幕間の十七・終わらない呼び声──学院研究棟で
>今回は少し時間を戻して、
学院研究棟で過ごしていた、ある昼下がりのお話です。
学院には多くの教授や術士、学生たちがいて、
それぞれが研究や授業、術式の管理など、毎日の役割を担っています。
そんな日常の中では、
何かが上手く動かなかったり、突然困ったことが起きたり、
どうしても誰かの力を借りなければならないこともあります。
そして不思議なことに、
「困った時には、あの人に聞けば何とかなる」
そんな存在には、いつの間にかいろいろな声が集まってくるものですw
今回は学院の日常とともに、
一人の若き副教授が過ごす、なかなか終わらない昼下がりを楽しんでいただけたら嬉しいです。
幕間の十七、その平和な日々をw
昼下がりの学院研究棟には、今日も術士や学生たちの慌ただしい足音が響いていた。
廊下には資料を抱えて走る学生や、術式具を運ぶ学院術士。
研究成果を報告し合う教授たちの姿も絶えない。
その一角、研究棟最奥の一室では、一人の青年が静かに机へ向かっていた。
砂色の短髪は丁寧に整えられ、淡金の縁眼鏡の奥では、澄んだ灰青色の瞳が資料へ静かに落とされている。
二十五歳ほどの若々しい容姿。
濃紺の学院ローブには精緻な幾何学紋様が縫い込まれ、胸元には副教授を示す銀環の徽章が静かに揺れていた。
机の上には通信術式盤、魔導水晶、羽根筆、数冊の研究資料が寸分の狂いもなく整然と並べられている。
青年は指先で資料の角をわずかに揃え、術式盤の向きをほんの数ミリだけ整える。
それだけで、どこか全体の均衡が取れたような空気が生まれた。
ビグトラス遠古学院副教授、ルシアン・セルビア。
通信術式と座標制御を専門とし、学院随一の精密術式を扱う若き術士だった。
「さて……」
ルシアンは小さく息を吐き、ようやく椅子へ腰を下ろす。
湯気の立つ紅茶へ静かに手を伸ばした。
その時だった。
「ルシアン副教授ーー!」
廊下の向こうから、一人の学生が息を切らしながら駆けてくる。
ルシアンは紅茶へ伸ばしかけた手を止め、静かに顔を上げた。
「……どうした」
学生は胸に抱えた通信魔導具を差し出す。
「通信術式が急に繋がらなくなってしまって……」
「今日中に提出しないといけない資料が送れません!」
ルシアンは黙って魔導具を受け取る。
眼鏡を指先で軽く押し上げ、術式環へ静かに視線を落とした。
瞬間ーー
指先が術式紋へ一度だけ触れる。
カチッ。
淡い白い光が流れ、止まっていた術式環が再びゆっくりと回転を始めた。
「接続術式が一箇所ずれている」
「次からは、ここを先に確認するといい」
学生は目を丸くする。
「えっ……もう直ったんですか?」
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げ、学生は嬉しそうに廊下を駆けていった。
ルシアンは小さく息を吐き、研究室へ戻る。
机の上は、先ほどと寸分違わぬ位置へ整えられていた。
彼は術式盤をほんの僅かだけ右へ寄せ、羽根筆の角度を揃え、静かに椅子へ腰を下ろす。
ようやく紅茶を手に取り、一口飲もうとした。
「ルシアン副教授ーー!」
まただった。
今度は学院術士が研究室へ飛び込んでくる。
「第一結界門が閉じません!」
「教授たちが何度起動しても、途中で止まってしまって……!」
ルシアンは紅茶を見つめる。
まだ一口も飲めていない。
数秒ーー
静かに茶杯を元の位置へ戻す。
「……今行く」
ルシアンは学院術士の後を追い、第一結界門へ足を運んだ。
そこには数名の教授と術士たちが集まり、巨大な結界門を見上げている。
淡い光を放つはずの術式環は、途中で止まったまま微かに明滅を繰り返していた。
「副教授」
「何度起動しても閉じません」
ルシアンは答えず、結界門全体を静かに見上げる。
やがて眼鏡をそっと押し上げ、術式環、導線、固定具、魔力流へと順番に視線を走らせていく。
数秒ーー
「……違う」
小さく呟き、彼は門ではなく数メートル離れた壁際へ歩いていった。
「副教授?」
周囲が不思議そうに見守る。
ルシアンは壁へ埋め込まれた小さな魔導石へ触れ、指先でほんの僅かに向きを回す。
コトッ。
次の瞬間ーー
ブゥンーー
止まっていた巨大な術式環が、ゆっくりと回転を始めた。
幾重もの結界紋様が重なり合い、巨大な結界門は何事もなかったかのように静かに閉じていく。
「閉じた……!」
「原因はそっちだったのか……」
学院術士たちは驚きを隠せない。
ルシアンは静かに説明する。
「結界門に異常はない」
「補正用の基準石が、僅かに傾いていた」
「全体を直そうとするより、基準を戻した方が早い」
「なるほど……」
教授たちも思わず感心したように頷いた。
「助かった」
「ありがとうございます、副教授」
ルシアンは軽く会釈し、再び研究棟へ戻る。
研究室へ入ると、静かな空気が迎えてくれた。
「……ようやく」
机へ歩み寄る。
羽根筆の角度を揃え、術式盤を真っ直ぐに置き直し、少しだけ傾いていた紅茶の取っ手まで元の向きへ整える。
満足そうに小さく頷き、椅子へ腰を下ろした。
茶杯を持ち上げる。
今度こそ口元へ運ぼうとした、その瞬間だった。
コンコン。
「ルシアン副教授」
今度は控えめなノックだった。
「……どうぞ」
扉が開き、一人の教授が申し訳なさそうに顔を覗かせる。
「すまない」
「校長がお呼びだ」
ルシアンは小さく息を吐き、机の上の紅茶へ静かに視線を落とした。
「……また、冷めてしまいますね」
ぽつりと漏れた独り言だった。
教授は思わず苦笑する。
「今日は何杯目だ?」
ルシアンは少し考え、静かに答えた。
「四杯目です」
「……まだ、一口も飲めていません」
「ははっ……それは気の毒だ」
教授は肩を竦め、苦笑いを浮かべた。
「校長も本当は君を休ませたいんだ」
「だが、困ると皆、真っ先に君を頼ってしまう」
ルシアンは眼鏡を軽く押し上げ、静かに立ち上がる。
「頼っていただけるのは、ありがたいことです」
そう言うと学院ローブの襟元を整え、机の上へ一度だけ視線を向けた。
羽根筆
術式盤
通信水晶
積み重ねられた研究資料。
ほんの僅かにずれていた羽根筆を揃え、小さく頷く。
「では、行ってまいります」
「ああ」
「頼んだよ」
ルシアンは静かに研究室を後にした。
数分後ーー
校長室の前で足を止め、学院ローブを整えると、眼鏡をそっと押し上げた。
コンコン。
「失礼します」
「ルシアンです」
「入りなさい」
聞き慣れた穏やかな声が返ってきた。
ルシアンは静かに扉を開け、校長室へ足を踏み入れた。
>幕間の十七を最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は学院研究棟で過ごす、ルシアンの何気ない一日を描いてみました......
自分の仕事を進めようとしているのに、
気がつけば誰かに呼ばれ、戻ってきたと思ったら、また別の誰かに呼ばれる......
頼られることは嬉しいことですが、
それが何度も続くと、なかなか自分の時間には戻れないものですねw
それでも嫌な顔をせず、一つずつ問題と向き合っていく。
そんな何気ない行動の積み重ねからも、
その人が周囲からどのように見られ、どんな存在として頼られているのかが少しずつ見えてくる気がします。
そして今回、
一番報われなかったのは、もしかするとルシアンではなく――
何度も飲まれる直前まで辿り着きながら、
最後まで一口も飲んでもらえなかった紅茶なのかもしれませんw
次に研究室へ戻った時こそ、
無事に飲めることを願いマウスーー
♪ \(^ω^\ )




