちを見渡す中、誰も引き受けそうもなかった。家康の横には家督を継ぐ秀忠が座り、下段の最上位には長庶子の結城秀康が座っていた。家康は秀康の方を見つめてわずかに笑みを浮かべ
「どうじゃ、秀康。宇都宮あたりで上杉の出方を牽制してみんか。わしの軍勢を1万預ける。秀康の豪壮ぶりは上杉たちにも伝わっているだろう。恐れをなして出てこれないかもしれん。」と大広間に並んだ大名や家臣たちに、聞こえるように話した。
「父上、秀康にとって大変大きな誉れでございます。必ずや大殿のご期待に応えてみせます。」と返事をして家康に向けて頭を下げた。
家康は隣に座る秀忠にも
「西軍との戦いは美濃の関ケ原辺りとなる。わしが本隊を率いて、東海道を上ろうと思う。秀忠は中山道を上って美濃へ向かってもらいたい。途中、信濃松代には真田がいるが、蹴散らして関ケ原に来る命令を下そうと思う。どうじゃ?」と否定できない質問を投げかけた。秀忠は一瞬、難しそうだなとも感じたが、父家康の狙いが結城秀康と自分を比べるために、このような試練を与えるのだなと感じた。同時に1つ年上の庶子である秀康には絶対に負けられないと強く思ったし、秀康を強く憎む気持ちも沸き上がった。
結城秀康の息子たちは仙千代(忠直)は5歳、虎松(忠昌)は2歳。国松丸(直政)はまだ生まれていない。仙千代と虎松は母である岡山と共に関東の結城家屋敷で父の帰りを待っていた。秀吉の死後、大阪での屋敷生活を終え、結城家に帰ることを許されていた。
関ケ原の戦いは東軍の圧勝で終わった。戦後の会議で大御所様(家康)から第一の殊勲者として褒められたのが結城秀康であった。その戦功を認め、越前の国68万石と将来的に100万石までの加増が約束された。しかし秀忠は德川家の後継者であるにもかかわらず、信濃の真田家にてこずり、関ケ原の戦いに遅れるという大失態を演じてしまった。戦後の会議で直接の非難はなかったが、結城秀康が大御所(家康)から褒められれば褒められるほど、立場がなくなり秀康を憎む気持ちはさらに強くなっていった。




