第66話――旧風鈴通り――戻らない囮音
>第66話では、灰霧に覆われた旧風鈴通りが舞台となります。
割れた風鈴、崩れた軒先、沈黙した通り。その静けさは、嵐の前の静寂ではなく、“何かがこちらを見ている”ような不穏さを帯びています。
囮音が戻らないまま沈黙するリクトの耳飾り。結界線の薄い場所だけを探るように動く異獣たち。そして、ジャスが初めて実戦で判断を下す場面が描かれます。
この回は、「見えない意図を持つ敵」と初めて向き合う緊張の入口となる一話です。
時刻:3670シヴン年12月25日 AM 08:08
場所:ビグトラス島・旧風鈴通り
膨らんだ灰霧は、なお旧風鈴通りの奥を覆っていた。
だが、すぐには何も飛び出してこない。
割れた風鈴。
傾いた標識。
崩れた軒先。
通りは息を潜めたような静けさに包まれ、そのすべてが灰色の霧の向こうから、じっとこちらを窺っているようだった。
ジャスは喉の奥で息を押し殺し、右手をわずかに上げる。
「列を崩すな」
短い一言だった。
だが、それだけで前へ出かけていたエフィチの足が止まり、後ろのリクトも冗談を口にしかけたまま唇を閉じた。
「来るなら、こっちから見える位置で受ける」
ジャスの声には、まだ慣れない硬さがあった。
命令に慣れた声ではない。
それでも、今ここで誰かが決めなければ、全員が灰霧の中でばらばらになる。
エフィチは大きく息を吐き、前へ出る。
バライト・コンもその隣へ並び、腰の透明な徽環へ静かに指を添えた。
中列では、プリヴィがずり落ちかけた丸い眼鏡をそっと押し上げ、細い結界線を見つめていた。
指先が小さく震えている。
彼女はそれを隠すように、胸元の魔導キャンディを噛みしめる。
「……結界線、まだ持ってる」
「でも、薄いところがある」
「右の壁際と、足元……そこ、踏みすぎないで」
「分かった」
リプレイト・コスが静かに応じた。
その声は霧の中でも妙に落ち着いている。
彼は一度だけバライトの背中へ視線を送り、小さく頷いた。
バライトは気づかないふりをしたのか、それとも本当に気づいていなかったのか、何も反応を見せなかった。
リクトは後列で右耳の銀の魔導飾りへそっと触れる。
囮音から返るはずの反応は、まだ戻らない。
「……まあ、寄り道してるだけだろ」
わざと軽く笑う。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「リクト」
ジャスは振り返らない。
「分かってる」
笑みだけを細く残し、肩をすくめる。
「もう一つ出せる。今度は短いやつにする」
「まだだ」
ジャスは即座に制した。
「向こうが見えるまで、音を増やすな」
その判断に、リクトは一瞬だけ目を細める。
いつものように軽口を叩こうとした。
だが、前だけを真っ直ぐ見据えたジャスの張り詰めた横顔を見て――
最後は何も言わず、口を閉じた。
霧の奥で、
何かが石畳を引っかいた。
きい、と。
爪が石を削るような甲高い音だけが、静まり返った旧風鈴通りへ細く響く。
プリヴィの肩が小さく跳ねた。
エフィチはすぐに防壁術式を構え、バライトも腰元の透明な徽環を展開する。
八角の光が静かに広がり、結界線へ淡く重なった。
リプレイトはその隣で、何も言わず周囲を見渡している。
灰霧の奥から、一つ。
低く身を伏せた影がゆっくりと姿を現す。灰黒い外殻に薄い骨板、異様に長い前脚を持つ、小型の異獣だった。
だが、その異獣は飛びかかってはこなかった。
結界線の手前で足を止め、鼻先を地面すれすれまで下げながら、ゆっくりと右へ動いていく。
「……何だ、あれ」
エフィチが低く呟く。
崩れた壁の上へ、別の影が姿を現した。
さらに左の軒下からも、細い爪が静かに石畳を掴む。
ジャスの背筋を冷たいものが走る。
数が多い。
それだけじゃない。
動きがおかしい。
突っ込んでこない。
吠えない。
ただ、
こちらの陣形を見ている。
「エフィチ、正面」
「バライト、足元固定」
「プリヴィ、右を見るな。左だ」
「リクト、まだ音は出すな」
指示を飛ばしながら、ジャスも静かに腰の徽環へ手を添える。
灰霧の中で、
最初の異獣が、
ゆっくりと牙を剥いた。
次の瞬間だった。
右の壁際を這っていた一頭が、音もなく駆ける。
「来る!」
エフィチは一歩踏み込み、防壁術式を展開した。
淡い光壁が前方へ広がる。
小型異獣は真正面から飛び込んでくる――
そう見えた。
だが寸前で身をひねり、鋭い爪で地面を掴むと、そのまま壁際へ駆け抜ける。
「避けた?」
エフィチが目を見開く。
「違う!」
プリヴィが思わず声を上げた。
「結界線を見てる!」
異獣は壁沿いを低く走りながら、歪な頭部を何度も結界線へ近づけていた。
まるで、
その強度を探るように。
「正面じゃない!」
「壁際だ!」
ジャスが叫ぶ。
その直後、壁の上にいた二頭目が跳びかかった。
「上だ!」
エフィチは咄嗟に防壁を持ち上げる。
鈍い衝撃が腕を貫いた。
「ぐっ……!」
防壁は砕けない。
それでも衝撃を受け止めた身体は、半歩だけ押し戻された。
その隙を狙うように、
三頭目が左の軒下から姿を現した。
ジャスは素早く一歩前へ踏み出し、中列からエフィチの背後へ寄る。
視線は正面の二頭から離さない。
それでも左から迫る三頭目だけは、視界の端でしっかり捉えていた。
リクトは反射的に右耳の魔導飾りへ手を添える。
今なら、
囮音で一頭くらいは引き離せるかもしれない。
「ジャス!」
振り返ることなく、
ジャスは鋭く言い切った。
「まだだ!」
「囮音は出すな!」
リクトは息を詰め、
ゆっくりと右手を下ろす。
握り締めた拳だけが、小さく震えていた。
ジャスはすぐに前へ出る。
エフィチの肩越しから異獣の動きを見極めながら、大きく左手を振った。
「エフィチ!」
「踏ん張れ!」
「分かってる!」
エフィチは重心を落とし、防壁を押し返すように両足を踏み締める。
その横へバライトが半歩滑るように寄り、腰の徽環へ静かに指を添えた。
透明な光が石畳を走り、エフィチの足元へ重なる。揺れていた結界線も、ようやくわずかに安定した。
後方では、リプレイトだけが静かに異獣の動きを追っている。
その瞬間だった。
壁際を走っていた一頭が急に身を翻し、一直線に飛び込んでくる――そう見えた。
だが、異獣は防壁の寸前で軌道を変える。狙ったのはエフィチではない。結界線と石壁が交わる、そのわずかな隙間だった。
「そこか!」
ジャスは反射的に徽環を引き上げる。
解放された風刃が唸りを上げ、
灰霧を裂いて走った。
しかし、
刃は異獣の肩口を掠めただけだった。
骨板へ火花を散らし、
弾かれる。
「ちっ……!」
実戦で放つ初めての攻撃術式。
距離も間合いも、
まだ身体が覚え切れていなかった。
その横で、
プリヴィは眼鏡を押し上げることも忘れ、
異獣の爪先だけを見つめていた。
「……違う。」
震える声が漏れる。
「傷つけようとしてるんじゃない……」
誰も答えない。
プリヴィだけが細い結界線を追い続けていた。
「薄いところを……探してる。」
プリヴィの小さな声が、
雨音へ溶けるように落ちた。
エフィチは防壁を支えたまま壁際へ視線を走らせる。
「薄いところ……?」
異獣は結界線の手前で足を止めた。
歪に寄せ集められた頭部がゆっくりと傾き、鼻先が結界線をなぞるように左右へ揺れる。どこが目で、どこが鼻なのか判別できないまま、わずかな隙間だけを探るように動き続けていた。
その様子を見たバライトの表情が変わる。
徽環へ添えた指先に静かに力が入り、小さく息を呑んだ。
「……確かに。」
ジャスは返事をしない。
風刃を構えたまま灰霧を巡る三頭の動きだけを追い続ける。一頭は壁際を回り、一頭は結界線へ寄り、もう一頭は距離を測るように歩幅だけを変えていた。
誰も正面へは来ない。
狙っているのは人ではなく、結界線だった。
ジャスの背筋を冷たいものが走る。
「……そういうことか。」
低く呟くと同時に右手を鋭く振る。
「正面だけ見るな!」
「薄いところを守れ!」
エフィチはすぐに半歩左へ滑り、防壁ごと壁際へ重心を寄せる。バライトも横へ並び、透明な術式が石畳を走って結界線へ重なった。
プリヴィは眼鏡を押し上げる間も惜しみ、震え続ける結界線を見つめ続ける。リクトは右耳へ伸ばしかけた手を止め、リプレイトも無言のまま異獣の軌道を追った。
プリヴィの見立ては、
間違っていなかった。
三頭の異獣が同時に動いた。
壁際を走っていた一頭が結界線へ前脚を振り下ろし、鋭い爪が透明な光へ食い込む。甲高い音が旧風鈴通りへ響き、細い結界線は波紋のように大きく震えた。
「っ!」
プリヴィは反射的に徽環を握り締める。
細い補助術式を重ねて揺れを抑え込もうとするが、震えは収まらない。
「抑えきれない……!」
その横ではエフィチが防壁を押し込みながら一歩踏み出す。
間合いを詰めた瞬間、壁の上にいた二頭目が大きく跳び上がり、防壁の上から襲いかかった。
「上だ!」
ジャスの声が飛ぶ。
エフィチは咄嗟に防壁を斜めへ持ち上げる。鈍い衝撃が両腕を貫き、踏み締めた石畳が雨水を弾きながら半歩後ろへ滑った。
「ぐっ……!」
押し返されるエフィチの横へ、バライトが素早く滑り込む。
透明な徽環が一段強く輝き、補正術式が足元へ重なる。崩れかけた体勢は、かろうじて踏み止まった。
「支える!」
「助かる!」
だが、その間にも左の壁際では三頭目が結界線の前で足を止める。
歪な頭部をゆっくり揺らしながら、どこに感覚器官があるのかも分からないまま、結界線の周囲だけを執拗になぞり続けていた。
「ジャス!」
リクトが異獣から目を離さず叫ぶ。
「何だ!」
「何で風刃なんだ!」
「お前、本当は火の方が得意だろ!」
ジャスは答えない。
風刃を構えたまま異獣を睨み続ける。
だが、三頭が一斉に結界線へ踏み込んだ瞬間、小さく舌打ちした。
「……ちっ」
今は意地を張っている場合じゃない。
ジャスは短く息を吐き、腰の徽環へ添えた指先を滑らせる。
風色の術式光が静かに薄れ、その奥から深い紅の光が幾筋も走った。掌へ集まる熱は重く、風刃とは比べものにならない鼓動を帯びている。
学院で幾度となく扱ってきた火術式。
異獣へ向けて放つのは――
これが初めてだった。
ジャスは一歩前へ踏み出し、エフィチの防壁へ寄るように位置を変える。灰霧の向こうで動く三頭の異獣から目を離さず、ゆっくりと右手を掲げた。
「エフィチ!」
「三秒だけ耐えろ!」
「三秒なら!」
エフィチは歯を食いしばり、防壁へ全身の体重を預ける。
三頭の異獣が同時に結界線へ爪を振り下ろす。甲高い軋みが旧風鈴通りへ響き、プリヴィは補助術式を重ね、バライトも術式の出力をさらに引き上げた。
それでも結界線は悲鳴を上げ続けていた。
ジャスは掌へ集まる熱を握り締める。
赤く燃える術式紋が幾重にも重なり、静かに古代術語を紡いだ。
「ラウ・ヴェル・イグナ──」
「火壁守土!」
赤い炎壁が旧風鈴通りを一直線に駆け抜ける。
三頭の異獣は反射的に足を止め、その熱へ警戒するように身を引いた。
ジャスはその一瞬を逃さない。
「バライト!」
「リプレイト!」
二人が同時に前へ出る。
「無属性で叩け!」
「了解!」
バライトは大きく踏み込み、透明な徽環を前方へ掲げた。
無色の術式紋が石畳へ幾重にも広がり、異獣の進行方向へ一直線に重なっていく。
「支点圧杭!」
異獣の前脚が地を踏み締めた、その瞬間だった。
足元へ打ち込まれた無属性の術式が一気に収束し、石畳が杭のように跳ね上がる。踏み込んだ力は逃げ場を失い、その衝撃が異獣自身の骨板へ叩き返された。
鈍い衝撃音が響き、巨体が大きく体勢を崩す。
「今!」
バライトの声とほぼ同時に、リプレイトの徽環が静かに光を帯びた。
無色の術式紋が幾重もの細い環となって異獣を包み込み、わずかに揺らいだ重心へ静かに干渉していく。
「反転補正」
崩れかけた異獣の重心が、ほんのわずかに反転する。
立て直そうとした後脚は逆方向へ流れ、支えようとした前脚も角度を狂わされた。その一瞬の歪みだけで十分だった。
異獣は勢いを支え切れず、石畳を削りながら大きく横へ転倒する。
ジャスの目が鋭く光った。
「エフィチ!」
「押し返せ!」
「おおっ!」
エフィチは雄叫びとともに踏み込み、防壁を真正面から叩きつける。
激しい衝撃が旧風鈴通りへ響き、体勢を崩した異獣はそのまま崩れた石壁へ吹き飛ばされた。
砕けた骨板が雨の中へ飛び散り、三頭の異獣は短く痙攣すると、そのまま動きを止める。
エフィチは大きく息を吐き、防壁をゆっくり下ろした。
バライトも徽環から手を離し、ようやく肩の力を抜く。
プリヴィは胸元の魔導キャンディを握り直しながら、眼鏡の奥で結界線を一本ずつ確かめていった。
「……何とか、なったかな」
リクトが右耳の魔導飾りへ触れ、小さく肩を回す。
「思ったより大したこと――」
「リクト。」
ジャスの低い声が、その言葉を遮った。
リクトは苦笑しながら肩をすくめる。
「はいはい。まだ終わってない、だろ?」
その時だった。
プリヴィの歩みが、不意に止まる。
眼鏡の奥の瞳がゆっくり見開かれ、胸元へ添えていた指先が小さく震えた。
「……違う。」
誰へ向けた言葉でもない。
灰霧の奥を見つめたまま、一歩だけ後ろへ下がる。
「この反応……」
「さっきの小型じゃない。」
旧風鈴通りの奥で、
重い何かが地面を踏んだ。
どん……
少し遅れて、
もう一度。
どん……
石畳がわずかに震え、崩れた風鈴がかすかに揺れる。
灰霧の向こうで、
二人分の背丈を優に超える巨体が、ゆっくりと身を起こした。
横へも大きく張り出したその姿は、小屋がそのまま歩き出したかのようだった。灰黒い骨板は幾重にも重なり、節々の歪な突起が生き物のように脈打っている。
頭部には形の定まらない器官が幾つも癒着し、どこが眼で、どこが口なのかさえ判別できない。
ただ、
暗い肉塊の奥で、
幾つもの赤黒い光だけが、
ゆっくりとこちらを向いた。
誰も動けなかった。
旧風鈴通りを満たすのは、張り詰めた空気だけだった。雨音さえ遠ざかったような静けさの中、ジャスは徽環へ添えた手に力を込める。
エフィチも防壁を下ろさないまま重心を落とし、バライトとリプレイトも術式を維持したまま、一瞬たりとも異獣から目を離さなかった。
異獣は咆哮しない。
威嚇することもなく、重い足音だけを響かせながら一歩、また一歩と石畳を踏み締めて近づいてくる。
そのたびに足元へ鈍い振動が伝わり、崩れた軒先に残る風鈴がかすかに揺れた。
やがて、
その巨体がゆっくりと向きを変える。
ジャスの眉がわずかに動く。
エフィチは反射的に防壁を向け直し、バライトとリプレイトの視線もその動きを追った。
だが、
異獣はこちらへは来なかった。
灰霧を押し分けるように歩みを変え、そのまま旧風鈴通りの奥へ進み始める。
リクトは右耳の魔導飾りへ指を添えたまま、その足音だけを静かに追っていた。
やがて小さく息を呑む。
「……ジャス。」
「何だ。」
「あいつ……」
異獣から目を離さないまま、小さく首を振る。
「俺たちを狙ってるんじゃない。」
「向かう先が、別にある。」
エフィチは張り詰めていた息をゆっくり吐き出し、胸を軽く二度叩く。
「ふぅ……助かった。」
「運がよかったぜ。」
だが、ジャスは灰霧の奥から目を離さなかった。
プリヴィは眼鏡を押し上げ、細い結界線を見つめ直した。
「……結界線の揺れも、向こうへ流れてる。」
「この先を目指してる。」
ジャスは灰霧の奥を見据えたまま、小さく息を吐く。
「気を抜くな。」
「学院までは、まだ距離がある。」
「今のうちに急ぐぞ。」
エフィチと目が合う。
バライトが静かに頷き、リプレイトも何も言わず小さく頷き返した。
ジャスは短く息を吸う。
「……行くぞ。」
「無駄な戦闘は避ける。」
四人は短く頷き合い、再び隊列を整えると、灰霧の奥を警戒しながら、
学院を目指して一斉に駆け出した。
>いつも読んでくださり、ありがとうございます。
第66話は、旧風鈴通りでの戦闘と、
“異獣の行動が変わり始めている”
という兆しを描きました。
これまでの異獣は、ただ襲いかかるだけの存在でした。
しかし今回、彼らは人ではなく 結界線そのもの を狙い、薄い場所を探り、突破しようとする動きを見せています。
ジャスが初めて火術式を実戦で放ち、仲間たちがそれぞれの役割を果たしながら、わずかな隙を埋めていく姿もこの回の大きな軸です。
そして、通りの奥へ現れた“巨体”。彼らを狙わず、別の目的地へ向かうその姿は、島の異変がすでに「別の段階」へ進んでいることを示しています。
物語はさらに危険な領域へ踏み込んでいきます。
どうか、この先も見届けてくださいね~
(^∇^)ノ♪




