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第91話 白村江の戦い

乙巳(いっし)の変の後、あまりのショッキングな出来事に母の皇(こう)極(ぎょく)は退位し、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の叔父にあたる「孝(こう)徳(とく)」が36代天皇に即位した。

孝徳天皇は、即位後「難波宮(なにわのみや)」へ遷都した。

彼もまた、自分の思い通りの政治をするためである。

ところが、中大兄皇子にしてみれば想定外の出来事であった。

命がけで成し遂げた乙巳の変において、孝徳天皇は何も関わっていない。

なのに、彼は思い通りに国を動かそうとしている。

中大兄皇子は到底納得がいかなかった。

怒り心頭の中大兄皇子は役人を引き連れ「飛鳥宮(あすかのみや)」へ帰ってしまった。

取り残された孝徳天皇は、難波宮で寂しく崩御した。

残された一子、有馬(ありま)皇子(のみこ)も蘇我の残党に担ぎ上げられ謀反の首謀者になってしまいこれまた中大兄皇子に滅ぼされてしまった。

天皇の適任が自分だけになった中大兄皇子は自身が即位するのではなく、母の皇極(こうぎょく)を「斉(さい)明(めい)」と改め37代天皇に即位させた。

それでもこの時点で中大兄皇子の権力は揺るぎないものである。

ところがそうやすやすとはいかななかった。

朝鮮半島の同盟国「百済(くだら)」が隣国「新羅(しらぎ)」に攻められ、崩壊の危機に瀕していると知らせが入ったのだ。

あわてた中大兄皇子はすぐさま大軍を百済に派兵した。

そのとき士気を高めるべく、かの神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)にならい斉明天皇は軍船に乗船した。

だがその途中、病のため崩御してしまった。

乙巳(いっし)の変から16年後(西暦661年)のことである。

悲しむ中大兄皇子だが、天皇空位のままで百済に向かった。

ようやく百済の「白(はく)村江(すぎのえ)」に到着し、上陸しようとしたとき、後ろから雨のような矢が飛んできた。唐の軍である。

唐(とう)は乙巳の変の27年前(西暦618年)、隋(ずい)の煬(よう)帝(だい)を滅ぼしてできた中華の国である。

初代皇帝は李(り)淵(えん)。

李淵のルーツを遡ると李(り)信(しん)に行きつく。

そうなのだ、秦の始皇帝、嬴(えい)政(せい)が幼少の頃、趙(ちょう)の兵隊に追われているのを助けた饅頭屋の小僧、信なのだ。

信はその後、李の姓をもらい、中華最強の将軍とうたわれた王翦(おうせん)将軍に師事し、やがて20万の大軍を指揮する大将軍になるも、始皇帝崩御後、宦官(かんがん)の趙(ちょう)高(こう)が実権を握ると、さっさと領地の咸(かん)陽(よう)の北へ引っ込んでしまったのである。

その後、漢の時代になろうと五(ご)胡(こ)十六(じゅうろく)国(こく)の時代になろうと領地を守り抜き、とうとう李淵が中華を統一したのである。

想定外の唐の攻撃に日本軍は総崩れとなり、大敗を喫してしまった。

この敗因は、意外なところにあった。

それは秦(はた)河(かわ)勝(かつ)が結果的に追放されたからに他ならない。

河勝は中華の国に情報を提供してくれる仲間がたくさんいた。

毎年、定期的に情報のやり取りをしていたが、蘇我氏に追われて以降、その情報網は寸断された。

遣隋使、その後の遣唐使からの情報があるだろうといっても、生の生きた情報が入るわけはなかった。


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