初陣
時代はやや前後するが、慶長19年(1614)11月、大阪冬の陣が起こる。発端は方広寺の鐘銘事件である。徳川家康が征夷大将軍に任じられ、数年たって高齢を理由に将軍職を譲る段になって、豊臣家としては秀頼に譲られると思っていた。家康の将軍職は秀頼へのつなぎと理解していたのである。しかし家康は独自で朝廷と交渉して、2代将軍に秀忠を就任させてしまったのだ。そして2代将軍に就任した秀忠への挨拶のために、二条城に上洛するように全国の大名に命じた。しかし大阪城の淀君は決して秀頼を出さなかった。その後も度重なる上洛要請にも屈さず、豊臣家と徳川家の対立は激しくなっていった。そんな時、豊臣秀吉が建造しようとして焼失してしまった京大仏を秀頼が再建しようとした。
大仏は完成し、その脇に鐘楼も建設された。しかしその鐘に刻まれた文字に「国家安康」ろいう文字が刻まれていた。徳川方は「家康」という文字の間に「安」という文字を入れて、家康を切り離したことは、大御所家康を呪う行為だと言いがかりをつけた。豊臣方は
鐘銘事件の弁明のために駿府にいた片桐且元が派遣された。しかし片桐が大坂に帰還すると、家康との内通を疑われるようになった。その後も対立は深まり、修復が難しくなる中、豊臣軍は関ケ原で浪人となった武士たちを多数抱え入れ、戦いに備える準備を整えていった。
そんな豊臣家の動きに徳川勢も敏感に対応し戦いの準備を整えていった。江戸での戦略会議で大阪城を攻めることを決定すると、家康は駿府を出て、京都の二条城に入った。秀忠も20万の軍勢を従えて、京都に入り、戦争は一触即発状態になっていった。
この時、越前松平の3兄弟は初陣を迎えることとなった。世の中は関ケ原の戦い以来、15年間平和な戦のない時代を経験していたので、ほとんどの武士は実際の戦争を経験するのは初めてだった。越前松平家長男の忠直も初めての実践で気分が高揚したが。江戸から越前の家臣に戦争の準備をして、京都に来るように命令を出した。越前では家老の本多富正が軍勢を率い、近江の国、大津で忠直と合流した。
日ごろから江戸城にいた次男忠昌は軍議の後、兄忠直と話し合いを持った。江戸城の廊下で久しぶりに顔を合わせた2人は忠直から声をかけた。
「私は急ぎ京へ向かい、越前から来る本多富正たちと合流する。お前はどうする?」と聞くと忠昌は兄の顔をしっかりと見つめ
「無論、兄上と共に戦います。越前の軍勢として力を合わせましょう。」と声を荒げた。武芸には秀でた力自慢の2人だったが、実践は初めてという事で、気持ちが高ぶった。徳川家の孫として手柄をあげることは、運命にも感じていた。
その頃、越前では3男直政と母月照院が本多富正と話し合っていた。
「富正殿、この戦いは天下を統一した江戸幕府にとって、最後の大戦になりましょう。わが息子、直政はまだ13歳ですが、武士として、家康様の孫として、この機会を逃すと、手柄をあげることは出来ますまい。軍勢に中にどうか、直政をお加えください。」と懇願していた。直政も必死に富正に願い出ていた。
「御家老、私は家康様の孫ですが、お会いしたのは1回だけです。幼いころに京でお会いして幕府のために尽力するとお誓いしました。しかしそんな機会は一度もなく、今回の戦いは一生に一度のチャンスです。是非。軍勢に加えてください。」と言うと、苦み走った顔の富正は
「直政様、私は忠直様の名代で軍勢を率いて、上洛します。貴方様を同行することは構いませんが、戦いに加わるかどうかは大津で忠直様と合流して、忠昌様の御判断を仰いでください。」と判断を先延ばしした。
とりあえず軍勢に加わって上洛することになった直政は、城内の自室に戻り母と話し合った。
母である月照院は息子の直政を座らせ、真剣なまなざしで声を震わせて話し始めた。
「直政、よく聞くのです。そなたは家康様の孫です。将軍秀忠様は叔父です。また関ケ原で天下第一の功績をあげた秀康様が父です。そんな家系に育ったあなたはこの戦いで武功をあげる運命なのです。かならずや家康様のお目にかなう活躍で、褒美を得るのですよ。命を懸けて戦ってきなさい。」と発破をかけた。まだ少年の直政は初めての実践に、興奮を隠しきれず、目を赤くして母の手を握った。
母の月照院はこのチャンスを逃すまいと、家臣に命じて、有り金をはたいて武具を整えた。それでも足りない分は手紙を書き、京の大商人である金貸しから大金を借り受け、京で武具を買い整える手配をした。
3兄弟は10月24日、大津の寺で合流した。先に到着した忠直が本堂で食事をしていた。19歳になっていた忠直は体が大きく、筋肉もたくましかったが、とにかく初陣だったので死と背中合わせの実践に、身震いを隠せなかった。
そこに将軍秀忠の本隊と共に江戸からやってきた忠昌が現われると、待ち構えていた忠直は
「よく来たな、忠昌。道中は無事だったか?」と大きな声で聞くと、同じように大柄の忠昌は
「兄上、ご健勝でしたか。私の方は秀忠様といっしょでしたので、安全でした。20万の軍勢ですので、ゆっくりでした。」と答えると大きな長刀を取り出し、
「今から戦いが待ちどおしいです。」と言って長刀を振り回して見せた。2人は同じ母と父を持つ兄弟なので、性格的によく似たもの同士で、武者体質だった。
その日の夕方には越前から本多富正率いる本隊が到着した。富正は寺に入るとすぐに忠直の元に進み出て
「殿、ご無事でお付きでございますか。本隊5000騎は無事に大津に入りました。」と報告すると忠直は襟を正して、藩主らしく大きな声で
「ご苦労であった。戦いの準備は整っているか。」と問いかけた。すると富正は自身たっぴりに
「関ケ原の時代にはまだ、鉄砲が主流でしたが、今回は大筒を準備しました。ここに来る途中の大友の鉄砲鍛冶に注文を出しておいて、完成したものを先ほど手に入れてきました。他に鉄砲2百丁、馬50頭、兵糧として米200俵も持参しております。」と言うと忠直は満足そうな笑顔を見せ
「富正、さすが、徳川家の時代からの有力家臣じゃ。戦いに慣れていて抜け目がない。」と言って富正を大いに褒めた。
富正の背後には直政が控えていた。直政が前に出ると
「兄上、私も13歳でございます。天下を揺るがす大戦に、気持ちが高ぶっております。元服も済ませておりますので、今回の戦い、兄上の軍勢の中に加えていただきたく、ここまで参りました。どうかお許しを。」と言って頭を下げた。忠直は酒を傾けながら
「まだ、早いと思うが、このまま帰れと言っても、帰らないであろう。それにお前の母親から頑張って来いと言われているのだろう。とにかく命を大事にして、足手まといにならないように、死なないように戦うのだぞ。」と言って戦いに参加することを許した。
越前隊は翌日、家康と秀忠が待つ二条城に入って、徳川軍と合流した。京都の町は徳川軍本隊20万人と越前をはじめとした全国の大名の軍勢で、ごった返した。
11月18日、徳川軍は大阪城を南から責める形で、泉州に陣取った。豊臣軍は意見が分かれていて、大阪城から出て、近江の瀬田川あたりで戦うことを主張するグループと。秀吉が建設した堅牢な守りの大阪城に立て籠もって、持久戦に持ち込むことを主張するグループである。結局、籠城して持久戦に持ち込む意見が採用され、大阪城は戦いの戦場になった。
越前松平3人兄弟も家康軍にしたがって大阪城の南に陣取った。家康の軍議に加わった忠直だったが、家康から厳しい言葉を受けた。意気揚々と家康の前に現れた忠直を見て家康は大勢の軍師たちの前で
「忠直、お前はまだ初陣だ。焦る気持ちを押さえて、本多富正や成重の意見に従って行動せよ。大きな手柄をあげようと勝手な動きをすると、家臣団に多くの犠牲者を出すことになる。富正たちは戦い方をよく知っている。安心して任せよ。」と釘を刺された。
忠直は12歳で藩主になり、家老たちの意見に従って藩政を行ってきた。越前騒動では藩主ろしての意見を通すこともできず、幕府の裁定に従った。内政面でも意見が言えず、今度は軍事面でも家老たちの意見を尊重しろと言われたのだ。忠昌の心中は穏やかではなかった。家康に対する不信感さえ湧いていた。
しかし初陣であり、どうしてよいものか動きあぐねていたので従うしかなかった。
城の周りでいくつか小競り合いがあり、豊臣軍は数カ所の砦を放棄して、完全に城に立て籠もった。
家康は家臣に命じて、淀川の右岸堤防を破壊して、尼崎方面に水が流れていくように仕向けた。すると大阪城の外堀には淀川から供給されなくなり、水が半減していった。
さらに家康は南の大和川も左岸の堤防を切って、水を南に流した。するとみるみる大阪城の外堀は、水が無くなって空堀になっていった。
外堀の水が無くなって来た時、家康は陣営を前進させて、後方よりイギリスやオランダから購入した最新式の大砲を最前線に出させた。
この様子を見ていた忠直ら3人兄弟は、家康の恐ろしさを知った。大阪城の淀君は将軍秀忠の正室お江の姉であり、秀頼に嫁いだ千姫は秀忠の娘であり、家康の孫娘である。そんな大阪城に大砲を打ち込もうとしている。忠直にとっても正室の勝姫の叔母が淀君なのだ。親戚同士の戦いの一面もある戦いなのだ。
家康の形相は鬼のように赤みを帯びて、目は血走っている。
「撃て」と家康が声をあげると一斉に4台の大砲が火を噴いた、ヒューと言う音を立てて飛んでいった大砲の球は、はるかかなたの大阪城の側面にぶつかり、黒い城壁の側面に大きな穴をあけた。また、別の球は城の屋根を直撃した。屋根瓦が何枚か飛び散り、忠直たちの陣地から見ても屋根に穴が開いたのがわかった。
ただ、大砲の威力で敵をおびえさせた隙に、城へなだれ込もうとした徳、川軍は大きな代償を負うことになった。
大阪城の南の端に真田丸と言われた出城が建設されていたが、城内に進撃するにはここを突破しなくてはならない。12月4日の真田丸の戦いでは、越前松平軍は前田利常の軍勢に続いて井伊直孝の軍勢と先鋒を争い進撃するが、真田丸に籠る真田信繁(幸村)の反撃に遭い480人の戦死者を出す敗北に終わったのである。忠直も多くの家臣を失ったが、忠昌、直政の弟たちが無事だったかどうかも心配で、退却した陣地で、弟たちの生死を確かめた。
忠直は本多成重を見つけて
「忠昌と直政は無事か?」と聞くと成重は
「先ほどお見掛けいたしました。お二人とも後方におられて、無事だった模様です。」と報告した。忠直が少し安堵していると
「兄上、兄上」と大きな声がして、忠昌が陣幕の中に入ってきた。その後ろには幼い直政もついて来ていた。兜の方が大きくて、顔が少し隠れているが、直政だった。2人とも初めての実践で多くの殺し合いを目の当たりにして、放心状態になっていた。忠直自身も気丈にふるまっているが、興奮を抑えられずにいた。
「忠昌、直政。無事であったか。」と忠直が聞くと
「真田信繁という武将はとんでもない策士ですね。あの真田丸は少ない人数で多くの武将と互角に戦うために計算された出城です。あの出城を大砲で壊してしまわないと、厄介かもしれません。」と分析して忠昌が報告した。直政はまだ恐怖から体が震えていて、何も話せなかった。
忠直は戦況について富正、成重と話し合って家康に報告した。しかしこの冬の陣では越前軍は大きな戦果を挙げることはなかった。
戦争は和議に入った。大阪城の淀君の妹で、江戸城将軍の正室お江の姉であるお初が仲介に入った。お初は小浜の京極家に嫁いでいたが、豊臣と徳川に挟まれ、複雑な心境だったのである。
徳川方は淀君の人質と外堀を埋めることを要求し、豊臣方は淀君の人質を拒否。結局、外堀を埋める事で淀君の人質化は避けられた。
とりあえず家康は駿府に戻り、秀忠は二条城に入った。和睦が結ばれたことを一番喜んだのは、江戸城のお江だったのかもしれない。嫁いだ徳川家と姉の淀君がいる豊臣との戦争だったからだ。お江にとって淀君は特別な存在で、多くの恩義があった。お江は最初佐治一成と婚姻を結んでいるが、秀吉によって離縁し、その後、秀吉の姉の次男、豊臣秀勝と婚姻し、完子を出産している。しかし秀勝が文禄の役で病死し、その後徳川家の秀忠に嫁ぐにあたり、完子を姉の淀君に預けている。淀君はこの完子を養育すると宮中の九条家に嫁がせた。そんな恩義を感じる淀君との戦争が一応の和議を結べたことで、安堵の気持ちを持っただろう。
和議の後、家康はすぐに近江大友の刀鍛冶に大砲の注文を出している。すぐに次の戦争の準備に入っている。
4月になると大阪城に入っていた浪人たちが近畿地方で狼藉を働く事件が多発した。徳川幕府は豊臣家に浪人たちを放出するように要請した。そして近畿地方の浪人たちを征伐するので、豊臣家には大和か伊勢に国替えするように命じた。大阪城の淀君と秀頼はこの要求をはねのけたので、一気に開戦論が高ぶった。
北の庄に戻っていた忠直たちもすぐに戦争準備に入り、幕府の命令通り鳥羽伏見に終結した。今回の戦いは大和路から大阪に向かうとぃがわ群を迎え撃つ豊臣軍との戦いや、京都から大阪に向かう徳川軍と豊臣軍の戦いなど、大阪城から打って出た戦いが、いくつもあった。
その中で越前松平家が臨んだ戦いは八尾若江合戦と呼ばれる戦いだった。木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した、盛親隊が霧の中で藤堂高虎隊5,000と対峙した。この戦いで盛親は堤の上に将兵全員を下馬のうえ伏せさせ、敵が充分に近づいた頃合いを見計らって突撃するという戦法を取った。この勢いで藤堂隊は藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡した。藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され、撃退された。この時点で長宗我部隊は勝利していたが木村隊の敗走により幕府方の井伊直孝の援軍に挟撃されることを恐れ後退した。重成は高虎隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦の末に討死した。
越前松平軍はこの戦いのすぐ近くに陣取っていたが、松平忠直は動きを見せなかった。藤堂軍が大きな損失を受けたことで、忠直は窮地に立たされる。本隊の家康から呼び出しを受けた忠直は家康の前に立つと、家康は顔を紅潮させて
「忠直、お主は何を見ていたのだ。藤堂隊が待ちぶせされて大打撃を受けているのに、見ているだけで助けに行かないとはどういうことだ。味方として力を合わせることは、当たり前のことだ。初陣だからと言って許されるものではない。これからの戦いでは、兜の尾をしっかりと閉めて、力を尽くせ。」と叱責した。
忠直は多くの家臣団の前で、恥をさらされ立場が無くなってしまった。忠昌と直政も陣幕の影で兄が叱責される様子を、腹わたを煮え切らせて聞いていた。
家康の御前から出てきた忠直を取り囲んで、2人の弟が声をかけた。
「兄上、よく我慢してくださいました。越前松平家の名誉のためにも次の戦いでは、命を懸けて戦います。」と武闘派の忠昌が興奮気味に話した。直政も続いて
「兄上、私も悔しいです。大御所様は叱責されましたが、兄上に過失はありません。助けに出ていたら被害は拡大していたかもしれません。次回の戦いでは大御所の鼻を明かしましょう。越前松平、勇猛果敢な結城秀康の3人息子の力を見せつけましょう。私も命に代えて戦います。」と子供ながらに力強い言葉を発した、
翌日から天王寺・岡山の戦いが始まった。豊臣軍は天王寺口に真田信繁など14,500、岡山口には4,600が布陣した。
これに対する幕府方の配置は、40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開。天王寺口は16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。岡山口には27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。
正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者を出し、家康・秀忠本陣に迫った。両本陣は混乱に陥ったが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。豊臣軍は大坂城本丸に総退却した。
そこからは本丸、掘り返した堀以外の堀を埋められて裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術は豊臣方にはもはやなく、松平忠直の越前勢が一番乗りを果たした。そして徳川軍を苦しめた真田信繁の軍を壊滅させ、真田の大将の首を取る大殊勲をあげた。越前隊の勇猛さは群を抜いていて、次男忠昌は長刀を振り回し一番槍をはたし、敵の武将を多く成敗した。また13歳の直政も非力ながら何騎かの武将の首をあげた。みんな命がけで戦い、越前隊の名声は保たれた。
戦後、6月10日、二条城に諸大名が集められた。越前藩の3兄弟も大名たちの列席に並んで、家康や秀忠の登場を待った。二条城の広い謁見の間は、大坂の陣に加わった諸大名たちが、どんな褒美を頂けるのか楽しみにしていた。
しばらく三兄弟も近くに座った大名たちと、世間話をしていたが、突然太鼓の音が鳴り、上段の間の襖が開いた。秀忠と家康のお出ましである。大名たちは座った姿勢で頭を下げ。しばらく待っていいると
「面を上げよ」という合図で全員が体を起こした。
三兄弟も頭をあげて上段を見上げると、家康と秀忠が金糸の入った色鮮やかな羽織を着て、座っていた。
最初に秀忠将軍から今回の戦争について、各大名の尽力に感謝の言葉を述べ、戦功に応じての領地の分配について発表があった。西日本を中心に豊臣家の領地だった国が、分散して諸大名に与えられた。発表があるたびに歓声が上がり、大名たちは喜びを表していた。ただ越前松平藩に対する発表がないまま秀忠の発言は終了した。
越前松平の3兄弟が自分たちの名前が呼ばれないことに心配になり、お互いに顔を見合わせていると、大御所の家康が口を開いた。
「今回の戦いでの天下第一の勲功は越前松平家の松平忠直と忠昌、直政の三兄弟である。危険を顧みず、大阪城へ先陣として切り込み、見事真田信繁を打ち取った。また、次男忠昌は一番槍で多くの相手武将を打ち取った。また3男直政は若輩ながら勇猛果敢に兄たちに続き、大阪城内で暴れまわり、多くの敵将を打ち取った。今は亡き松平秀康の息子として輝かしい戦功であった。私から忠直には天下の名品として名高い“初花”を送ろう。また、姉ヶ崎藩主である忠昌には3万石の下妻藩を任そうと思う。そして直政には私の打飼袋(戦場でお菓子や食料を入れる袋)を授けよう。領地を授けるにはまだ早いので、兄上に相談しなさい。ただもう少し大きくなったら必ず今回の働きに報いてやるぞ。」と言って3人を褒めたたえた。
また、秀忠も越前藩の活躍を認め
「大御所様の言う通り、越前松平三兄弟の活躍は目覚ましかった。わたしからは牧谿作の「落雁」の絵を与える。」と言って見事な絵が授けられた。後日、越前松平軍が討ち取った首の数が3753と報告され、諸大名の中で1番の戦果だったことが知らされた。
この論攻褒章で家康も秀忠も次男の忠昌や3男の直政への褒美には迷いはなかった。しかし越前北の庄藩主松平忠直に対する褒美は、領地を増やすかどうかを迷った。越前藩は関ケ原の乱の功績で68万石を与えている。これ以上の領地を与えることは、強大な勢力で幕府に対抗することになりはしないか。父親の結城(松平)秀康は幼いころに羽柴家に養子に出されていて、一時期は豊臣の後継者になっていたかもしれない人物で、忠直はその長男であるから、心の底では豊臣を思う気持ちがあるかもしれないという疑念が消えなかったのだ。それに秀忠にとっては秀康は子供の頃からの最大のライバルだったのだ。戦功が大きかったと言っても、心の底から感謝は出来ずにいた。
しかし、もっと疑念を持っていたのは忠直自身だった。他の大名たちは領地を加増され、弟たち2人も領地の加増を約束されていたのだ。それに引き換え、天下第一の勲功と評価されながら茶道具と絵が一枚である。いくら天下に名の知れた名品と達人が描いた名画とは言え、所詮は品物であり、家臣や領民たちを喜ばせることは出来ない。顔では感謝の気持ちを表して笑顔を作ってはいるが、心の中では複雑な気持ちで落胆の表情が出ていないか心配した。そして何よりも彼の気持ちを揺るがせたのは、将軍職が壇上にいる忠直ではなく、わが父秀康であったなら、自分があの場所に座っていたかもしれないというむなしさだった。彼はこの運命のいたずらに一生悩まされることになる。




