第64話——帰風崖――風は見ていた(前篇)
>第64話では、
ビグトラス島に古くから伝わる、
「風送り」の儀が描かれます。
戦いの傷跡がまだ島のあちこちに残る中、
帰風崖だけは夜明け前から静かに整えられ、
風と海へ、
想いを託すための場所として、
清められていきます。環風は本来、島の人々の生活と共にあるもの。
旅立つ者を迎え、帰る者を導く、島の呼吸そのもの。
その風の前で、
人々は言葉を多く持たず、
ただ静かに祈りを重ねていきます。
そして、儀式の中で揺れる......
時刻:3670シヴン年12月25日 AM 07:20
場所:ビグトラス島・帰風崖
高地を渡る環風が、帰風崖を静かに吹き抜けていた。
厚く垂れ込めた灰雲の切れ間から、朝の淡い光が海面へ細く差し込む。
崖の麓では、昨夜討ち倒された異獣の亡骸が、いくつも横たわっていた。
巨大な爪が岩壁を抉った跡。
崩れ落ちた岩棚。
黒く焼け焦げた木々。
潮風には、血と焦土の匂いが今なお残り、島は、まだ戦いの中にあったーー
異獣の掃討は終わっていない。
負傷者の搬送も、崩壊した街への立ち入りも、まだ思うようには進んでいなかった……
だから今日、この場所へ集まった者は多くない。
シャミール侯爵家の者たち。
長年侯爵家へ仕えてきた家臣と従者。
そして、遠古学院から弔意を託された代表が一人……
防衛隊の姿はない。
今もなお、島の各地で剣を振るい、人々の命を守り続けているからだった。
それでも、この場所だけは夜明け前から丁寧に清められていた。
戦場の匂いは崖の途中まで。
祭壇の周囲には、血痕一つ残されていない。
白く整えられた石畳。
風に揺れる青と白の送風布。
祭壇の傍らには、一つの風鈴が静かに吊るされていた……
リーン……
澄んだ音色だけが、果てのない灰色の海へ流れていく。
帰風崖ーー
ビグトラス島で、旅立つ者を最後に見送る場所。
この島では、人は風と共に生きる。
婚礼の日には迎風橋を渡り、新たな人生を歩み始める。
そして別れの日には帰風崖へ集い、最後の想いを環風へ託す。
風は帰る道を知り。
海は還る場所を知る。
だから、この島では誰も空へ向かって泣き叫ばない。
引き止めることもしない。
ただ静かに、旅立つ者の帰路を願う。
それが、ビグトラス島に古くから伝わる、風送りの儀だった。
やがて、
一人の祭司が祭壇の前へ歩み出る。
深い青と白の祭礼衣が、
環風を受けて静かに揺れた。
祭司は祭壇へ一礼すると、
胸元で両手を重ね、
静かに目を閉じる……
「戦時につき、
本日の風送りは簡略の儀を執り行いますーー」
誰も口を開かない。
波の音だけが、
静かに崖下から響いてくる……
「風は、
生ある者の歩みを見届け。
還る者の道もまた、
忘れることはありません」
祭司は祭壇へ歩み寄り、
一枚の青い送風布へ手を添えた。
「海を愛した想いを、
風へーー」
続いて、
白い送風布へ手を重ねる。
「歩むはずだった未来を、
風へーー」
静かに、
二枚の送風布が重ねられる。
一本の風結びが結ばれた瞬間、
環風が少しだけ強く吹き抜けた……
リーン……
風鈴が、
もう一度だけ澄んだ音を響かせる。
祭司はゆっくりと顔を上げ、
静かに告げた。
「皆様ーー」
「最後のお見送りを……」
祭司は、
ゆっくりと両手を胸元へ重ねた……
環風が、
青と白の送風布を静かに揺らすーー
リーン……
風鈴が鳴る。
一度。
そして、
もう一度……
祭司は静かに口を開いた。
「今ここに、
一つの命が風へ還ります」
「残された想いは、
風が受け取り……」
「歩き続ける者たちへ、
再び巡らせてくれるでしょう」
祭司は祭壇へ向き直る。
両手で、
風結びへそっと触れた。
「青き風は、
海を愛した心をーー」
「白き風は、
未来へ託された願いをーー」
ゆっくりと、
二枚の送風布が持ち上げられる。
環風が吹く。
布は羽ばたくように揺れ、
朝の空へ静かに舞い上がった……
リーン……
澄んだ音だけが、
帰風崖いっぱいへ広がる。
「どうか、
最後のお別れを……」
最前列にいたノーラントン侯爵が、
静かに一歩、
祭壇の前へ歩み出たーー
ノーラントン侯爵は、
祭壇の前で足を止めた……
環風が、
黒い礼装の裾を静かに揺らしていくーー
目の前には、
風結び。
そして、
一輪だけ供えられた風花。
侯爵は何も言わない。
ゆっくりと右手を伸ばし、
風花を手に取った。
白く、
小さな花びらが、
風に揺れる……
祭司が静かに頷く。
「どうか、
願風歸途をーー」
侯爵は目を閉じた。
掌へ風花を包み込み、
胸元へそっと添える。
長い沈黙が流れる……
やがて、
侯爵は風花を祭壇へ置いた。
花びらが、
ふわりと舞い上がる……
リーン……
その音へ重ねるように、
静かに口を開く。
「願風歸途……」
それだけだった。
父として、
息子へ贈る最後の言葉。
環風が、
その小さな声を包み込む。
誰も言葉を挟まない。
誰も涙を流さない。
ただ、
風だけが、
静かに吹き抜けていた……
祭司は静かに一礼した。
「どうぞ……
願風歸途をーー」
その一言だけが、
帰風崖へ響く。
シャミール侯爵家の者たちが、
一人、
また一人と、
祭壇へ歩み出た……
風花を手に取り、
胸元へそっと添える。
目を閉じ、
静かに頭を垂れた。
小さな祈りが、
重なっていく。
長年侯爵家へ仕えてきた家臣たちも、
同じように祈りを捧げた。
誰も多くは語らない。
最後の別れだけを、
風へ託していく……
遠古学院から訪れた代表も、
後へ続く。
胸元へ右手を添え、
深く一礼した。
一輪の風花が、
祭壇へ添えられる。
やがて、
最後の参列者が祭壇を離れる。
誰も振り返らない。
それが、
風送りの習わしだった。
リーン……
澄んだ音が、
帰風崖へ溶け込んでいく……
やがて参列者たちは、
一人、
また一人と祭壇へ頭を下げ、
静かに崖を離れ始める……
祭具を運ぶ者。
送風布を整える者。
参列者を案内する者。
誰もが声を潜め、
足音だけを残していく。
ノーラントン侯爵は、
なお祭壇の前に立っていた。
その背中へ、
誰も近付かない……
今そこに立っているのは、
侯爵ではない。
一人の父だったーー
少し離れた場所で、
二人の侯爵家の従者が、
祭具を抱えたまま足を止める。
「……聞きましたか。」
「何をだ。」
「交渉会場でのことです。」
もう一人は表情を曇らせる。
「よせ。」
「ですが……。」
最初の従者は周囲を確かめ、さらに声を潜めた。
「若様が交渉会場を出られた時刻と……。」
「エルブレス公爵のお姿が見えなくなった時刻が、ほぼ同じだったそうです。」
もう一人の従者は思わず息を呑んだ。
「その話は誰から聞いた。」
「廊下の警備に立っていた者です。」
「ただ、公爵も若様も、いつの間にか姿が見えなくなっていた、と。」
「二人がお会いになったかどうかまでは……誰にも分かりません。」
短い沈黙が流れる。
「ですが。」
「若様がお戻りになられた時……。」
従者は視線を落とした。
「先ほどまでとは、まるで別人のようなお顔をされていたと聞きました。」
「……」
「迷いが消えたようなお顔だった、と。」
崖へ掛けられた送風布がゆっくりと揺れ、
リーン……
風鈴が小さく鳴った。
その時だった。
「——今、何と言った。」
低く、重い声が二人の背後から響く。
二人は身体を震わせ、ゆっくりと振り返る。
そこには、
いつの間にかノーラントン侯爵が立っていた。
先ほどまで息子へ向けられていた悲しみは、
その瞳の奥へ静かに沈んでいる。
代わりに宿っていたのは、
幾度もの政争を潜り抜けてきた、
侯爵の眼差しだった。
「……続けろ」
二人の肩が小さく震える。
「侯爵様……」
「聞いたままを話せ」
逃げ道を許さぬ、
静かな声だった。
一人の従者は覚悟を決め、
深く頭を下げる。
「交渉会場で、若様が一度だけ廊下へ出られたと聞いております。
その頃には、エルブレス公爵のお姿も、会場にはありませんでした」
ノーラントンは黙って聞いている。
「二人が言葉を交わされたのかまでは、誰も確認しておりません。ですが、お戻りになられた若様は……
それまでとは少しご様子が違っていたと、侍従たちの間で話になっておりました」
「……様子が違った?」
「はい。迷いが消えたようなお顔だった、と」
ノーラントンは静かに目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、
交渉会場だった……
エルブレス公爵の姿を探した、
あの一瞬。
――『奴には奴のすべき用がある』
ソーン侯爵が何気なく口にした、
その言葉。
そして、
ピカが交渉会場を飛び出す直前の出来事……
長い沈黙が流れる。
「……そうか」
短い一言だった。
だが、
その胸には新たな疑問が静かに刻まれていた。
エルブレス公爵は、
あの僅かな時間に何をしていたのか。
そして、
ピカへ何を伝えたのか。
「……グランを」
ノーラントン侯爵は、
片手をわずかに上げた。
その小さな合図だけで、
一人の侍従は深く一礼する。
そして、
足早に崖道の奥へ駆けていった。
ほどなくして、
崖道の奥から、
重く落ち着いた足音が響いてきた……
トン……
トン……
トン……
その足音は、
ゆっくりと帰風崖へ近づいてくる。
ノーラントン侯爵は、
振り返らなかった。
その足音だけで、
誰が来たのか分かっていたからだ。
やがて、
一頭の巨大なミルバが姿を現す。
グランーー
長年、
ノーラントン侯爵と共に、
幾度もの風窓期を駆け抜けてきた相棒だった。
青灰色の毛並みは、
歳月を重ねた今も美しく風を受け、
頬から顎にかけては、
白い毛が静かに混じり始めている。
深い藍色の瞳は、
主人の姿を見つけると、
ゆっくりと細められた。
グランは何も鳴かない。
静かに歩み寄り、
大きな頭を侯爵の前へ寄せる。
「……グラン」
その声だけは、
どこか柔らかかった。
ノーラントン侯爵は、
白くなった頬をそっと撫でる。
「待たせたな……」
グランは小さく鼻を鳴らし、
主人の肩へ鼻先を寄せた。
言葉はいらない。
互いに歳を重ね、
互いを知り尽くしてきた。
それだけで、
十分だった……
ノーラントン侯爵は、
静かに鞍へ跨る。
そして、
一度だけ帰風崖を振り返った。
送風布は、
なお風の中で揺れている。
「……願風歸途」
そう呟くと、
ノーラントン侯爵は、
掌に残していた一輪の風花を、
静かに風へ放した。
白い花びらは環風へ溶け込むように揺れ、
ゆっくりと空へ舞い上がっていく……
その時、
一筋の涙が、
侯爵の頬を静かに伝った。
零れ落ちた雫は、
風へ乗り、
青い空へ溶けるように消えていく……
ノーラントンは、
もう振り返らなかった。
「行こう、グラン」
主人の声に応えるように、
グランは静かに地を蹴る。
巨大な翼が、
ゆっくりと左右へ広がっていく。
朝風が翼を満たした、その瞬間──
巨体は崖道を力強く駆け上がり、
やがて環風へ身を預けるように空へ舞い上がった。
灰色の海は、
少しずつ遠ざかっていく……
帰風崖には、
リーンーー
リーン……
澄んだ風鈴の音だけが、
静かに響いていた……
>いつも読んでくださり、ありがとうございます!
第64話は、ちょっと重い話しけど、
深い意味ありw
ビグトラス島の文化における「風送り」を中心に描きました。
この島では、別れは叫ぶものではなく、
風へ託し、海へ返すものとして受け継がれてきました。
その静けさは、悲しみを押し殺すためではなく、
旅立つ者の帰路を願うためのものです。儀式の中で揺れる送風布、
澄んだ風鈴の音、
そして一輪の風花。
それらは島の人々が持つ「風への信頼」と「祈り」の象徴......
次の話では、
この儀式が何を意味し、
ノーラントンいったい、
何かを気づいたーー
島の風がどこへ向かおうとしているのか、
さらに深い層が見えてくるはずですw
どうか、この先も見届けてくださいね~
♪\(^ω^\)




