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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編

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63話 ― 山道の雨――歪む環風

>第63話では、ビグトラス島の山道で続く避難の中、

環風が本来の流れを失い、


谷側から押し寄せる砂と雨が隊列を揺さぶります。

崩れた岩段、濁った水、巻き上がる石粉。


それぞれの種族が持つ力を寄せ合い、


互いを支えながら一歩ずつ前へ進む姿が描かれる回です。


そして、風穴の奥で脈打つ青白い光が、


島そのものの呼吸に“歪み”を生み始めている気配が静かに広がります。


避難の列が揺れ、声が繋がり、

誰かの手が次の誰かへ渡されていくーー


その中で、環風の異変が少しずつ輪郭を見せ始めます。

時刻:3670シヴン年12月25日 AM 07:35

場所:ビグトラス島・避難所山道北側岩壁


「全員、生きてここを越えるぞ!」


 エドリックの声が、崩れた山道に響いた。


 その号令を受け、止まりかけていた隊列が再び動き出す。


 カルヴァンの水膜防壁は谷側で大きく波打ち、カフロイェーが地面へ打ち込んだ雷土符紋も、泥の下で不安定に明滅していた。


 上方から落ちてくる小石は、まだ止まらない。


『パラ……』


『パラパラ……』


 濡れた岩肌に当たった破片が跳ね、避難民たちの足元へ散る。


 砕けた石粉は雨と混じって灰色の泥となり、外套や髪、頬へべったりと貼りついた。


 環風が谷底から巻き返すたび、その石粉が再び宙へ舞い上がる。


 砂を含んだ雨が横から顔を打ち、目の端を刺し、開いた口へ容赦なく入り込んだ。


「顔を伏せろ!」


「前の人から手を離すな!」


 防衛隊員たちの声が、風の中を何度も行き交う。


 避難民たちは前に進もうとする。


 だが、身体を起こせば風に押され、身を低くすれば足元の泥が膝を絡め取った。


 背負っていた荷が風を受け、身体ごと谷側へ引っ張られる。


 人族の男が咄嗟に肩紐を外すと、布袋は宙へ浮き、そのまま暗い谷へ吸い込まれていった。


「荷物は捨てろ!」


 エドリックが叫ぶ。


「命を優先しろ!」


 男は谷へ消えた荷物を見つめた。


 その中には、家から持ち出したものがすべて入っていた。


 けれど、隣で震える娘の手を握り直し、前へ向き直る。


「……行こう」


 娘は泣きながらうなずいた。


 琉火族の男は、掲げていた火膜を斜めに傾けた。


 正面から風を受け止めれば、火膜ごと押し返される。


 彼は膜の表面を岩壁側へ傾け、吹きつける砂と小石を外側へ流していた。


『ガガッ!』


 拳ほどの石が火膜の縁をかすめ、赤い火花を散らして砕ける。


 細かな破片が男の肩と頬を打った。


「ぐっ……!」


 皮膚の下で揺れていた火光が、一瞬大きく乱れる。


 背後にいた琉火族の少女が、怯えたように息を呑んだ。


「火が……風に持っていかれる」


「流されてもいい。消すな」


 男は腕を下ろさずに答えた。


「息を合わせろ。怖さに火を食わせるな」


「でも……止められない」


「止めるんじゃない。小さく保て」


 少女は震える両手を胸元へ重ねた。


 乱れていた火光が、細い灯のように少しずつ収まっていく。


 その小さな熱を、彼女は隣にいた人族の子供と樹族の老人へ向けた。


 冷えきっていた指先へ、淡い温もりが伝わる。


「……暖かい」


 子供が呟く。


 少女は涙をこらえながら、小さくうなずいた。


 樹族の若者は、老人の腕を自分の肩へ回したまま歩いていた。


 先ほど受けた石の跡が、湿った衣の下で赤く腫れている。


 さらに一つ、小石が背へ当たった。


『ドッ』


 若者の身体が前へ揺れる。


「もういい。わしは自分で立てる」


 老人が低く言った。


「このままでは、お前の枝が折れる」


「今日は、枝が根を支える日です」


 若者は息を切らしながらも、腕を緩めなかった。


「それに、この風の中で一本だけで立てる木なんてありません」


 老人は何かを言い返そうとした。


 だが、若者の肩へ回した腕に力を戻し、代わりに杖を前方へ伸ばした。


「なら、わしが足場を探す」


 杖先が泥の下を探り、硬い岩を見つける。


「そこだ。右足を置け」


「はい」


 二人は歩幅を合わせ、ゆっくりと前へ進んだ。


 その外側では、魚族の女が泥水を吸って重くなった布を広げていた。


 布の下には、数人の子供が身を寄せている。


 小石が表面を叩くたび、子供たちの肩が大きく跳ねた。


「目を閉じて。口も閉じて」


 魚族の女は、布の端を強く握りながら言う。


「息は鼻から少しずつ」


「苦しい……」


「分かってる。でも、石粉を吸い込まないで」


 谷側から風が巻き上がった。


 布の端が持ち上がり、砂と泥水が内側へ吹き込む。


 星織・雨がすぐにその端を掴み、身体ごと押さえ込んだ。


「こちらは私が持ちます!」


 魚族の女が一瞬だけ彼女を見る。


「お願い」


 二人で布を低く引き下げる。


 星織・雨の袖を、そばにいた魚族の少年が強く掴んだ。


「海なら……こんなの、怖くないのに」


 震える声だった。


 星織・雨は少年の手を握り返す。


 ここは海ではない。


 濡れているのに、水の中よりも足元が見えず、流れに身を任せることもできない。


「今は、波を見なくていいです」


 星織・雨は少年の目を見た。


「私の手だけ見てください」


「……うん」


「この手が動いたら、一緒に進みましょう」


 少年は唇を噛み、小さくうなずいた。


 鳥族の若者は、半ば広げた翼を低く構えていた。


 飛び立つためではない。


 背後にいる避難民へ吹きつける砂と石片を遮るためだった。


 濡れた羽へ小石が当たり、何枚もの羽が千切れて宙へ舞う。


『バサッ』


『ザザッ』


 風は羽の隙間へ入り込み、翼を無理やり持ち上げようとする。


 若者は歯を食いしばり、翼の角度を火膜の傾きに合わせた。


 琉火族の男が風を外側へ逸らす。


 鳥族の若者が、その流れを翼で谷側へ逃がす。


 押し戻された砂塵が、子供たちのいる場所を避けて山道の外へ流れていった。


「今のまま、少し下げて!」


 鳥族の若者が叫ぶ。


「分かった!」


 琉火族の男が火膜を傾け直す。


 魚族の女は、その隙に子供たちを布ごと前へ進ませた。


 樹族の老人が杖で安全な場所を示し、人族の母親たちが子供の手を順番に渡していく。


 誰が命じたわけでもなかった。


 一つの力で防ぎきれない場所を、別の誰かが埋める。


 火が風を逸らし、翼がその流れを逃がす。


 布が砂を遮り、背と腕がその布を支える。


 種族も、歩幅も、恐怖の形も違う。


 それでも今、彼らは同じ一つの隊列として動いていた。


「そのまま前へ!」


 ミコノパンが声を張る。


「止まらないで! 支えが必要なら、必ず声を出して!」


「右側、子供が遅れています!」


「前を少し止めて!」


「担架を岩壁側へ!」


 声が次々と繋がる。


 誰かの指示が途切れる前に、別の誰かがその先を受け取っていた。


 その時、前方の岩段から濁った水が噴き出した。


『ミシ……』


 カフロイェーの表情が凍る。


 先ほど固めた段差の縁が、わずかに浮き上がっていた。


 環風に押し込まれた雨水が泥の下へ溜まり、岩を下から持ち上げている。


「ヴァリク先輩!」


「見えてる!」


 ヴァリクは戦斧を構え、浮き上がった岩の隙間へ斧刃を差し込んだ。


 体重をかけ、岩を押さえ込む。


『ギギッ……!』


 金属と岩が擦れ合う。


 斧柄を握る両腕が震え、靴底が泥の上を少しずつ滑った。


「カフロイェー! 端じゃない、根元を固めろ!」


「はい!」


 カフロイェーは雷土術式槌を握り直す。


 だが、岩段の根元へ近づこうとした瞬間、正面から環風が叩きつけた。


「きゃっ……!」


 小柄な身体が後ろへ押される。


 片足が泥を滑り、谷側へ傾いた。


 近くにいた人族の男が、咄嗟に彼女の防衛服を掴む。


「大丈夫か!」


「は、はい!」


 カフロイェーは体勢を戻すと、男へ短く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「今度は俺たちの足場を頼む!」


「任せてください!」


 震える声で答え、彼女は再び岩段へ向かった。


 泥だらけの膝を地面へ押しつけ、槌を根元へ当てる。


「雷土固定――岩縫いわぬい、二重!」


 槌が打ち込まれた。


『ドンッ!』


 鈍い音が山道の奥へ沈む。


 雷と土の符紋が二重に広がり、浮きかけていた岩の根元へ食い込んだ。


 だが、岩段全体の震えは止まらない。


「長くは持ちません!」


 カフロイェーが叫ぶ。


「今のうちに通してください!」


 サラはすでに岩段の向こう側へ回り込んでいた。


 濡れた岩へ片膝をつき、こちら側へ手を伸ばす。


「子供からです! 手を伸ばして!」


 人族の母親が、自分の子供を前へ押し出す。


 子供は泣きながら岩段へ足をかけた。


「怖い……」


「私を見てください」


 サラが呼びかける。


「足元ではなく、私を見て」


 子供は涙で濡れた顔を上げた。


 サラの手へ向かって、小さな腕を伸ばす。


 後ろから母親が腰を支え、隣にいた魚族の男が肩を押した。


 一人目が渡る。


 次の子供が続く。


 負傷者の荷を先に渡し、大人たちが互いの腕を掴んで岩段を越えていく。


 その間にも、カフロイェーの符紋は泥の下で何度も揺らいだ。


『ミシ……』


『ミシミシ……』


「急いで!」


 ヴァリクが岩を押さえたまま叫ぶ。


「もう保たねえぞ!」


 最後に残ったのは、魚族の幼い子だった。


 星織・雨が背後からその身体を支える。


「大丈夫です。サラさんの手を見て」


 子供は震えながら岩段へ足を乗せた。


 その瞬間。


『バキッ――!』


 固定されていた岩の縁が割れた。


 子供の足元が沈む。


「いやっ!」


 サラは上半身を大きく乗り出し、その小さな腕を掴んだ。


 星織・雨も背後から腰を押し上げる。


 岩の裂け目がさらに広がった。


「引いて!」


 星織・雨の声に、サラは両腕へ力を込める。


 子供の身体が岩段の縁を滑り、サラの胸元へ飛び込んだ。


 サラはそのまま後ろへ倒れ、背中を濡れた岩へ打ちつける。


「サラさん!」


「大丈夫です!」


 痛みに顔を歪めながらも、彼女は子供を両腕で抱き締めた。


「もう離しません」


 子供は声も出せず、サラの服へしがみついた。


 同時に、ヴァリクが戦斧を引き抜く。


「カフロイェー、離れろ!」


 彼はカフロイェーの腕を掴み、岩段から後方へ跳んだ。


 次の瞬間、支えを失った岩の縁が一気に崩れる。


『ゴガラララ――ッ!』


 岩片と濁った水が谷側へ落下し、石粉が白い煙のように舞い上がった。


 環風がその粉塵を巻き上げ、ヴァリクとカフロイェーの背中へ叩きつける。


 二人は岩壁へ身を伏せ、腕で頭を守った。


 しばらくして、崩落音が谷の奥へ遠ざかっていく。


 ヴァリクは荒い息を吐き、カフロイェーの腕を離した。


「間一髪だったな……」


「す、すみません……私の固定が――」


「謝るな」


 ヴァリクはすぐに遮った。


「全員通した。十分だ」


 カフロイェーは泥と石粉に汚れた顔を上げる。


 崩れた岩段の向こう側では、サラが先ほどの子供を母親へ返していた。


 母親は泣きながら子供を抱き締め、何度もサラへ頭を下げる。


 その周囲では、先に渡った者たちが次の避難民へ手を伸ばしていた。


 誰もその場に座り込んではいない。


 足が震えていても、次に支える者のために立っている。


「……怖い」


 誰かが小さく漏らした。


「うん。私も怖い」


 別の声が答える。


「足が動かない」


「俺の肩を掴め」


「手を離さないで」


「離さない」


 短い言葉が、風の中で繋がっていく。


 泣き声。


 荒い息。


 互いの名前を確かめる声。


 そして、環風を恐れる声。


 ビグトラス島で生まれた者にとって、それはあまりにも重いものだった。


 環風は、島を巡るものだった。


 山の霧を逃がし、港へ穏やかな風を送り、旅立つ船の帆を押す。


 祭の日には風鈴を鳴らし、帰ってきた者を柔らかく迎える。


 誰もが、その風の中で育ってきた。


 その環風が今は、彼らの身体を谷へ押し落とそうとしている。


「環風が……怒ってるのか」


 人族の老人が呟いた。


「この島は、もう私たちを守ってくれないの?」


 子供の問いに、周囲の大人たちは答えられなかった。


 エドリックは、その声を聞いていた。


 恐怖を否定することはできない。


 彼自身も、風穴の奥で脈打つ青白い光に、言葉にできない不安を感じていた。


 それでも、ここで誰も答えなければならない。


「聞け!」


 エドリックの声が、雨と環風を裂いた。


 避難民たちが振り向く。


「今の風は、俺たちの知っている環風じゃない!」


 彼は黒い裂け目を睨み、短杖を握り締める。


「だが、この島が俺たちを捨てたわけじゃない!」


 青白い光が、裂け目の奥で再び明滅した。


「歪んだ風に押されるな! 足を置け! 手を離すな! 怖いなら声を出せ!」


 エドリックの声が、雨と環風を貫いた。


 谷側では、カルヴァンが押し潰されかけた水膜防壁を両手で支えている。


 腕は震え、杖先の術式光も何度も途切れかけていた。


 それでも彼は、エドリックの横顔へ一瞬だけ視線を向ける。


 苦しげな呼吸の合間に、ほんのわずか口元を緩めた。


「……もう、隠す気はないらしいな。エドリック」


 その声は環風に削られ、誰の耳にも届かなかった。


 カルヴァンは視線を防壁へ戻し、杖を握る手へさらに力を込める。


 エドリックは、狭所の先に見える岩場を指した。



「そこまで進めば、隊列を立て直せる!」


 ミコノパンもすぐに前へ出る。


「雷嶽小隊、左右を支えて! 前に出た人は、次の人へ手を伸ばして!」


「了解!」


 ヴァリクは戦斧を握り直し、谷側へ回った。


 カフロイェーも雷土術式槌を胸元へ引き寄せ、呼吸を整える。


「まだ行けます!」


「無理はするなよ」


「今度は自分の足場も見ます!」


「それでいい!」


 カルヴァンは削られ続ける水膜を押し広げ、残った術士たちがその両端へ術式光を重ねた。


 琉火族の火膜が風の向きを逸らし、鳥族の翼が砂塵を外へ逃がす。


 魚族の布が子供たちを包み、樹族の杖が次の足場を探る。


 人族の者たちは負傷者と荷を分けて支え、前に渡った者が後ろの者へ手を伸ばす。


 隊列は形を変えながら、再び動き出した。


 その上方で、風穴が低く唸る。


『ゴオオオォォ……』


 青白い光が、黒い裂け目の内側をゆっくりと巡った。


 エドリックの目が細くなる。


 ただの風ではない。


 環風の奥に、何か別の力が混じっている。


 島の呼吸が、何かに内側から引き裂かれている。


 その正体を確かめる余裕は、まだなかった。


「止まるな!」


 エドリックは短杖を前へ向ける。


「まだ、この場所を抜け切っていない!」




>いつも読んでくださり、本当にありがとうございます!


第63話は、戦闘ではなく


「避難の中での連帯」


を描いた回でした。


環風は島を巡り、霧を逃がし、港へ穏やかな風を送り、

人々の生活と共にあった存在です。


その風が今は、谷へ押し落とす力として吹きつけている。その異変の中で、


火膜、翼、布、杖、術式、声ーー


それぞれが互いの欠けた場所を埋め、


一つの隊列として前へ進む姿を描きました。風穴の奥で脈打つ青白い光は、


風穴の奥で脈打つ青白い光は、


島の呼吸が内側から引き裂かれているような気配を持ち始めています。


しかし、その正体はまだ見えません。


次の話では、


この“歪んだ環風”が何を意味し、

島全体へどんな影響を及ぼしていくのか、


さらに深い層が明らかになっていきます。どうか、この先も見届けてくださいね~


(^∇^)ノ♪

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